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バディというものに憧れ始めたのは、大学生の頃だった。

 フィギュアスケートというスポーツと人生の半分を過ごした。全国大会にも出場した。それだけやっていれば、ライバルの1人くらい居そうなものだが、いなかった。みんな辞めていったのだ、私を置いて。小学生の頃はまだ、「大会に出ると順位が並ぶ友達」はいた。しかし彼らはライバルではなかった。私より遥かにうまく、光るものがあり、先生にも気に入られている。客観的にどうだったかはわからないが、少なくとも私はそう感じていた。ライバルなんておこがましい、置いていかれないように必死だった。中学生になる頃には、その友人たちはほとんどがスケートを辞めていたし、私は引越して全く別の地方でスケートを続けていた。新しい土地でできた「年齢や順位の近しい友人たち」も、ライバルではなかった。順位が近いとはいえ、上下は大体決まっていたし、スケートは段位ならぬ級を取得し似たような級の中で争うのだが、その級が違ったのだ。そういった明らかな差異のある中で、次第に熱意にも差を感じるようになった。自分は中学生当時、本気でオリンピックに出るつもりでいた。結局出れていないので、夢みがちな子供の戯言でしかないのだが、それでも本気だった。そういった意味でも、当然のように高校や大学に進学する未来を見ている友人たちとの違いを、寂しさを底はかとなく感じていた。その友人たちも高校に上がる頃には誰1人いなくなった。3つ以上歳下の子たちしかいないチームになった。高校生と中学生、高校生と小学生。いくら小中学生の子たちが上達しようとも、やはり自分にとっては妹や弟のような存在であり、ライバルというより「手本でなければ」という気持ちの方が強かった。その気持ちがついに、私の上達を止めてしまったのかもしれない。あるいは、身体的な限界もあったのかもしれない。最後の2年間はついぞ新しいジャンプを跳べるようになることなく、スケート人生の幕を閉じた。全中に出ても1人、インターハイに出ても1人、大抵の選手が普段から同じコーチの元、あるいは同じ地方で切磋琢磨している延長として全国の舞台で競い合う中、私は常に自分だけがライバルだった。
 スケートから離れ、大学生になった。ある日ふと、かつて熱中していた漫画ONE PIECEを読み直した。すると今まで感じたことのない苦しさに見舞われ、声をあげて泣いてしまったのだ。涙を誘うシーンではなく、彼らがキラキラと眩しい笑顔で、不屈の精神と不敵な笑みを携え突き進んでいく明るいシーンを見て、涙が止まらなかった。ああ、これか。自分が欲しかったのはこれなのだ。何があっても信じられる仲間、負けたくないと思える存在、「この人に恥じない仲間でいるために自分は頑張るんだ」という気持ち。ずっと心の奥底で燻っていた感情と目が合ったとき、雄叫びをあげ、涙を流し、地団駄を踏んだ。自分はずっと、寂しかったのだ。他人をライバルと思えない、仲間として見られない傲慢で独りよがりな性格のくせに、ライバルや仲間が欲しくて寂しかったのだ。自分の愚かさに気がついてからは、時折フィクションの世界で見かけるバディに悔し涙を流すことはあっても、それまでより清々しく素直に過ごせた。大学2年生にもなるころには、バディ、と呼んでもいいのではないかと思える友人ができた。フィールドは異なるけれど同じ温度で頑張っていて、お互いの苦悩、愚かさ、希望を話すことで絆を深めている感じがした。
 ずっと渇望していたバディを得てからの私は、自信を持って、いや自信を持ちすぎて幾分か能天気になりながら様々なことに挑戦した。生まれて初めて、自分の気持ちだけを考えて行動した。自分がやりたいことはなんだろう、自分が楽しいと思えることはなんだろう、自分に素直な行動がしたい。そんな気持ちと順調だった就職活動、その速さが噛み合わず、1年休みをとり海外で過ごすことにした。
 さて、この行動が私の、生まれたての「バディ観」を大きく変容させることとなる。海外での暮らしは孤独で、快適だった。バディができた束の間、私はバディ以外の人間にも心を開きすぎ、時には尽くしてしまい、消耗していた節があることに気がついた。異国の地で「外国人」として扱われること、何も期待されていないところからスタートできることが当時の自分には心地よく、伸びやかに力を発揮することができた。時に心ない言葉で刺され、大勢に馬鹿にされながらも、同じ「外国人」として夢を追い異国に腰を据えている人たちとの交流を経て、人間はどこまでいっても1人で、それが美しいとまで感じるようになった。自分だけが一人ぼっちで、それは全部自分のせいで、1人は寂しいと思っていたのが、人間は皆1人で、でも1人生きていることはカッコよくて、美しいなと思うようになった。(これを書いている今、数年ぶりに、あの孤独を肯定した心の温度を思い出し涙が一筋だけ溢れている。)
