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どこにもない”郷愁"を持つ町の、やさしい夜(岳南江尾・岳南電車)|終着駅に行ってきました#12

眼前に太平洋、背後に霊峰富士。東海道新幹線を筆頭に、日本を結ぶ大動脈がひしめき合う。そんな地域の町を結ぶ岳南電車は、地元の人たちが愛着を持っている、小さな鉄道。沿線に広がる町の一角で、スナックのあかりが灯ると、一日の疲れをやさしく癒すひとときが始まります。
〔連載:終着駅に行ってきました
文=服部夏生 写真=三原久明

「あー、だから日本はダメなんだよ!!」

 店内に大声が響く。声の主は、ついさっきまで地元話に興じていた隣の常連氏である。

 何ごとかと、彼の視線の先にあるテレビ画面を見ると、サッカー日本代表のディフェンダーたちが自陣でゆっくり球を回しているところだった。

 革命レベルの切迫した声だっただけに、スポーツが根源的に内包する平和さが心にしみた。少し落ち着いて観察すると、開始まもない時間帯で、双方無得点である。焦る局面ではなさそうだ。

 攻撃を組み立てるための時間とってんじゃないすかね、先ほどまでの穏やかな空気に戻すべく、カジュアルに話しかけようとした刹那である。

「今、相手が前がかっているでしょ。こういう時こそ、一気にカウンターで攻めなきゃ。得点力不足は、日本代表の課題なんだよ。ずっと前から」

 おじさんは、選手たちに届けとばかりにもう一度「ずっとだよ」と唸ると、ぐいっと焼酎のソーダ割りを飲み干した。

 ここは、静岡県の吉原。小さな神社へと続く小路であかりを灯すスナックだ。

 静岡といえば、名選手を数多く輩出してきたサッカー王国である。ことサッカーに関しては、酒場での何気ない会話にも、歳月に磨かれた分析が登場するのだろう。よそ者が口出しすることじゃないと、僕は黙ってママお手製の煮込みを口にした。

* * *

 スナックの最寄り駅、吉原本町に降り立ったのは、宵闇が広がってからだった。昼間はずっと岳南電車の終着駅、岳南江尾のまわりを歩いていたのである。

 吉原駅でJR東海道本線から古めかしい跨線橋を渡って、単行列車に乗り換えて20分強。工場の中をすり抜け、田んぼが広がる景色の中を東へしばらく走ると、もう岳南江尾である。

 ありがとうございました、と運転手に声をかけられて駅に降り立つと、ごうという音に出迎えられた。見ると、背後に走る高架を新幹線が通過している。背の高い防音壁に阻まれて、その姿は窓から上しか見えないが、時折見えるパンタグラフが一瞬で視界から過ぎ去っていくことで、速さが実感できる。

 高架線の先には、富士山の裾野がそびえる。ホームに「富士山ビュースポット」と書かれたマークが記されている。今は雲に隠れているものの、ここから望む富士は絶景なのだろう。

 手前に視線を戻すと、駅裏には、かつて側線が通っていたと思しき工場の敷地が広がる。風に乗って、今度は踏切の音がかすかに聞こえてくる。鐘をハンマーで鳴らす昔ながらの2拍3連のブルージーな音色に耳をすませていると、乗ってきた電車の扉が閉まり、モーターを唸らせながら吉原に向けて出発した。

 この一帯は山と海の間を、2本の高速道路、東海道新幹線、国道、そして東海道本線がひしめき合って通過し、吉原寄りには富士山がもたらす伏流水を利用した製紙工場が林立する。工場の周辺に広がる市街地と、その奥に広がる狭い平地に連なる集落を結ぶように走る岳南電車のありようが、ひと目でわかるような風景だった。

 人の手で綺麗に整備されている駅を出て、町を見ることにした。

 民家と工場の軒先を縫うように歩き、新幹線の高架をくぐり、大きなスーパーマーケットの脇を通り過ぎると街道に突き当たった。その先は坂道になる。細い道を登る途中に、小さな神社があった。急な階段を登って振り向くと、山際まで迫る集落の先に、平地と海が広がっていた。

