日記なのだ?

 クリスマスイブの夜といえども平生と変わらずスーパーの総菜を食らうのだ。店までの道中はさすがにカップルや家族連れが目立ったのだ。ときおり一人歩いている人間もいるにはいるけど、風貌を見てみると男ならば顔をてかてかにして女ならば服と化粧をばっちりきめて、いかにも今からスケベしに行きますといった手合いが多いのだ。その点、当方は禁欲的な人間なので、から揚げ弁当を買って帰る一挙手一投足に至るまで平常心のままなのだ。レンジで温めるのだ。チンなのだ。そうしていつわりのぬくもりを一心不乱に腹に詰めて、今や自分にとっての聖夜は終わろうとしているのだ。

 メリークリスマスなのだ。昨日今日とnoteのサイトを開いては閉じ開いては閉じ、毎日投稿とかしている人間がふいに書いていないのに気付くと、ははあこいつもスケベしてるんだなと一人合点しているのだ。言わなくてもわかっているのだ。この文章を読んでいるひとたちも読む前にはスケベしていたはずなのだ。だってクリスマスってそういう時期なのだ。スケベした人間の文章はすぐにわかるのだ。洗っても落ちない腐臭がするのだ。そこにいくとこの文章は清冽で溌剌としているはずなのだ。それもそのはずスケベしてないからなのだ。ありつけてないだけなのだ。うるさいのだ。ありつけていないというよりはあえてしていないのだ。だって文章に矜持を持っているのだ。スケベごときに魂は売らないのだ。スケベは文章を毒するのだ。惚気は性病なのだ。恋は罪悪なのだ。そこのところをわかっているのだ? 

 このまえ、職場の上司と会話したのだ。きみは来年で30だっけ? そう訊かれたのだ。18です。答えたのだ。30だよね、と上司は苦笑して続けるのだ。そろそろいい人見つけた方がいいんじゃない? 心が千々にひび割れたのだ。うるさいのだ。そう叫びたかったのだ。けれど口から出た言葉は軽口だったのだ。いやあ女なんてもういいですよ。イキってるのだ。チー牛がイキるななのだ。イキるな、とタイピングしたところで変換されて生きるなと出たのだ。このパソコンは人のことをバカにしているのだ? 命をなんだと思ってるのだ。ミミズだってオケラだってチー牛にだって生きる権利があるのだ。生きたいのだ。贅沢は言わないのだ。人並みの幸せにありつきたいのだ。

 人並みの幸せってなんなのだ? 決まっているのだ。スケベなのだ。それよりほかに人の道はないのだ。スケベしたら文章が駄目になる? 思う存分駄目にしてやるのだ。大した矜持でもないのだ。犬にでも食わせればいいのだ。いい年して一銭にもならない文章をつらつら連ねている時点でもう腐っているのだ。スケベにありつけない妬みで他人様の作物の当てこすっていたり清冽や溌剌とはほど遠い恨み節だったりがその証左なのだ。スケベがあろうとなかろうとハナから腐ったものは腐ったままなのだ。発酵させるには未熟すぎるのだ。なあ、今、いったい何を書いているのだ? 恥。

 この時期は人並みの幸せに満たされた人間ばかりで、まったくイヤになるのだ。やむなくチー牛らしく推しのvtuberでも見ようかな~としたらクリスマスは体調不良で配信を休むみたいなのだ。風邪かなあ。心配なのだ。何分この寒い時節、皆様方に置かれましてもご自愛してほしいのだ。

 どうせ腐っているので一人でスケベをしたのだ。本来出るべきものより先に、涙が出たのだ。涙は人間が作るいちばん小さな海、と喩えたのはアンデルセン、きっと膿みの間違いなのだ。悔しヌきがいちばん効くのだ。黙るのだ。

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