 そうして私はまたしても、孤独になった。孤独であることを肯定しながら。帰国してすぐ、今までやりたかったけれど尻込みしてできなかったことをやりまくった。だって私は1人だから、私が喜ぶことを考えて生きればいいのだ。自分の書いた詩を元に脚本を構成し、独り舞台をやった。中学生の頃鬱屈とした感情の吐口として書いていた、自意識過剰すぎて誰にも見せられない小説を物語として成立させ、新人賞に応募した。友人たちは皆就職し上京していたため、精神的にだけでなく本当に1人だった私はそうして淡々と自分のやりたいことだけをやった。気がつくと将来について何も考えないまま、大学生活が終わろうとしていた。そのまま好きなことを続けていればよかったのに、と今では後悔しているが、卒業が迫った時なぜか私は突然家族の存在を思い出し、一人っ子だしとか家族を養うためにはとか、今まで散々自由にやってきたくせに様々な責任を感じ、耐えきれなくなり当時持っていた内定の中で一番条件がいい会社に就職した。そしてまた、孤独を肯定できなくなったのだ。
 1人に慣れすぎていた私は、突然入った会社というもので完全に浮いた。なぜ理不尽がまかり通るのかも、曖昧が曖昧なまま放置されているのかも、全くわからなかった。時間が経ち、会社を構成する一人一人のことがわかるようになった今では「仕方ないかもね」と思っている。それでもやっぱり、誰かのために、みんなで生きていくための「仕方ない」が沢山転がっている世界で1人であることは、美しくもなんともなくただただ寂しいように思えた。バディは、恋人や家族でもいい。会社にいる必要はないし、ライバルである必要もない。それでも私は、バディがライバルや仲間と呼べる存在であることに拘った。そして、やはりバディはなくてはならないもので、自分は一生バディを渇望し続けるのだと思うようになった。これが今の私の「バディ観」だ。
 清居と平良のように強烈に惹かれ合う関係ではなく、萩原利久さんと八木勇征さんのような過去を共有し同じものを目指せる関係に、心底憧れているのだ。今回、雑誌an・anの特集「バディの化学反応」を読み様々なバディの形があることを知った。師弟関係も、コンビという枠組みも、気ままな2人の気分がたまたま一致するという関係も、どれも素敵だと思った。ありがたいことにその内の幾つかは自分にも経験があった。だからこそ、自分が渇望するバディはライバルで仲間なのだと改めて認識するに至った。隣の芝が青く見えているだけかもしれないし、手に入れてみたら大したことがないかもしれない。だけど、「バディが欲しい」というある種劣等感にも似た渇望は確かに自分の原動力となっている。仲間やライバルと出会うためには、自分の夢や目標に素直でないといけないし、そこに時間を使い、公言していかねばならない。子供の頃はそれができていたけれど、地方の小さな世界いたことや自分の過剰な自意識が邪魔をしてライバルを得ることができなかった。大人になってからは、行動範囲が広がり自分が特別だという認識もなくなった一方で夢や目標を見失い、そのたねとなる感情を表に出すことを躊躇うようになった。再び孤独を寂しいと感じられるようになった今、自分にだって素敵な「バディ」はいたけれどそれでも喉から手が出るほど求めているのが「ライバル」なのだとわかった今、躊躇うことなく「これが好きだ!」「これがやりたい!」と声を上げながら少しずつ手足を動かし始めた。生涯、憧れで終わるかもしれないが、いつか出会うライバルのために頑張り続けることができるのならそれでいい。あなたにとってのバディは、どんな関係性ですか?その人は今も隣にいますか?かつていましたか?まだ出会っていませんか?あなたのバディ観をぜひお聞かせください。

 以上が、私の「バディ観」の変遷です。



この記事を書くにあたり影響を受けた特集


 an・an No.2308では、ラッパーのTaiTanさんとMONO NO AWAREでギターボーカルを務める玉置周啓さんが「人々はなぜ今バディに惹かれるのか」について語っている。(2人はポッドキャスト番組「奇奇怪怪明解事典」のMCを務めるバディでもある)たった1ページの短い対談の中で何度も「なるほど」と唸らされる内容を鋭い言葉で表現されており一気に2人が好きになった。同じ見開きの反対側、1ページでバディもとい「ツレ」について語っているのが山内マリコさんである。私は彼女の著書「あのこは貴族」の大ファンなのだが、あの物語が私の信じるバディ観に近しい「社会的には無用とされる関係の中で築かれる繋がり」に基づいていることを再確認できる、素敵な文章であった。様々な関係性にあるバディたちのインタビューはもちろんのこと、「なぜ、今バディなのか」もぜひあなたのバディ観を深めるべくご一読されることをお勧めする。


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