 定規で引いたような高架を新幹線が走り抜ける。ごうという通過音は、鎮守の森を吹き抜ける突風のごとき自然さで、景色の中に溶け込んでいた。

* * *

 街道から一歩入ったところに、緑茶の販売所を見つけた。無人だったが、奥に向かって声をかけると、大きな母屋から女将が顔を出した。広い庭をサンダルで走ってくると、ゆっくりしていってくださいねと言う。

 これも縁である。お茶のひとつでも購入しようと物色しながら、夜に一杯飲めるような店はないですかね、と問うてみた。

「ここらへん、ないのよねえ」

 女将は申し訳なさそうにそう答えた。確かにざっと歩いた限りでは、居酒屋らしき店は見当たらなかった。だが、駅の反対側の国道方面に出れば食堂くらいはありそうだった。

「うーん、ここらへんの人はね、何か食べる時はだいたい沼津まで出ちゃうのよ」

「なるほどなあ」

 沼津までは15kmほどである。クルマがあれば苦にならない距離だけに、選択肢の多い市街地に行きがちになるのは分かる気がした。店探しはすっぱりと諦めて、話題を変えた。

「今日、ここまで岳南電車できたんですよ」

「あら、そうなの。ここのところ、乗りにくる人が増えたのよね。ひと頃はずいぶん寂しかったんだけど」

 岳南電車の話になると、女将は饒舌になった。

「なにしろ、車窓の風景がいいのよ。富士山見れた?」

「それが、雲で見えなかったんですよ」

「そっか、季節はずれの台風が来てたもんね」

 しばし気候変動についての会話を交わしてから、地元産だという緑茶を購入して店を辞した。どっちへ行くか少し考えてから、岳南電車に沿うように街道を西に向かって歩くことにした。

 道は狭く、クルマがすれ違うのもやっとである。端を用心しいしい歩くのだが、カーブに差し掛かると歩行スペースはなくなってしまう。そうすると先頭のドライバーはクルマを止めて、僕が通り抜けるまで待つのである。ありがたいが、たちまち車道は渋滞の様相を呈するので、駆け足にならざるを得ない。気の休まる暇がないのである。

 この根方街道は、古くから富士山麓の集落を結ぶ道として使われてきた。

 岳南電車は、根方街道沿いに沼津から国鉄(現JR)身延線の入山瀬に至る駿豆鉄道の路線敷設計画をベースに開通している。沿線を代表する町だった吉原町(後に市政をひき、現在は富士市の一部となっている)も鉄道が来ること自体は歓迎した。だが計画が進むにつれ「これでは吉原町が通過地点に過ぎない」(*引用は『静岡県鉄道軌道史』森信勝著・静岡新聞社より)という話が持ち上がった。

 ざっくり言えば、自分たちの町の駅が終着駅じゃないのが気に食わない、計画を白紙に戻せという話である。酒場での放談ならともかく、実現するのは無理筋の話だ。だが、彼らの決意は生半可なものではなかった。国鉄鈴川駅(現JR吉原駅)から、専用鉄道線を利用して吉原の市街地へと至る修正ルート案を作成、交渉を重ねて、駿豆鉄道の了解を取り付け、日産自動車から専用鉄道線を借りる約束を取り付け、ついに運輸大臣から施工認可を取り付けた。明治時代に東海道本線が町を避けるように開通して以来、「経済的・文化的また時代的にも随分辛抱を強いられてきていた」(*同上)という住民や関係者たちの「我が町に鉄道を」という思いの強さが伝わってくるエピソードである。

 かくして1949(昭和24)年11月、鈴川駅から吉原本町までの2.7kmが、岳南鉄道として開業した。その後、鉄道敷設に同調した沿線自治体と協力しながら用地買収と工事を続け、岳南江尾まで到達したのが1953年。開通時には盛大な式典が催された話が残っているが、実際に需要も多く、利用客は順調に伸び続けた。

 だが、数多の鉄道と同じくモータリゼーションの台頭によって、1967年をピークに旅客利用が減少していく。さらには田子の浦港の開港や製紙業界の生産調整の影響を受けて、貨物輸送も先細りとなり、2012年にはついに全廃となってしまう。

