100日後に30歳になる日記(4)

(1)

 お母さんからよく聞かされた、お父さんのエピソードがある。

 あんたのパパはね、あんたが産まれたとき自殺しようとしたのよ。奥さんと子供を食わしていく自信がないって。

 大筋にするとそんな話だけど、お母さんが語るたび細部は変わった。脚色が施されているとしても、本筋は間違いないのだろうと思う。ぼくが小学五年生のときにもいちど、お父さんは自殺未遂をやらかしていて、そうかあの話はほんとうだったのだと得心がいった。お父さんはろくでなし。お母さんはそう口を酸っぱくして言う。そうだ、ろくでなしだ。ぼくもうなずく。だからあんたは、とお母さんは続ける。手に職つけてきちんとした大人になりなさい。
 父母はぼくが中学二年生のときに離婚した。

◆3月15日

 友人に誘われて、Re:ゼロから始める異世界生活のショップに行った。三日間限定で、札幌ファクトリーで開催されているらしい。会場にはいかにもオタク然としたひとたちが多くて、私もその一部となった。登場人物であるヒロイン、レムやラムの各種グッズが相応の値段で売られている。かわいいね。かわいいな。全部買ってしまおうか。パネルの写真を撮った。ラムのほうが好きだ。

(2)

 手に職をつけろと言われても、ぼくの生まれた地域といえば、主要産業は地主ならば農家があるが、あいにくしがない貧乏人、良くて市役所の公務員、ほかには車の整備士か介護職、小売業くらいしかない、あと数十年もすれば絶えてなくなってしまう北海道の片田舎。お母さんは最初、ぼくを看護師にしようとした。けれどもぼくは頭が悪くて、理系科目はちんぷんかんぷん。そうしたら見るに見かねてお母さんは、あんたは教師になりなさい、と言った。なるほどそういう道もあるのか。北海道には教育大学があるから、そこに通いなさい。ぼくは教師を目指すことにした。

 大学受験を経てぼくは教育大学ではない、別の大学に行った。文学部だった。お母さんは、せめて国語の教師になりなさいと言った。ぼくは教職科目を受講した。大学四年の春に、それで教育実習に行くことになった。向かった中学校は子供の少なさから統合していて、勝手知ったる母校ではなかった。住む家もなかったので、地域のお寺に電話して、三週間ばかり世話してくださいとかけあった。浄土真宗のお寺が、ぼくを受け入れてくれた。そこの坊主はなまぐさで、おうちにはピアノやワインセラー、褒賞が飾られていた。お坊さんは儲かるぞ、と坊主が言った。世襲の坊主らしかった。ぼくは地主でも坊主でもなかった。みたいですね、と肯って、お酒をごちそうしてもらった。

 教育実習では、一日目に教頭と、三日目に数学の教師と喧嘩して、なるほどぼくは教職に向いていないらしいということだけわかった。遅すぎる。ある日、実習の帰り道、コンビニの喫煙所の前で煙草を吸っていると、生徒たちに見つかった。先生、と彼らがぼくを呼ぶ。ぼくは手を振ってこたえる。生徒たちが近寄ってくる。君らは煙草とか吸わんの? ぼくは訊いた。生徒の一人がおずおずと答えた。アイコスなら。ぼくは眉をひそめた。中学生が健康に気遣ってどうする。ちゃんとした煙草を吸え。そんな発破は彼らにウケたみたいだった。ぼくは大学でのあだ名を彼らに教えた。そうすると距離は近くなり、会話は弾んだ。好きな女子とかいんのかよ。先生に教えてみ? 後日、体育の授業で、そのときの生徒の一人からあだ名呼びで先生と呼ばれた。それを目ざとくほかの教職員は叱った。ふざけた呼び方をするんじゃない。でもそう呼んでいいって言ってたんだぜ。ぼくは叱られている生徒に、目でごめんねと言った。伝わったかどうか知らない。こんな調子だったから、全面的にぼくが不適合者なわけである。

 卒業して教師になれなかったぼくに、お母さんは、まあ好きなように生きなさいと告げた。ぼくはもうしばらく実家に帰っていない。

(3)

◆3月15日

 
 札幌ファクトリーには喫煙所があって、コロナの間は閉鎖されていた。しかし久しぶりに訪れると、解禁されたみたいで、喫煙所には何人かたむろっている。私もいそいそと喫煙所に向かって、手持ちを一服した。

