今再び「批判の批判、やめませんか」

はじめに

 先日、.LIVE公式Twitterで8月24日に豊洲PITにて開催予定のイベント、電脳少女シロ生誕祭の出演者が発表された。この発表について、様々な意見や、その意見に対する批判などが交わされるのを見た。
 当記事は、本件に関する筆者の個人的見解を述べるものではなく、本件を元に、.LIVEファンあるいはVtuberファンの方々に対して意見を述べるものである。先述の.LIVE公式の出演者発表ツイートにリプライをしている人や、他人に「意見はマシュマロに送れ」と書いたり言ったりしたことがある人などを主な対象としており、これらの人に特に読んでいただきたく思う。なお、個人的見解についてはまた後日、別の記事にて書く予定である。
 大前提として予め書いておくが、Twitter上など表で特定個人や特定のVtuber(以下Vと表記)を誹謗中傷、攻撃するようなことは当然あってはならないことであるし、当記事はそれらの行為を擁護するものではない。当然、当記事内での記述において特定のVを批判や攻撃しないしその意図もない。また当記事はあくまでも筆者の考えを述べるもので、これを絶対的に正しいと押し付けるものではない当記事の目的は、今一度ファンの在り方について考えなおしてみないか?本当に今のままでいいのか?現状が正しいのか?という問題を提起するものである
※9/1追記:当記事の内容は公開当初の状況に基づくものであり、現状(特に8/30事件以降)とはややそぐわない可能性はあることに留意頂きたい。

長い三行で

・Vの好き嫌いやVへの考え方は人によって様々であるものだ
・自分と違う考えは許さない!ではなくファンにも多様性を認めて行こう
・表で意見を言うことは悪ではない、批判と中傷・議論と喧嘩は違う

何が問題なのか

 さて、今回生誕祭の出演者の発表によって賛否両論で荒れたわけだが、一体何が問題だったのだろうか?それを明確にするのは難しい。何故なら本件はあくまでも感性的、感情的な問題だからである。出演者の発表のどこに不満を抱いたのかというのは人それぞれだが、少し考えられる例を挙げてみよう。(あくまでも個人的な意見ではなく、こういう人もいるだろうという例)

・純粋に人選に疑問派:委員長はわかるけど本間さんを呼ぶ理由が少し謎
・Vは何でも見るけど.LIVEが1番の推し派:ゲストが来てくれるのは良いんだけどアイドル部からは2人だけなの?全員見たい
・.LIVE以外見てない・興味無い派:部外者のゲストとか別にいらない
・にじさんじが好きではない派:好きじゃない人にゲストに来られて不愉快

 もちろんこれ以外の不満や考え方もあるだろうし、これがすべてだと言いたいのではない。ここで大事なのは、これらの意見全てにおいて、正しいとか正しくないとかいう話ではない、ということだ。

人はキリストにはなれない

 先に挙げた意見例に正しいも正しくないも無いと言ったが、それは至極単純に、人間の考え・感性は十人十色、好き嫌いも様々だという話だ。
 もしピンとこなかったら、考えて見てほしい。あなたは適当に街に出て、目に映る全ての人間を同等に受け入れることができるだろうか?1人たりとも目に入るだけで不快に感じたりせずにいられるだろうか?くたびれたリーマンも、奇抜な格好の若者も、浮浪者のオッサンも、マナーも何も無いクソガキも全て同等に。
 ハッキリ言って余程の聖人君子でもない限りそんなのは不可能だろう。人間誰しも、人の好き嫌いや合う合わないと言った部分はあるのだ。
 それと同様にVにも魂が宿る以上人それぞれの好き嫌い・興味あるなしがあるのは自然なことであるし、またVというものへの考え方も様々であるものだ。であるならば、本件について賛否両論様々な感情を抱かれるのも当然の話であると言えるのではないか。

「心が狭い」という言葉

 しかしながら、V界隈では全てのVを受け入れる・好き嫌いせず見ることこそが正義であるといった風潮・同調圧力的なものがあるように感じられる。批判を許さない風潮、全肯定風潮ともいうものだ。
 それが明確に表れていると感じたのが、「(出演者の発表に対して批判している人間は)心が狭い」というような内容のツイートだ。このような内容のものが先述の.LIVE公式のツイッターでの発表ツイートへのリプライの中にいくつか見つけられた。だがそれは批判の批判としては的外れ、辛辣な言い方になってしまうがブーメランもいいとこ、ではないだろうか?世の中には様々な考えの人が居て、本件に批判的感想を抱く人もいる。それらの「自分とは違う考えの人々」を受け入れることが出来ない人間が、「違うVを受け入れることが出来ない人々」を批判する権利があるのだろうか?

それは本当に「推しの為」?

