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役割

過日、葬儀があった。出棺前の花入れ前、葬儀社が準備中のことだった。葬儀社が棺の上座に導師用の椅子を置き座るのを促した。

びっくりして、断り下座に普通の椅子にすわり、待っていた。

確かに、葬儀、法事等では、上座をすすめられる。二十代からされているからもう二十年ぐらい上座に座らされている。しかし、これは役割だから渋々で…、そこに座りたいか?と言われたら…座りたくはない。

であるから、施主もいないいわゆるバックヤードに近い位置で上座に座りたいかと言われると…ごめんこうむりたい。

現実に葬儀社の「先生」という表現は、後ろで舌を出しているだろうと考えているし、「先生と言われる程のバカでなし」と考え、気持ち悪く、座りがわるい。「住職」と呼ばれる方が何倍気持ちよいか…

現実に上座のその席を断り、自分で普通の席に座って葬儀者スタッフとそんな話をすると…驚かれた。実は、坊さんと葬儀社に上下関係がないこと、互いによい仕事を心がけることをという話をした。

もちろん、我々は葬儀社の仕事振りを見、確認し、檀家さんに情報を提供すべきだし、そのためには袖の下などもらってはならない。それは、葬儀社側も僧侶を査定してよいのだとは思う。

役割として上座にすわる。ただ、それはその場でしかない。人格がすぐれているから上座でではない。

気をつけないと、肩書に囚われ、本来の自分やあり方を問うことを忘れぎみだ…

今、2日に一度、トイレ掃除をしている。素手で掃除することで、もう一度裸になり、自分を見定める行為にしている。

トイレも含め、下座行というものは、自分をもう一度みなおす機会でもある。大切にしたい時間だと考えている


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