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在野研究一歩前

「いらっしゃいませ、何名様でしょうか」
「二名ですが、あとでもう一人きます」
「かしこまりました。席へご案内します、こちらへどうぞ」
 ハンバーグとステーキがメニューの大半を占めるファミレスは、日曜の夕飯時ということもあり、家族連れやカップルで賑わっている。各テーブルからは、いま運ばれてきたばかりであろう料理から、もくもくと湯気が立ちのぼる。私はその情景を見て「相変わらず、うまそうだな」と思いながら、案内された席に腰を下ろした。
 隣のテーブルでは、眼鏡をかけた三十代ぐらいの女性と、幼稚園に通っているか通っていないかが不明瞭なほどの幼い女の子が、差し向かいに座っている。二人の間には、たしかこのファミレスのメイン料理の中では一番安価な「和風おろしハンバーグ」が一品置かれ、母親が丁寧にハンバーグを切り分けていくのを、女の子は、少し赤みがかった頬を小さな手で支えて、可愛らしい口を小さく開け、見つめている。
 シングルマザーだろうか。これから娘さんを育てていくの大変そうだ。
 また悪い癖だ、と自分自身に舌打ちをかます。母と娘が二人でファミレスで、一品の「和風おろしハンバーグ」を食べているだけで、すぐに「シングルマザー」「大変」という言葉を想起してしまうのはよくない。
 自分の貧乏生活を他人にも投影させてしまう――この癖はもう四年以上にもなる、苦学生生活を通して身に付いてしまったものだ、なかなか簡単に改められるものでもない。
「すみません、猪さん、遅れました。お待たせしてすみません」
 ちらっとスマホのスタート画面を見ると、十九時丁度。待ち合わせ時刻も十九時であるから、ちっとも待たせてなどいない。自分が早くきすぎたのが悪いんだよ、と小さく詫びる。「猪さん、なんか頼みましたか。自分は和風おろしハンバーグにします。猪さんは」
「俺はさっきチーズハンバーグを頼んだよ」
「あっ分りました。えっと呼び出しボタンは、と」
 混んでいる店内の状況とは対照的に、料理はスムーズにテーブルの上に運ばれてきた。じゅうじゅうと音をたてる二品のハンバーグからは、他の客のテーブルにあるハンバーグと負けず劣らずの、芳ばしい湯気が立ち昇っている。
「美味しいそうですね。今日は朝昼抜きできたので、お腹空ているんですよ。さっそくいただきます」
「それは腹減るなー、いただきます」
 後輩さんは黙々とハンバーグを切っては口に運ぶをくり返す。私もそれにつられて、一言も話さず、ハンバーグを味わっていく。いつ話を切り出すのだろうと思って、様子見がてら、ご飯をつぎにいったり(このファミレスではご飯及びカレーライス、パン、サラダ類がおかわり自由なのだ)、水を注ぎにいったりした。
 そしてついに、私が二回目のおかわりから帰って来たタイミングで、後輩さんが話をし始めた。
「今日は相談にのって頂けるということで、本当にありがとうございます」
「いやいや、別に気にしなくていいですよ。自分も好きで相談に乗ろうとしているわけだし」
「ありがとうございます」
「それで、相談というのは?」
「はい……実は自分は来年の四月から、四回生になるのですが……大学院に進学したいと考えています」
 そうだろうな、そりゃそうだ――心で勝手に頷きつつ、うん、それはいいことだ、と相槌をうつ。問題はそこから先だ。
「研究したいことや、それに見合った進学したい大学院も決まっていまして、学業の方は一生懸命に卒業論文に取り組むことが大切だと思っています」
「そうか、行きたい大学院も決まってるのか。ゼミの先生とはもう話したの?」
「はい、先生ともお知り合いの方の研究室なので、とても話しやすかったです。ただ……」
 突然の沈黙。あー、またこの流れだ、とまた心で呟く。呟く、というより、叫ぶ、の方が表現は適当かもしれない。「あーあ、またこの流れかよ‼︎」。
「大学院の学費の方が問題なんです。両親や親戚には、学部時代散々負担をかけたので……もうこれ以上は」
「そうか。相談事ってのはつまり、お金の問題ってことだね」
「……はい、そういうことになりますね……そういうことです」