 話が変わるが、筆者はレッテル貼りという行為が非常に嫌いである。あるいはまともな議論ができない人間が嫌いである。
 だがしかし、残念ながら本件でも相変わらず、批判の批判をするためならば何でもありとばかりにレッテル貼り行為が横行している。いくつか見かけた例を挙げると、「批判をしている奴は荒らしか対立煽りなど、元からファンじゃない奴だけだ」とか「今回の件で文句を言っているようなのはどうせチケットを買ってすらいない」とかいうものなどだ。
 どちらもしょうもない決め付けに過ぎないのであるが、前者に関しては一部理解できなくもない。つまり「表で見える範囲で」「匿名もしくは明らかな捨て垢を用いて」「誹謗中傷している」のはそういった荒らし目的が殆どだ、と言うのは妥当な意見だろう。そのような誹謗中傷は批判されて然るべきである。だからここで言いたいのは批判の対象を混同してはならない、という話である。ネガティブな意見・感想や批判的思考が罪なのではなく誹謗中傷が罪なのである。批判するべきは暴言それ自体だけだ。レッテル貼りをすることによって、批判的感情を抱いていてもそれを冷静に議論できる普通の人間を巻き込むようなことはやめていただきたい、と思うのだ。

 普通のファンの中にも批判的感情を抱いている人がいても何らおかしくはない、というのは既に述べた通りだ。しかしながら、先の節で書いたようにV界隈では批判的感情を持つこと、何でも受け入れる以外の感情を持つことそれ自体が悪であるという風潮が支配的であり、事実それらの考えが前者のようなレッテル貼りに繋がっているのだと考えられる。このような環境になっている現状を筆者はとても悲しく思っている。何故ならば、そういったレッテル貼りによって、「批判的感想を抱くのであればお前はファンではない」と言われているようだからである。

でも、それって本当に「推しの為」になるんですか?

 よく批判的感想や意見を批判する人、意見は全部マシュマロに投げろと言う人は「推しに迷惑がかかる」とか「推しが見たらどう思う?」などといった言い方をするのを見る。だが、そのような批判の批判やレッテル貼りをするのは本当に推しの為ですか?と思うのだ。そういう言い方をすることは推しの迷惑にはならないのか?そうやってファンの中の多様性を認めず、同調者(すなわち全肯定以外の意見を持たぬ者)以外を排除するのが本当に推しの為になるのか?そうやって排除することで推しは喜んでくれるのか?あなたの推しはファンの在り方にそれを求めたのか?滅茶苦茶辛辣な言葉で言うが、ハッキリ言ってあなた方は「善良で模範的なファンである自分」に酔ってるだけじゃないんですか?と筆者は思うのだ。

歴史は繰り返す

 今回の件で一気にTwitterが荒れたり不満が爆発したりしているのは、こういった批判の批判をする人たちのせいじゃないかというのが筆者の考えである。これまでどこかしらで不満を抱えてきた人のうち大多数は、その不満を表に出さずに内に秘めて我慢してきたのだと思う。「不満を言うことは推しに迷惑をがかかる」という歪んだ共通認識の下で。
 だがため込んだ不満はいつか爆発するのが常である。今回は生誕祭の出演者発表をきっかけにそれが起こったというだけの話ではないだろうか。
 筆者の経験上、このように「1つの意見しか認めない環境」というものは、必ずいつか爆発するものだと思っている。具体的な名前は出さないが、とあるお方やとあるフリーゲームのヴァリアントなど、過激なファンが否定的意見や苦言を呈したファンを攻撃し続けた結果悪い方向へ進み続けてしまった例を見てきたからだ。

 というかそもそも、筆者は既に過去にも同じようなことを書いているのだ。ガリベンガーV第11話、ゲストが北上双葉とぽんぽこ+スタジオ観覧ピーナッツ君の回が放送されて、Twitter上で同じように不満があふれた時だ。

 最初の方で皆不満があっても我慢していて、それが1つのきっかけで大きく噴出したのではないかと述べている。これも小規模ではあるが似た事例だろう。残念ながら筆者は知名度も拡散力も無いし、そもそもVのファンを殆どフォローしていなかったので、これはあまり読まれることも無かったが。

表で意見を言うことは悪ではない

 さて、今話題に挙げたガリベンガーVの件の後、ばあちゃる氏がチャンネル登録者数10万人記念配信にてその件に関しても言及していたのを覚えているだろうか。だが筆者はその時のばあちゃる氏の発言を変な解釈の仕方をしている人が居て、それを以てして批判の批判ををする際の根拠としている人が居るのをとても歯がゆく思っている。それは「『シロちゃんとアイドル部だけのガリベンガーVが見たい』という意見は言ってはならない」という解釈、そして「意見や感想を表で言ってはならない・全部マシュマロに送れ」とばあちゃる氏が言ったという解釈だ。
 もちろん、ばあちゃる氏の発言の真意はばあちゃる氏以外は知りようがないわけだから、筆者自身の解釈が絶対的に正しいというつもりは無いし、これを押し付けるつもりもないが、しかし今挙げた2つの解釈に疑問を呈するだけの根拠はある
 まず前者の解釈に対しては、そもそも「アイドル部だけの番組であってほしかった」という意見が出ることを止めたいのが本題であるならば、もっと簡単な方法があるというのが1つ目だ。我々はばあちゃる氏を信頼している。そのばあちゃる氏が、本当の理由ではなく建前であったとしても「○○××といった理由でアイドル部は忙しいからガリベンガーVへの出演を1人ずつにしてもらっている」というような発表をすれば、殆どのファンはそれなら仕方ないと納得しただろう。例えばhPaの発表直後ということも踏まえれば、「hPaの準備のため」とか、もっとふわっとしておきたければ「ばあちゃる学園の新学期が始まって忙しい」とかそれらしい理由を言うだけでファンの鎮静化はより簡単に素早くできたはずだ。
 そして2つ目に、この時のばあちゃる氏の発言の本題は「関係者への辛辣なコメント、個人攻撃や暴言などはやめよう」だと筆者は考えているからだ。そう考えた根拠となるばあちゃる氏の実際の発言を引用してみよう。

