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文豪・島崎藤村が訪ねた和辻哲郎の家と大徳寺真珠庵|偉人たちの見た京都

偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京都に思いを馳せ、その魅力をお伝えする連載「偉人たちの見た京都」。第14回は近代の日本文学を代表する作家・島崎藤村です。幕末・明治維新の激動期を描いた長編歴史小説『夜明け前』の執筆中に、京都大学で教鞭をとっていた友人・つじ哲郎を訪ね、一休禅師ゆかりの大徳寺真珠庵を訪れます(現在は非公開)。その庭の美しさに圧倒されたのち、藤村は“京都で見るべきもの”について語ります。

藤村肖像写真 写真提供=藤村記念館

島崎藤村といえば、教科書には必ず登場する日本を代表する文豪です。藤村は1872(明治5)年、当時の筑摩県ごめ村(現在の岐阜県中津川市馬籠)に生まれました。教師として働くかたわら詩人として活動し、1897年に第一詩集『若菜集』を発表。土井どい晩翠ばんすいと並んで、明治詩壇の中心人物として活躍します。

馬籠宿本陣隠居所(藤村の生家)* 写真提供=藤村記念館

* 藤村が生まれた島崎家は、中山道43番目の宿場町・馬籠宿で、本陣・庄屋・問屋を兼ねていた。当時の建物は火災で宿場すべてが燃えてしまい、現存するのはこの隠居所のみ(母屋は焼失)

やがて藤村はその活動の舞台を小説に移し、1906年に『破戒』を出版。続けて『春』『家』などを発表し、またたく間に日本の自然主義文学を代表する作家となりました。1913(大正2)年には渡仏。3年にわたりフランスで生活を送ります。
 
帰国後、藤村は『桜の実の熟する時』『新生』『嵐』、紀行文集『らん西だより』などを精力的に発表。そして、1929(昭和4)年から6年余の歳月をかけて、大作『夜明け前』の連載を開始します。この時、藤村は50代後半。円熟期に入った文豪のまさに集大成と言える執筆になりました。
 
連載も佳境を迎えた1932年。藤村は京都へ小旅行に出掛けます。1928年に再婚した24歳下の静子夫人を伴い、京都帝国大学で教鞭を執っていた友人を訪ねる旅でした。友人とは『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られる哲学者の和辻哲郎です。この旅は還暦を迎えた老文豪の心を浮き立たせたようで、出発前から地図などを眺めたりしていたようです。
 
きのうは一日手紙を書いて暮らした。あれも、これも、と心にかかることはありながら、もはや何となく小旅行の気分が浮んできた。旅する予定の日数も短いから、出掛ける前日をも旅のうちに数えて、きょうは細見さいけんきょう絵図えず大全たいぜんとしてあるぶんきゅう版の古い京都の地図なぞを取り出して見た。
 
文久版の京絵図大全とは、幕末の文久年間に発行された京都の絵地図のこと。まるで、遠足に行く前夜の子どもと同じ気分です。京都に入った藤村は、現在のなかぎょうあぶら町あたり、たこくし通りとみの小路こうじ角にあった宿に泊まります。翌朝、付近を散策したのち、早速、和辻の家を訪ねました。
 
この小さな旅には家内を連れて来て、にゃくおうにある和辻君の家族を訪ねるというたのしみがあった。さすがにきよげに住みなしてあった。六畳の客間には座布団が五つに、煙草盆が三つも出た。
 
藤村は若王寺*と表記していますが、和辻が住んでいたのは左京区にゃくおう町でした。銀閣寺から南に下る哲学の道の最南端に位置する東山山麓の静かな一郭です。

*若王寺は京都府の南西部、精華町にあるお寺。 

昼すこし前に、和辻君に案内されて君の書斎を見、眺望のある二階の部屋へも上って見た。夏はその二階も暑いと聞くが、でもそんなところに寝ころんで、青いかえでの映る天井を眺めながら、裏山の小鳥の声でも聴いて見たらばと思うようなところだ。

軒先には枝ぶりおもしろい梨の木もあって、その風情のある青い葉が客間からも食堂からも見られた。それが花から実に変わる頃には渋くて食われない『かりん』の実に似たものが成るとの細君*の話も出た。果樹として無能無用に近いこんな梨の木ではあるが、風にも日の光にも敏惑で、君が家族のすべての人逹に愛されていた。

細君* 妻のこと。ここでは和辻夫人。

にょたけに至る山なみが家の裏に続き、二階の部屋には小鳥の声も聴こえてきます、楓の木や梨の木など、木々の緑も美しい和辻家の静かなたたずまいが目に見えてくるようです。

午後、和辻君は紫野*の大徳寺へ案内しようと言ってくれた。一台の自動車は君らを載せ、お嬢さんを載せ、元気な夏彦君を載せ、家内とは旧い馴染の信子さんを載せ、そこへわたしたちまで割り込んだ時は車の上は二家族のものでこぼれるばかり。

紫野* 京都市北区南部の地域名

午後になって、和辻は藤村を紫野の大徳寺に案内すると言い出しました。和辻夫人や子どもたちも一緒に、一台の車に6人も乗って行くドライブです。しかし、考えて見ると、和辻哲郎一家と島崎藤村夫妻が同乗している車とは、ちょっとすごい光景かもしれませんね。 

西陣の工芸地を通り過ぎて行ったところに大徳寺の古めかしい境内があった。一休禅師の木像の安置してある真珠庵を訪ねて、その一隅に遺った利休の茶室を見る。

大徳寺真珠庵 写真提供=大徳寺真珠庵

あんじゅの僧も不在の時で、茶室の窓々はしめきってあったから、そこいらは薄暗い。わずかに案内の少年があけてくれた一方の窓から、古い床の間の壁に射し入る光線があるばかり。わたしたちは昔の人の意匠を前にして、心静かに時を送ることもかなわなかった。というのはあまりに深く蒸した庭の苔は胸に迫って来て、わたしたちの凝視を妨げもしたからであった。

