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是でも非でもなく

過日は友人たちと勉強会を開いた。
とある日蓮聖人の遺文をテキストにしていて…死後の世界があると考えて生きるのか否かで、死にゆく人へのアプローチが変わるのではないか?という話になった。
従来から、私自身は死後の世界はわからないと言っているのもあり、死後の世界をご遺文通り信じることを批判すると思われたようでどう思うのか?を聞かれた。
個人的には、信じている間違ってないと思うならば主張してもよいとは思う。信じていないでご遺文がそうだからならば、主張しないほうがよいのでは…と思うと話した。
信じていることは、犯罪や人を傷つけないなら問題はないが…信じてもいないことをあたかも信じているかのように言うのはいただけない。
ただし、個人的に信仰というものを強制したりすることは基本したいとは思わない。
デスカフェや生老病死を考えるワークショップでは、他者の生老病死を考えるそこから自分の生老病死を考えるを行うことが多い。
そこには、仏教でいうならば諸行無常という理に基づく苦しみとどう向き合うのかが問われているとも言えよう。
諸行無常が苦しくないと考えるなら、仏教と関わる必要は、おそらくない。
しかし、そこに苦しみを感じるなら、キリスト教のような神の命令に従うものとしてではなく、人生の哲学や処世術に近い形で仏教的思考に自然近づくのではないか?とは考えている。
そういう意味で仏教を布教しているとは言えるかもしれない。
来世の有無も究極的には、それぞれの心の問題と関わる。来世がないとやっていけない人もいる。肉体がなくなっても共に生きていると考える人もいる。
どれが正解でどれが間違えということはないと思う。
ただ、出来得る限り、冷静に、自分の都合でものを見ることなく有りたいと願っている。何教だ、何宗だに囚われるのでなく、浅学非才なりに苦と向き合うを目指したいと思う。

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