 元から少なくなっていた旅客収入に頼らざるを得なくなった彼らは、2013年度から岳南電車として再スタートを切る。いわば土俵際に追い込まれた彼らだが、いたずらに手をこまねいてはいなかった。工場の夜景や全ての駅から富士山が望める景観、レトロな雰囲気が、自らの「売り」であると見出すと、SNSを活用し、観光鉄道としての魅力を広くアピールした。沿線の店舗や企業と組んだキャンペーンを積極的に行うことで、地元とのつながりも強固にした。

 彼らの取り組みは功を奏し、鉄道ファンをはじめとする来訪者は増加傾向にあると同時に、沿線住民からも好意的に捉えられている。地元の協力を得ながら鉄道が再興を果たしている好例といえるだろう。

* * *

 街道が幾分か広くなって、余裕を持って歩けるようになった。周りを見渡すと、須津すど駅への入り口と書かれた看板を見つけた。ちょうど、ふた駅分歩いたことになる。

 道を折れて、駅へと続く集落に入った。ホーローびきの看板が掲げられた木造家屋の先に、小さなお宮と広場があり、ベンチで残照を浴びている老人の横で、子どもたちが歓声をあげながらブランコをこいでいた。鳥居の先の四つ角には、ガチャガチャが店頭に並ぶよろず屋がたたずんでいる。

 どこにでもありそうで、もうどこにもないような一角は、昭和生まれの僕の郷愁を誘った。老人の隣に座って、冷たいお茶でも飲みながら、懐かしい風景をもう少し味わっていたかったが、日暮れが近づいていた。少し前にミハラさんとやりとりして、須津駅で落ち合って、夜の方針を決めることにしていた。急いだ方が良さそうである。

 後ろ髪引かれる思いで、道を進むと、ほどなく須津駅についた。ホームに上がると、線路ぞいの道をミハラさんがカメラバックを抱えて歩いてくるのが見えた。どうやら彼も、電車に乗らずに岳南江尾から歩いてきたようだ。

「どこか見つかった?」

 街道沿いに一杯飲める店は、ないこともなかったが、ゆっくりできる感じではなさそうだった。お茶屋の女将の話を添えながら、そう告げると、ミハラさんは決然と言い放った。

「だったらさ、町まで戻っちゃおうよ。吉原本町だったらいい感じのお店あるでしょ」

 悪くないアイデアに感じられた。吉原本町は岳南鉄道開通時の終着駅である。行きに通った際も車窓から商店街がちらりと見えた。いいですね、と返すと、待っていたかのように踏切が鳴り、ライトを灯した吉原行きの列車がやってきた。

 岳南江尾から数えて7駅目、電灯のあかりが温かく灯る吉原本町の駅を降りた。重厚な貫禄のある駅舎を出て踏切をわたると、アーケード街が広がっていた。少し歩いただけで、時の流れに磨かれた、感じのいい商店街であることが伝わってきた。

 いくつか気になる店があった。どこに入っても、いい時間が過ごせそうだったが、もう少しだけ探してみようと、天神社参道と記された小路を探索してみることにした。細い道の突き当たりで、神社の鳥居が薄明かりに照らされており、手前に飲食店のあかりがいくつか灯っていた。その風情に心惹かれたのである。

「ここ、どうだろう」

 小路を何往復かした後に、ミハラさんが一軒のスナックを指さした。扉は、スナック独特の窓のないタイプではなくガラス張りだった。だが、覆いがかけられていて、中の様子を窺い知ることはできない。

「最近スナックが、ちょっと気になっているんだよね」

 そう語るミハラさんの顔には、歩き疲れたしそろそろビール飲みたいな、と書かれている。

「そうすね」 

 少しだけためらった。スナックには恥ずかしい思い出があったのである。

* * *

 高校時代、夜な夜な外出していた時期があった。誘い出すのは、地元の中学で同級生だったタマイくんである。古色蒼然とした不良グループに属し、卒業後、工場に就職していた彼が、なぜおとなしい優等生タイプだった僕とつるむようになったかは覚えていない。だが、高校に入ってしばらくしてから、時々会うようになった。夕食が終わったくらいに、我が家の黒電話が鳴り、僕は両親に遊びに行くと告げ、自転車にまたがって集合場所に向かったのである。