 コロナがあろうとなかろうと昨今は嫌煙ブームで、喫煙者は肩身が狭い。まあ煙草を吸わない人たちからしたら臭いしマナーを守らない人も多いしで、煙たがられるのも致し方ないのかなと思う。けれど私の血にはきっとニコチンが混ざっていて、父母その祖父母、みなが喫煙者だ。この血の運命のままに習慣化している。
 吸う煙草の銘柄で、喫煙者はそれぞれ偏見を持っている。母方の祖父はecho、母はLARK、父方の祖父はハイライト、父はマルボロメンソール。私はHOPE。きれいにバラバラだけど、人間が誰しも画一ではないように愛飲する煙草も違う。私が煙草を吸うようになってから、父の緑マルボロに僻目が湧いた。もう人生の半分以上、私は父を見てもいないし会ってもいない。生きているのか死んでいるのかさえ知らない。けれどなんども自殺しようとして、そのたびに死にきれなかった彼だ。きっとどこかで今も生き腐っているのだろうと思う。マルボロメンソールは死ぬ意気地のない人の吸う煙草だ。そんな偏見。

 けれども実際、私はこの年まで生きて、もう30を目前にして、少しずつ、父の気持ちがわかるようになった。奥さんと子供を食わしていく甲斐性なんて、私にもまだ備わってないから。死にたくなるときは実に多い。もうこのまま生きていてもどうしようもないと気が塞ぐ夜は数えきれない。そんなときに、気まぐれにマルボロメンソールを買って吸う。それはひどくまずい煙草で、好きな人には申し訳ないけど、私には合わない。よくも親父はこんなものを好んで吸っていたなと思い、俺はお前とは違うといきり立ち、けれども子供はおろか妻さえ娶れない我が身は、己の父にさえ及ばない。口直しにいつものHOPEを吸う。メンソール後のそれはひどく重たい。

(4)

 ぼくがお父さんに会ったのは、おじいちゃんが死んだ時だ。

 父方のおじいちゃん。ぼくの携帯電話にじかに連絡が入った。見慣れない番号で、出てみると叔母さんだった。お父さんの妹。ぼくはお父さんの電話番号を知らなかった。携帯を持つ前に別れていたので。

 おじいちゃんが死んだと告げる、あまり記憶にない叔母さんの声。どうやってこの番号を知ったのだろう。そんなことは疑問はどうでもよかった。お葬式、来る? と叔母さんは訊いた。そのころぼくは札幌で大学生をしていた。卒業間近で、どうせ講義もなかった。行きます、とぼくは応えた。お父さんは相変わらずぼくの地元でもある北海道の片田舎で暮らしているみたいだった。別れてから顔を合わさなかったのが不思議なくらいの田舎。葬式の会場も、そんな田舎のなんとなく土地勘のある場所だ。ぼくは必要になりそうなスーツやらなにやらを一気にカバンに詰め込んでJRで地元に帰った。

 支度をして、葬儀場に足を向けた。○○家みたいな案内は、いかにもぼくの苗字だった。ここか。ロビーに入ると人はうじゃうじゃしていた。ぼくはまごついた。知った顔を探そうと目をやり、人ごみの中、その男と目が合った。八年ぶりくらいだったけど、ぼくはわかった。お父さんだ。向こうも、すぐにわかったみたいで、ぼくのところに来た。来てくれたのか。男が言った。うん、とそっけなく頷いた。

 ぼくと男のあいだに、それきり会話はなかった。やがて告別式が終わった。ぼくは男と、便所で会った。大きくなったな。男は言った。まあね、とぼくは言った。ふたりは黙って手を洗った。

 式次第がすべておわると、ぼくは葬儀場を出て、駅までの道を歩いた。道中にコンビニがあった。ぼくはおじいちゃんの吸っていたハイライトを買った。封を切って、火を点す。路上喫煙はいけない。マナーが悪い。うるせえ。知ったことか。一息に吸って、吐く。煙が目に染みたせいかぼくは少し泣いた。

◆3月15日


 今日は父の誕生日だ。昭和生まれの年齢を私はとっさに計算できないので、私はgoogleで父の歳を調べた。69歳。まだ生きている年齢だろう。元気であればいいと祈る。私はマルボロメンソールを吸った。あいかわらずまずい煙草だ。ファクトリーの喫煙所を出て、私は近くのごみ箱に箱ごと捨てた。

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