特別公開時にのみ公開される大徳寺真珠庵の唐門と七五三の飛び石 写真提供=大徳寺真珠庵

訪れた場所は大徳寺のたっちゅうである真珠庵。「一休さん」で知られる一休そうじゅんを開祖として、室町時代の1491(延徳3)年に堺の豪商・尾和おわ宗臨そうりんが創建した寺です。一休禅師の木造が安置され、曽我そがじゃそくや長谷川等伯とうはくの襖絵が残る寺としても知られています。藤村が案内された茶室は、現在は重要文化財に指定されている「ていぎょくけん」と思われます。

庭玉と書かれた軸がかけられた大徳寺真珠庵の茶室「庭玉軒」(重要文化財) 写真提供=大徳寺真珠庵

藤村は庭の苔のあまりの緑の美しさに心を奪われます。実は和辻が藤村を真珠庵に誘った理由は、この庭の苔にあったのです。和辻は苔をこよなく愛していました*。なかでも、真珠庵の方丈の庭の苔は特にお気に入りでした。

* 偉人たちの見た京都「和辻哲郎と杉苔の庭」参照

方丈の東側にある、真珠庵で最も古いとされる枯山水庭園は「七五三の庭」と呼ばれ、国指定名勝となっています。7・5・3と合わせて15個の石が配置され、その間に緑の美しい苔がしきつめられた苔の海原。一休禅師に参禅した茶人・村田珠光じゅこうにより作庭されたものと伝わっています。この庭を見るために真珠庵を訪れる人も少なくありません。

大徳寺真珠庵の方丈東庭 七五三の庭 写真提供=大徳寺真珠庵

人間の親和力を茶の道に結びつけた昔の人はこんなところで深く物を考えたものかなどと、とりとめもないことを想像しながら、その庵を辞した。
 
真珠庵の方丈や茶室、庭園は残念ながら通常は非公開となっています。ですが、春や秋などにしばしば特別公開されています。次回の特別公開の日程は未定ですが、機会があれば、ぜひ一度は見ておきたい京都の名所と言えるでしょう。
 
帰路にはきと同じ道をとって、新開地らしい町の出来たところを車の上から見て通り過ぎた。洛北の郊外も今は激しく移り変わりつつある。
 
真珠庵の訪問の途中で見た京都市内の風景を見て、藤村は何かを感じたのでしょう。次のように記します。
 
京都に見るべきものと言えば、何人もまずこの都会に多い寺院に指を屈するが、それらの多くは長い年月の間に改築されたものであり、原形のままな記念の建築物の残存するものは少数にしか過ぎないと聞く。現にわたしたちが見て来た大徳寺の真珠庵も改築されたものの一つであった。これは京都が幾度か兵乱のちまたとなって、そのたびに、町も建物も改まったことを語るものであろう。物語に見る朱雀大路のあとなぞも今は尋ぬべくもない。
 
京都で見るべきものとは、多くの旅人が推奨する京都の寺院ではなく、もっとほかにあると言いたいようなのです。それは、何なのでしょうか?
 
自分一個としてはこの都会に多い寺院よりも、むしろ民家や商家のほうに心をひかれる。その民家、商家に見つけるものの感じは、概して簡素で、重厚だ。
 
どうやら藤村は、和辻家の住居のような民家を何よりも気に入ったようなのです。京都を離れるに際しても、和辻家の滞在を楽しそうに回想して、こう語ります。
 
和辻君等に別れを告げた。三日の滯在は短かったが、わたしたちは君の家族をこの地に見るだけにも滿足した。南の一方に開けて、東と北と西とに山を負う盆地の地勢をなした京都の市街の一部を君等が住居の二階から、また、楽しいかげの多い若王寺の裏山の位置から望み見るだけにも滿足した。せめてこの都会に北西の山の間が開けていたら、とは今度来て見て、胸に浮べたことだ。
 
京都の民家の造りを見て、藤村は京都の夏の暑さをしのぐ知恵をそこに見出します。そして、そのことが古典に対する新たな発見につながりました。
 
この夏季の熱と光とを防ぐために、京都人は二階を低くし、窓を狹くし、格子を深くし、壁を厚くし、部屋を暗くして住むとも聞く。これを知って見ると、わたしは今まで漠然としか抱いていなかったわが国の古典にある季節の感じを改めてかからねばならないような気もする。
 
もう一度清少納言なぞの書きのこしたものをあけて見たら、京都の夏がいろいろとあの草紙の中に見つけられて、例えば結縁けちえんの説教を聴きに行った日の暑さの描写なぞも、今までよりはっきりと感じられるであろうと思う。

1941年春、藤村は静子夫人と共に東京から神奈川県大磯町の民家に移り住みます。終の棲家となったこの家で、藤村は71歳で永眠するまでの最晩年の2年間を穏やかに過ごしました。もともとは貸別荘だった家を、藤村は「静の草屋」と呼び、「万事閑居簡素不自由なし」と書き残しています。3間しかない平屋の質素で重厚な家は、京都への小旅行で藤村が気づいた民家の美しさを体現しているようにも感じられます。藤村と静子は大磯町のふくに眠っています。

藤村が晩年を過ごした神奈川県大磯町の民家 写真提供=大磯町観光協会

出典:島崎藤村『桃の雫』「京都日記」

文=藤岡比左志

藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。

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