 会ったところで、盗んだバイクで走り出したりするわけではない。ただ、近くにある公園のグラウンドの隅っこにあるベンチに座って、缶コーヒーをすすってだべるだけである。

 タマイくんは工場での話をよくした。作業を覚えていく時の興奮、先輩からねぎらわれた時の嬉しさ。そのどれもが僕には新鮮だった。彼は、先輩から教えてもらったんだ、と不良っぽいイメージで売り出していた女性歌手のアルバムを貸してくれて、僕たちは、彼女が歌い上げるティーンエージャーの憂鬱について、たどたどしく語り合った。

 高校での日々は、すべてが大学受験のために進んでいて、それまで味わったことのない緊張感があった。必要以上に周りを意識しあっていたから、口に出す言葉ひとつにも気を使わなければならなかった。そんな「昼」のストレスとは真逆のひとときを、僕は楽しみにしていた。

 ある夜、タマイくんは意を決したように語りかけてきた。

「ねえ、今日はスナック行ってみない?」

 シャイなタマイくんが、そんな提案をすること自体が驚きだった。そもそも僕自身も父が呑まない人間だったこともあり、酒を出す店に入ったこと自体がほとんどなかった。スナックなんて、まさに本で読んだことしかない魔境である。どうしようかな、と躊躇した。 

「知ってるところあるの?」

「ないよ」

 先輩に連れて行ってもらった店があるかと期待したが、どうやら一見の店に突撃するつもりらしい。

「入れてもらえないんじゃない?」

「行けるよ」

 こちらの及び腰に怯むことなく、決然と告げるタマイくんは、いかつい金髪姿である。下駄を2、3足履かせば成人に見えなくもない。だが、僕は「ザ」をつけてもいいくらいの童顔である。しかもタマイくんは、その姿に似合わぬ徹底した平和主義者で、僕に至っては中学以降、喧嘩したことすらない。ティーンエージャーにとって、圧倒的な戦力の低さは、不安を増幅する材料でしかなかった。

 やっぱやめよう、と申し出た方がいいんだろうなと思った。だが、降って湧いた魔境探訪のチャンスを手放したくない、という気持ちがむくむくと湧き上がってきた。一旦そう思ったら、好奇心のダイナモは少々のネガティブな要素では止まらない。まあ、万一揉めても、粋がらなければ、ほっぺをつねられるくらいで済むだろう。そう自らを奮い立たせると、自転車に跨って夜の商店街に繰り出したのである。

* * *

「どうする?」

 ミハラさんが再び尋ねてきた。幾分かイラつきが入っている口調だ。少々、思い出に浸りすぎていたようである。

 スナックはその時以来入っていなかった。地方都市のスナックなんて、考えるまでもなくアウェイ感満載である。さっき見たアーケード街の居酒屋に行った方が無難である。やっぱやめましょう。そう申し出た方が賢明だった。

 だが、40代も後半になって、あちこちほころびは出ているものの、僕の好奇心は健在だった。元終着駅のスナックなんて素敵じゃないか。この扉を開けるだけで、予想もつかない、とびっきりの体験ができるかもしれない。そう思うと、ダイナモは黒煙を吐きながらも動き出した。いいじゃん、入ろうぜ。心の声が、僕に囁いた。まあ、万一何かあったとしても、殴られることはないだろうし。

