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「飽き性」と上手に付き合って行く方法とは?【飽き性シリーズ②】

先日、こんな記事を書いた。

飽き性な自分と上手に付き合いたいという気持ちから書いていた原稿だが、答えは出ずに読者に結論を投げるというオチだった。

そもそも文中に「自分の性質とうまく付き合っていく方法を考える記録である」と明記しているにもかかわらず、途中で投げ出しているので、この次点ですでに飽き性を発揮しているではないか。この甲斐性なしめ。

まぁそうやって自分を詰っていても、飽き性がなおるわけではないので、ちょっと真剣に考えてみた。(ちょっとね)

まず、飽き性とは「集中力がない」ことに集約されるのではないか?という仮説をたてた。

そういえば小さなころ、わたしはひとり学習が全くできなかった。
自宅でひとりっきりで勉強することができなかったのだ。

問題集を開いて、最初の出題文を読み始める。数問解く。回答を鉛筆で書く。そして次の問題へ。と繰り返しているうちに、ちょっと躓く。答えがすぐに出てこない。これまでリズミカルに回答を導き出していた思考回路が、そこで止まる。

そうするとわたしの思考は、目の前に落ちている消しゴムカスにフォーカスし始める。
「このケシカス、色が濃いなぁ」
「きっとこの鉛筆の色が濃いからだ」
「ていうかシャーペンに変えよう」

シャーペンを探すべく、勉強机を立ち上がると、もうダメだ。集中力を途切れさせたわたしが勉強机に戻ることはない。そのまま目についた興味の対象に従って、家の中外をウロウロして1日が終わる。

もちろん言いつけられた勉強が終わっていないので、先生にはこっぴどく怒られる。

そのうち、コイツはひとりにしておくとまともに宿題もしないと思われたのか、先生(家庭教師ときもあれば両親のときもある)が問題集を解くあいだはずっと隣に張り付いてくるようになった。

そうするとあら不思議、問題集のノルマは簡単にこなせるではありませんか。

ずっと隣にコワイ顔をした大人が張り付いているもんだから、恐怖のあまり、集中せざるを得なかったのだろう。

この状態で休憩を適度に入れつつ、要所要所でヤレバデキルジャナイカと褒められていると、勉強が楽しくなってずっと勉強していられた…気がする。いや楽しかったのかはあんまり覚えていないが、まぁそれなりにやっていた。

そうすると、最初に立てた「飽き性の原因は集中力がない」はあながち誤りでもない気がしてきた。

もっと言えば「集中はできるが長続きせず、切れると元に戻せない」が集中力がない状況をつくりだしていたのだろう。

ということは「集中力をいかに長続きさせるか」を考えれば飽き性がなおるんじゃなかろうか!

でも集中力というのはデリケートなやつだから、付き合い方には気をつけなければいけない…。

実際、もう考えるのに飽きてきた。
付き合い方について書くのは次にしよう。

やっぱり集中力は長く持たないようだ…

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