           *

 ほんの短い小説風(実話ですが)の文章を、「ヘタな文章だな」と溜息をつかれるのを承知で、お読み頂きました。
 私がこの文章で伝えたかったことは、「私は幾人かの後輩から慕われていて、人望がある」ということではなくて、私のもとに相談をしにくる後輩さんのほとんどが、まるで貧乏臭にでも誘われたかのように、「大学院に進学したい。だが金銭的な余裕がない」という悩みを持っているということでした。
 このような相談に乗っていて、いつも思うことがあります。
「やはり、お金がなければ、学問はできない」と。
 あとそれに加えて、
「学問というのが、〝大学院入学→修士号取得・博士号取得→何らかの学術機関の研究員・教員に属す〟の枠組みの中でしか、実現できないものになっている」と。
 この現実を直視しているからこそ、自分のもとに相談にくる後輩さんのほとんどは、日々「大学院進学とお金」の問題に苦しんでいる。
 後輩さん一人ひとりが話してくれる研究の内容は、どれも心が躍るほど楽しいもので、それを短い大学四年間という期間の中だけで終わらせてしまうほど、虚しく悲しいことはない。こんな状況は、変えていかなければならない。後輩さんと、彼等と同じように「学業とお金」の問題で悩んでいる学生さんたちのために、そして何よりも、自分自身のために。

           *

 自己紹介もせずに熱く語り過ぎました。失礼いたしました。
 私は、ツイッターの方で「本ノ猪」(@honnoinosisi555)という名前で呟いている、一読書好きです。日頃は明治から昭和期の日本の宗教史を中心に、本や雑誌を読み漁っています。
 私が今回noteを始めた理由は、大きく分けて二つあります。


①自分で学費を払い、学問を続けるためにはどうしたらいいか。その方法を、いろんな人と一緒に考えていきたい。
②労働しながら、学問を続けるためにはどうしたらいいか。その方法を、いろんな人と一緒に考えていきたい。


 早速、突っ込みが入りそうです。
「その方法を、いろんな人と一緒に考えていきたい」って、お前が提示するんじゃねえのかよ、と。
 その突っ込みには、素直に頭を下げるしかありません。
 私は恥ずかしながら、その「方法」を現在進行形で探している最中なのです。
 明確な「方法」を提示するほどの、経験もスキルもありません。
 ただ、現在進行形で暗中模索している現状だけは、伝えられる情報として、(ほんの微かながらも)価値を持っていると思っています。
 自分の現状を少しでも多くの人に知ってもらい、様々なご意見を頂ければと思っています。
 あと一つ、先程の理由①②に関して、考えられる突っ込みに
「この①、②って矛盾するんじゃないの?」
というものがあります。
 これには明確に「いいえ」と答えることができます。それは「大学院で修士号なり、博士号なりを取得したからといって、必ず学術機関で研究を続けられるとはかぎらない」からです。現状の日本での「ポスドク」の問題を考えるまでもなく、やはり日本では「学術機関の所属の有無に関係なく、学問ができる環境・雰囲気をつくる」ことを目指す必要があると思います。そしてそれは、理由②を考えることに繫がっていると思っています。

 以上、長々と書いてきましたが、私が総じて何について考えていきたいのかというと、「在野研究」だと纏めることができます。
 ひとえに「在野研究」といっても、その定義はあいまいで、今後考えていく必要がありますが、簡単に纏めてしまうと、
「学術機関に依存せずに、学問に取り組むこと」
ということになる。ここでいう「依存」とはつまり、生活にとって最も重要な経費(つまり生活費)の出所が「学術機関」となっているということを指します。
 ここで注意したいのが、私は別に「学術機関で研究する」ことよりも「在野で研究する」ことの方が「優れている」などと言いたいわけではありません。むしろ、学問をしたい人間がだれでも、学術機関で「研究」に励むことができれば、それほど素晴らしい環境はないなと思っています。ただ、そのような一種の「ユートピア」を空想していられるほど、日常に余裕のない私は、自分自身が所属している機関に関係なく、学問を続けていくために、今後noteというメディアを通して、
「在野研究」
について、色々と考えたことを書いていきたいと思っています。
 まだ覚束ない「在野研究一歩前」の身上であることを自覚して。
 それでは、よろしくお願いいたします。

(追記:今回の「在野研究」の定義については、荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍、2016)を参照しました。今後も、上記の書籍を含め、「在野研究」に関するあらゆる分野の書籍について、紹介できればなと思っています。)



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