 成長の跡が見られない理屈で勢いをつけた僕は、返事の代わりにスナックの扉を開けた。

「いらっしゃい」

 すぐに声をかけてきたのは、ママと思しきロングヘアーの女性だった。

「ふたりなんですけど」

 素早く店内を見回すと、先客は4人。いずれも常連風情の中年男性だが、こちらを見る目に排他的な色合いはない。

「どうぞ、お好きなところに。でも、一番奥がいいかな」

 ママのはきはきした声が、緊張した身に心地よかった。ジャケットを壁にかけて、腰をおろすと、おしぼりがすぐに出された。

「俺は瓶ビールください」

 スナック慣れしているのであろうか。あうんの呼吸でミハラさんが注文した。一瞬、気後れしたが、このテンポを崩したくない、と僕も続いた。

「すみません、烏龍茶をお願いできますか。僕、お酒呑めないんです」

「はーい」

 いささかのためらいもなくママが答えてくれた。その包容力が嬉しくて、自分の心がなごんでいくのがわかった。

「ほかに、何かご用意しましょうか」

 乾杯する僕らを見て話しかけてきたママに、いくつか簡単なものを頼んだ。少し早いかなとも思ったが、流れに乗って、聞きたかったことを切り出すことにした。

「僕たち、吉原、初めてなんです」

「あら」

「あの、ここいらの名物って何になりますかね」

「えー」

 ママは口ごもった。距離の取り方を間違えた。悪いことしたな、と思った刹那である。

「しらす」

 隣の男性が口を出した。

「あと、うなぎ」

 その隣の男性が続いた。

「そうそう。水が良いからね。吉原の水は富士山からの伏流水だから、飲んでもおいしいの」

 加勢を得たママが華やいだ声で口を添えた。

「俺なんて今日も昼はうなぎだもんね」

 彼女が喋ると、常連たちもますます元気になった。

「え、ここいらの方って、そんな普通に食べてるんですか、うなぎ」

「いや、この人だけだよ。社長さんだもんね」

「そうそう、舌が肥えてるの、俺。なんせニューヨーク帰りだから」

「それ、関係ある?」

 会話がテンポよく繋がり出して、スナックの夜は更けていった。

* * *

「岳南電車、乗ってきたんだ」

 ママの場のつくり方は、巧みだった。こちらがしゃべりたさそうだな、と察すると、常連たちにも話をふる。一方で、さりげなく個別に会話をしながら、客同士が互いのプライベートに踏み込みすぎない距離を保ち続ける。馴れ合いの雰囲気がない酒場は、誰にとっても居心地がいい。常連たちも安心して、自分たちの憩いのひとときを、ママの差配に委ねているようだった。

 終着駅をめぐる旅をしていると話すと、彼女も常連たちと一緒になって岳南電車の話を始めた。

「富士山見えた?」

 ここでも車窓から見える富士山の話になった。

「今日はダメでした。そんなに綺麗なんですね」

「うん。まあ、俺たちにとっては当たり前なんだけど、やっぱり初めての人には見てもらいたいね」

「うちのベランダからは、登山客のカンテラの光まで見えるんだ」

「皆さん、岳南電車、乗っているんですか?」

「学生の時は通学で乗っていたんだけど」

「俺もだなあ。今も学生たちは、使っているよ」

「あと最近は、観光客が乗ってくれるようになったのよね」

「そう、鉄道ファンが多い」

「いろいろ頑張ってるもんね、岳南電車」

 彼らにとって今の生活に直結する存在ではないのかもしれない。だが、自分たちの町を走る鉄道として、富士山と同じくらいの分量の愛着を、岳南電車に持っていることが伝わってくる。旅先で、地元を構成するものへの好意を表明されることは、心地よい。それが鉄道ならなおさらである。終着駅めぐりで得た摂理を噛み締めながらうなずいていると、ママが、メニューにはなかった、しらすを使った和え物を出してくれた。

「本当はね、生しらすを味わってもらいたかったんだけど、昨日までの台風で船が出なくてね」

 いや、これもおいしいですよ。そう言いながら食べていると、ミハラさんが鋭く質問を投げかけた。

「ここらへんは、イルカを食べるって聞いたんですけれど」

「ああ、食べる人もいるけどねえ」

 それが呼び水となって、再び常連たちが蘊蓄を傾け合う「俺たちの名物」大論争が始まった。しばしのやりとりの後、「ここいら」のソウルフードの決定版は「ママの言う通り、生しらすだな」となり、さらなる議論の末、僕たちは「田子の浦港にある食堂で、生しらす丼を食べるべきである」という話で落ち着いた。

