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ほどよい緊張感

6月23日の読売の朝刊 に将棋の羽生善治さんが、オリンピックに関して、ほどよい緊張感の必要性を話している。緊張感を持つということは、仕事をなす上で大事なものではあるが、強すぎるときつくなる。

日蓮宗の現代宗教研究所に関わるようになって、約15年になる。その間研究員であった10年間毎年発表し、所報に論文を掲載されてきた。その間は程よい緊張感の中にあった言える。しかし、10年を過ぎ研究員としては古株になり、代務寺院の住職ともなり、些か書くための労力の捻出が厳しくなり、研究員を降りて、発表義務のない嘱託に変わった。

近年、発表という緊張感が伴う作業を行うことがなくなり、まとめるという作業がへり、読んでそれっきりになりがちになっていた。そこで、このnoteやアメーバブログを用いて記録を残したりするようになった。

それでも、直観的編集は行うが、論文発表ほどではない。そこで、昨年は実験的に嘱託会議で発表をオンラインで行った。しかし、オンラインとリアルの現場での発表はなかなか交流が取りづらい、オンラインならオンラインの方が意思疎通がおこなれやすいということが分かったという感じであった。

発表準備に比べ、発表そのものの手ごたえが良くも悪くもないというのは問題だと感じるが、適度な緊張感と文責があることがnoteにはない感覚だと感じます。

真理の言葉(ダンマパダ)には以下の言葉がある。

読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎む人が汚れる。(18章 241)

発表もこのnoteもなおざりになると・・私が汚れると言われているように感じます。すこしでも進歩するように努力し続けたいと考えています。



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