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縦と横

11月7日の朝日新聞の天声人語は、縦社会の話しであった。中根千枝さんの『タテ社会の人間関係』を題材にしていた。

日本社会は職種などヨコのつながりが薄い。代わりに会社や部層のなかで、先輩後などタテの原理が強く働いていると述べた。閉鎖的な内部で「何らかの方法で『差』が設定され、強調されることによって、驚くほど精緻な序列が形成される」

タテ社会の閉鎖性、息苦しさは日本社会に蔓延していると記事は言う。パワハラやモラハラなどもそうだが、往々にしてヒエラルキーから生じるものであろう。

では、仏教教団はどうだろうか?インドの仏教教団は現前僧伽と四方僧伽で成り立っていた。現前僧伽とは、4人以上の僧侶で作られ、界という領域のなかで戒律に従い生活する。そこでは新月と満月の日に戒律を守れたかを反省していた。(布薩と言い、お坊さんの反省会に類する。)また、四方僧伽は現前僧伽がインド各地に点在していて、ともに仏教を教団であり、悟りを目指し努力している存在と言える。個別のリアルコンピューターの情報とクラウドとの関係にも近いのかもしれない。

このとき、教団内部の序列はどうであったか?というと…出家の順番で席が決まった。能力の差では決まっていない。能力となると権力者ができ、好き嫌いがどうしても反映されるそれを嫌がったのであろう。

寺の中の序列は、全くの年功制。「坊さんになってからの日数」だけで上下が決まる。まじめで立派でみんなに尊敬されて、どんなに素晴らしくて、お坊さんになって日の浅い人は下座である。逆に、修行などしないぐうたら坊主でも、年さえとれば上座に座る。そんないい加減な決め方では皆が納得しないのではないか、と思うかもしれないが、かえってそれだからこそ誰もが納得する。上下関係が、本人の資質や能力とは関係のない、出家してからの日数というつまらない基準で決まっていると、上下関係そのものがつまらないものになる。上座に坐ることに意味がなくなるから、人を押しのけて上に昇ろうという欲望が起きない。序列は単に、僧団運営を円滑化するための方便にすぎない。(78頁)

また、出家には師匠が必要なのだが、その関係もおもしろい。

僧団の内部は、法律がすべてに優先する、完全な法治社会だったのである。                 たちの悪い先生がいて、なにか罪を犯し、それを隠していたとする。だが、その現場を弟子が見ていた。弟子は先生の秘密を知ってる。この、サスペンスドラマ的状況で、弟子はどうしたらよいのか。そのことちゃんと仏教の法律に書いてある。弟子は先生に向かって、「先生、あなたのやったことは犯罪です。そのことをきちんと公にして、相応の罰を受けてください。それが修行者としての正しい道です」と言って説得しなければならない。弟子が先生を導くのである。教育は服従ではない。教育とは、教える者と学ぶ者が共に成長する。相互扶助の活動だということを、古代インドの仏教は知っていたのである。(82頁)

師匠も人間間違えは起こす。それを指摘し改善を促せというのである。

組織としてどうしても規律や序列は存在する。ただし、個人の意志で左右されないという点が大事であろう。

檀家さんがあって寺院は成り立っている。会員制クラブのメンバーと考えてみる。人間だから好き嫌いはもちろんあるが、平等に扱うが基本となる。また、住職は代表役員ではあるが、寺院はあくまで檀家さんがあってのものである。檀家さんの意見を聞く、「共に成長する」が目的であるべきだろう。

過日、戒名カフェに参加した。3回のすべてに参加して感じたのは、菩提寺への不信感であった。戒名への説明が不足している。質問を受け付けることを拒絶する。経済的状況を聞くことなしに戒名を押し付ける。片方の意見だけではわからない部分もあるが、寺院側は寺院側の論理だけで考えている。

組織にパワハラがあってはならない。またメンバー(この場合檀家さん)にできうる限りのディスクロージャー(情報開示)を行うことも必要であろう。

戒名カフェでは、まいてらメンバー寺院とともに参加者に説明や相談に受け答えをした。ともに悩みともに考えながら答える努力をした。インターネットを用いた四方僧伽的なもの(横的な存在)とも言えよう。自分の住職としてのあり方も、良き寺院住職たちと席を同じくすることで、学ばさせていただく機会でもあった。そういう意味では、相談者とメンバー寺院との両者から気づきを頂く貴重な機会でもあった。あたかも布薩のように反省させられる。

今後もこの試みを続けていく予定である。ご参加頂き、皆さんと話し合えたらよいなーと感じつつ。


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