「生しらすって他でもあるじゃないすか」

 すっかり気安くなって茶々を入れると、隣の常連氏は、

「同じ太平洋でもさ、他とは新鮮さが違うんだよ」

 厳かにそう告げると、ぐいっと焼酎のソーダ割りを口にした。そのタイミングで、壁にかけられたテレビから歓声が上がった。サッカーの試合が始まったのだ。皆の視線が、一斉に画面に向けられた。

* * *

 30数年前、タマイくんと入ったスナックでの時間は、圧倒的な緊張感に満ちていた。

 窓のないオールドスクールなドアを開けると、カウンターからママがいらっしゃい、と声をかけた。奥に座っていた常連らしき若い男女がこちらをみて、少し驚いた顔をした。まだ早いんじゃない、と諭されるかと首をすくめかけたが、ママは素知らぬふりでおしぼりをだすと、烏龍茶を頼んだ僕たちに、はーいとためらいのない返事をしてくれた。

 入り口近くに陣取った僕たちは、緊張していた。あれほど強い意思を見せていたタマイくんは「借りてきた猫のように」という言い回しの実例として教科書に載せたいくらいにちんまりしていた。出されたグラスの液体を飲むと、確かに烏龍茶の味がした。まあ、味がわかるんだったら、自分もまだ落ち着いているんだろう。そう暗示をかけながら、スナックらしい「大人の会話」をしようとしたが、何を話していいか、さっぱりわからなかった。

 トサカのごとき前髪を持つ男客と、そのパートナーらしき金髪の女客は、こちらを面白そうにちらちら見ていた。今なら、好意的に接してくれるはずだと判断できる。それこそ、タマイくんの仕事の話を振ったら、いいアドバイスが聞けたかもしれない。でも、当時の僕は、シャコタンとかハコノリという単語が似合う風体のカップルに、目を合わせる勇気すら出てこなかった。

 仕方がない。僕たちは、会った時に必ず持ち出していた鉄板の話題、地元名古屋の希望、中日ドラゴンズについて語り合うことにした。

「タツナミの怪我、はよ治らんかな」

「ここからオチアイがしっかりせんと優勝できんわ」

 緊張しいしい、公園で語ってきた話題の焼き直しをするのは、はっきり言って、全然、面白くなかった。タマイくんも同じように感じていたらしく、男客がカラオケを歌いたいと言ったのを機に、どちらからともなく帰ることを決め、ぐいっと烏龍茶を飲み干した。

 精一杯格好をつけて会計を済ますと、ママが、「大きくなったらまたきてね」と笑顔で言ってくれた。女客が手を振り、男客はカラオケリストに目を落としたまま、マイクを持った手を上にあげた。僕たちは、敬礼みたいなお辞儀をして転がるように外に出た。

 とてつもなく長い時間だったように感じていたが、実際はせいぜい20分ちょっとだろう。僕たちは、恥ずかしさと達成感がないまぜになった感情をどう扱っていいのかもわからず、無言のまま無闇に自転車をこいで、それぞれの家へと帰ったのである。

* * *

「静岡でもね、富士川を挟んで文化が違うのよ。こっち側はそこまでサッカーは盛んじゃないかもね」

 隣の常連氏が、ひと通り悲憤ひふん慷慨こうがいを終えて、画面から目を離すと、吉原のスナックには再び凪の時間が訪れた。静岡の皆さんはサッカー好きなんですね、と聞いたら、違うの、ここではこの人だけよ、とママが笑った。静岡では当たり前の光景かと勘違いしちゃいました、と軽口を叩くと、常連氏は照れたような笑顔になって頭を掻き、再びミハラさんとの地元話で盛り上がりだした。

 ママお手製の煮込みやポテトサラダは、しみじみとした味わいだった。一皿ずつじっくりと食べていると、初老の夫婦と思しきカップルが入ってきた。女性とママさんの親しげな会話の端々に、曲名が織り込まれている。そろそろカラオケを楽しむ時間になってきたことに気づいた。一見の旅人は出払う頃合いかもしれない。