「皆思ったことはもちろん発言するべきだと思うし、我々にはそれを『ダメですよ~』といえない」@43:10~
「言い方によっては傷つく人が出る」@44:10~
「一緒に番組出たせいでなんか言われちゃうとかなっちゃったらそれはすごい可哀想なことだと思うのでやさしくしてもらえたらな」@44:35~
「言葉の選び方によって頑張って作っている人・一緒に出てくれる人が傷つくようなのは(よくない)」@45:41~)
「伝え方(の問題)なのかな」@46:29
「番組作ってるのも人間であるという所も理解したうえで接してもらえると」@49:57~
「共演者の人に対する優しさも必要じゃないかな」@50:12~
※括弧内は筆者による補足、@は発言のある動画内時間

 ばあちゃる氏はまず最初に「思ったことはもちろん発言するべきだ」「それ(=発言すること)を『ダメですよ』とは言えない」と言っている。この時点で既に、この節の初めに挙げた2つの解釈、どちらも正しい解釈とは言えないということに気付くだろう。その上で「言い方」「言葉の選び方」「伝え方」と繰り返している。故にこれがばあちゃる氏の発言の中での重要なキーワードであり、「それによって傷つくようなことは良くない」「優しさが必要である」即ち「意見を言うのはいいけど、関係者への辛辣なコメント・個人攻撃や暴言などはダメだ」というのが主題だというのが筆者の解釈だ。

 長々とばあちゃる氏の発言の解釈について語ったが、要するにこの節で言いたいのは、「表で意見や感想を言うこと自体がダメというわけではない」という話だ。ここで書いてきたように当該配信においてばあちゃる氏は「意見は全部マシュマロへ送れ、それ以外では意見するな」などとは言っていないのだ。もちろん、ここをこうしてほしいといった要望はマシュマロに送る方が直接届くため伝わりやすいと思うが、「それ以外の意見や感想も全てマシュマロへ送れ、Twitterなど表では一切書くな。馬がそう言ってただろ」という主張は間違っている、と筆者は考えている。

Twitterは「あなたのもの」ではない

 更にそもそもの話、である。例えばTwitter上で、他者の意見やツイートについて制限するのはおかしな話ではないだろうか?
 Twitterはあなたのものではない。もちろん自分のものでもない。Twitterで書いてはいけないことを決定するのはTwitter社だけであって、Twitterの規約(と日本の法律)に反するような事でない限り、ある一定の意見や思想を書くことを他人が辞めさせるような権利はないはずだ。ばあちゃる氏は当然それを理解しているからこそ、先の配信においても「それ(=発言すること)を『ダメですよ』とは言えない」とわざわざ一番最初に言ったり、強制するような言い方にならないよう、あくまでも配慮をお願いするという形で非常に言い方に気を遣って話していたのを筆者は感じていて、その辺りは流石気配りの上手いばあちゃる氏だなあと思っていた。だがその努力もむなしく、こういった他者の意見を制限するような過激なファンがいるのが現状である。
 もちろん自分が管理者である場、例えば自分が開設したホームページ、ブログ、掲示板などでそれをするのは自由だ。それは自分のものであるから、その場にその意見が相応しいかそうでないかはあなたが自由に決めればよい。しかしそれ以外の場所で、自身が管理者でもないのに他人の意見を制限するような者は所謂自治厨というものではないだろうか?もし今まで「意見はマシュマロに」などと人に押し付けてきたことがある人は、今一度自身がそうなってはいないか、本当にそれが正しかったのか考えてみてほしい。

最後に

 ここまで非常に長い文章を書いてきたが、要するに結論をまとめると、1つ目は「自分とは違う考えのファンの存在も許容すべきではないか」という話である。それは決して同じ考えになれ、同化しろということではなく、違う考えの人が存在することも理解するという意味だ。自分とは180度違う考え方でも、そういう考えの人も存在するんだ、そういう意見もあるんだという事実を受け入れる、そういう存在を否定しないということだ。
 そして2つ目に「なんでもかんでも全肯定して賛成し続けること、否定的意見を攻撃することこそが模範的なファンの姿だ」とは筆者は思わない。批判的感想を抱くことは悪ではない自身の意見を言うこと、議論することは悪いことでは無い真に悪なのは誹謗中傷や暴言などであって、それらを批判する際は、その暴言という手段を批判すべきであり、考え方を否定するべきではない。ましてや否定的意見を抱く者はファンではないなどと言った決め付けで他者を巻き込むようなことは何の為にもならない、と思うのだ。

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