「お会計お願いします」

 ミハラさんも同じ思いだったようで、瓶ビールを飲み終えると、ママにそう声をかけた。ややあって出された紙に書かれた金額は二度見するほど安かった。しばし考えた後、烏龍茶しか飲まなかった分の足しに、という思いで1,000円だけ加えて、今日はありがとうございました、と渡した。嫌味になるかも、と少し緊張したが、ママはありがとうと屈託なく笑って、ドアを開けると「良い旅を」と、送り出してくれた。

* * *

 翌朝、東京に帰るミハラさんを見送ってから、レンタカーを借りて、田子の浦港に向かった。到着してすぐ、皆にすすめてもらったとおり、食堂で生しらす丼をいただいた。晴れた空の下、海を眺めて食べるそれは、常連氏が力説しただけのことはあるうまさだった。直売所で、近海で穫れたという魚の刺身を何種類か包んでもらうと、岳南江尾駅を再訪した。

 ちんちんと踏切が鳴り、しばらくすると単行列車がホームに滑り込んでくる光景は、昨日と変わらず、のんびりとしていた。山頂が今日も雲に覆われているのは残念だったが、優雅さと力強さを兼ね備えた富士山の姿も変わらず美しかった。伏流水を汲み上げる井戸が、あちこちにあるのが珍しかった。

 歩きまわっているうちに、汗ばんできた。少し涼みたくて、大型スーパーに入った。地元のお母さんやおばあさんたちに混じって、鮮魚コーナーを見学すると、イルカの切り身があり、田子の浦港で穫れたと銘打った生しらすのパックが置かれていた。

 思いついて、生しらすに加えて、出来合いのご飯に、ミニサイズの醤油と薬味を購入した。そのまま、まだ昼前で人影まばらな店内のフリースペースの一角に陣取り、港で買った刺身も加えて、お手製の海鮮丼をつくって食べてみた。

 海の恵みを直接いただいているような味わいが、口の中に広がった。掛け値なしにうまかった。お腹はいっぱいだったにもかかわらず、一気にかき込んだ。

 ああ、みんなこんなにいいもの食べていたんだ。昨夜のスナックでの会話を思い浮かべた。地元の自然がもたらしてくれる恵みを、あけっぴろげに美味しいと言えて、人にもすすめられるという「贅沢」が、心から羨ましかった。スナックで交わした会話の滋味深さが、即席の丼と一緒になって、すとんと腹の底に落ちた。

* * *

 再びレンタカーを運転しながら、改めて、この2日間、見てきた景色を思い浮かべた。

 岳南電車の沿線は、不思議なくらい、懐かしさを感じさせるところだった。

 坂の途中にあるお茶屋、狭い街道、ホーローびきの看板とガチャガチャのあるよろず屋に、お下がりの電車。郷愁を誘うものいずれにも、長い年月、手をかけ、大事にしてきた人たちの姿があった。身構えることなく町のことを話してくれる女将や、僕が通り抜けるまで待ってくれるドライバー、子どもたちを見守るように座るおじいさんや、降りていく人ひとりひとりに声をかける運転手。彼らは、僕が小さい頃、町のそこここにいた人たちと同じ匂いを持っていた。あの頃には、少し煙たく感じていた「面倒見の良さ」を持つ彼らこそ、どこにでもいそうで、今やどこにもいないような、情の深い人たちかもしれない。

 タマイくんは、元気だろうか。改めて、古い友のことを思い出した。

 彼とは、初スナックの後も会っていたが、次第にその回数は減っていき、高校を卒業する頃には連絡も取らなくなった。別に仲たがいしたわけではない。それぞれの人生が忙しくなっていっただけである。僕たちが生まれ育った団地も、少し前に再開発で取り壊されてしまった。スナックがどこにあったかも忘れてしまった。

 彼と再会するすべは、もうないであろうことを、僕は一抹の寂しさと共に理解した。

 あの頃、タマイくんと夜な夜な会っていたのは、好きなことを聞き、好きなことを語りあえるひとときに、子どもなりに癒されていたからだ。そんな時間を共有できていた彼が誘ったからこそ、僕は、とびっきりの何かが起こるに違いない、とスナックへ自転車を走らせたのである。

 また来てね、というあの時のママとの約束は果たせなかった。だが、人生2回目のスナックの夜は、これまたミハラさんという、濃密な時間を過ごしてきた相方の誘いで幕を開けた。そう考えると、時と場所を超えて、スナック同士を地続きでつなげてもいいような気がしてきた。

 吉原のスナックでは、地元のいいところを真剣になって議論し、スポーツのひいきを本気になって応援し、一日の疲れを癒すひとときが、ざっかけない風情で繰り広げられていた。彼らの気兼ねのなさは、あの頃の僕がタマイくんとの出会いを通じて、他に替えがたい、と実感しはじめていたそれと同質のものだった。

 若かりし頃に発見して、変わることなく大切に感じてきた「良きもの」。行けば、それにいつだって触れることができる。そんな場所もまた、簡単には見つからないのかもしれない。

* * *

 新富士駅を出た新幹線は、向かって右側に海、反対側に山が迫る狭い平地を貫くかのようにスピードを上げ、ほどなく岳南江尾駅の横を通過した。防音壁の上からわずかに見える終着駅の町並みは、息をつく間もないうちに、過ぎ去ってしまった。

 僕が訪れた岳南電車沿いの町の数々は、日本を結ぶ大動脈から見たら、ひとつの通過地点なのである。だが、そこでしか出会えないものがあることを知った今、僕にとっては、すでに「ただの通過地点」にとどまらない大事な場所となっている。

 電光掲示板のニュースが、昨夜のサッカー日本代表の大勝を伝えていた。常連氏は、どのような分析をしているのだろう。知るには、また吉原のスナックまで行くしかなさそうである。次に訪れた時は、岳南電車の車窓から富士山の全貌を眺められるだろうか。

 良い旅とは、また行きたくなる場所を見つける旅である。

 心躍る真理の発見に気をよくした僕は、東京までひと眠りすべく、シートを倒した。

文=服部夏生 写真=三原久明

【お知らせ】本連載をもとに加筆修正して撮り下ろしの写真を加えた書籍『終着駅の日は暮れて』が、2021年に天夢人社より刊行されています。

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服部夏生
1973年生まれ。名古屋生まれの名古屋育ち。近所を走っていた名鉄瀬戸線・通称瀬戸電に、1歳児の頃から興味を示したことをきっかけに「鉄」の道まっしぐら。父親から一眼レフを譲り受けて、撮り鉄少年になるも、あまりの才能のなさに打ちのめされ、いつしかカメラを置く。紆余曲折を経て大人になり、大学卒業後、出版社勤務。専門誌やムック本の編集長を兼任したのち独立。同じ「鉄」つながりで、全国の鍛冶屋を訪ねた『打刃物職人』(三原久明と共著・ワールドフォトプレス)、刀匠の技と心に迫った『日本刀 神が宿る武器』(共著・日経BP)といった著作を持つ。「編集者&ライター。ときどき作家」として、あらゆる分野の「いいもの」を、文字を通して紹介する日々。「鉄」の長男が春から親元を離れ、彼との鈍行列車の旅がしにくくなったことが目下の悩み。

三原久明
1965年生まれ。幼少の頃いつも乗っていた京王特急の速さに魅了され、鉄道好きに。紆余曲折を経て大人になり、フリーランスの写真家に。95年に京都で撮影した「樹」の作品がBBCの自然写真コンテストに入賞。世界十数か国で作品展示された結果、数多くのオファーが舞い込む。一瞬自分を見失いかけるが「俺、特に自然好きじゃない」と気づき、大物ネイチャーフォトグラファーになるチャンスをみすみす逃す。以後、持ち味の「ドキュメンタリー」に力を入れ、延べ半年に亘りチベットを取材した『スピティの谷へ』(新潮社)を共著で上梓する。「鉄」は公にしていなかったが、ある編集者に見抜かれ、某誌でSLの復活運転の撮影を請け負うことに。その際の写真が、数多の鉄道写真家を差し置いて、教科書に掲載された実績も。趣味は写真を撮らない乗り鉄。日本写真家協会会員。

※この記事は2021年7月に取材されたものです。

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