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橋本倫史『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』試し読み(赤とんぼ)


変わっていく風景、続いていく暮らし
70年以上の歴史を持つ沖縄県那覇市の第一牧志公設市場。地元で愛され観光地としても賑わう場所の立て替え工事は、市場界隈の人々にどんな影響を及ぼしたのか。ひとつの街の変化から見えてくる時代の相貌を、4年間にわたる丹念な取材で捉えた濃厚な記録。

タコライスが郷里の味に 赤とんぼ・仲村敏子さん

 開南のバス停から、緩やかな坂を下る。「サンライズなは」というアーケード街を進んでゆくと、イエローの外壁が印象的な、こぢんまりとした可愛らしい店が見えてくる。タコスとタコライスの専門店「赤とんぼ」だ。
 店主の仲村敏子さんは昭和19年生まれ。西表島で育ち、高校進学を機に石垣島に出る。卒業後は沖縄本島に渡り、ずっと那覇で過ごしてきた。24歳で結婚し、3人のこどもを育てながら仕事を続け、家計を支えてきた敏子さんには夢があった。それは、「いつか小さな店を持ちたい」というものだった。
 50代を迎え、子育てが一段落したころに物件を探し始めたところ、知り合いの紹介で今の場所と出合った。わずか2坪の店舗で商売を始めるにあたり、敏子さんが目をつけたのがタコスとタコライスだった。
「私が店を始めたときはね、那覇でタコライスを出す店はほとんどなかったですよ」。敏子さんはそう振り返る。「そのころはまだ、タコライスは中部の食べ物だったから、那覇の人だとタコライスって知らない人も多くて、『何、タコが入ってるの?』って言われてね。那覇でタコライスを出す店がないんだったら、イチかバチかやってみようって、それでこの店を始めたんです。タコスとタコライスを作るだけなら、そんなにスペースも要らないし、ひとりでもできるんじゃないかと思ってね」
 タコライスが誕生したのは、1984年のこと。米軍キャンプ・ハンセンのある金武町で「パーラー千里」を創業した儀保松三さんが、円高の煽りを受けて金銭的に余裕のない米兵たちに満腹になってもらおうと考案したのがタコライスだった。
 お店を始めるにあたり、敏子さんは中部に足を延ばし、タコライスを食べ歩いた。そうして独自に研究を重ね、お店をオープン。店名は迷うことなく「赤とんぼ」に決めた。
「幼いころ、台風が近いときには、同級生と庭ぼうきを持って赤とんぼを追いかけた思い出があるんですよ。自分が小さいころは、西表に赤とんぼもいたし、水色のシオカラトンボもいたんですよ。当時の記憶というのは、今でもまだ残ってます。海がすぐ目の前にあって、学校があって、すぐ後ろに山があって─ もう、海と山しかなかったからね。夕日が沈むのもばっちり見えるし、太陽が上がってくるのもはっきりわかる。あの風景というのが、自分の故郷だなと今でも思うんです。離れてみて初めてわかりますよ。当時の思い出が、今も焼きついてますね」
「赤とんぼ」と暖簾を掲げ、お店をオープンしてみると、小さな店舗とはいえひとりで切り盛りするのは大変だった。そんな敏子さんの姿を見かねて手伝ってくれたのが、近所の高校生たちだった。
「オープンしたばかりのころは、何をどうしていいか、自分でもわからなかったんですよ。あの当時はまだ、私ひとりでやっていたから、仕事が手に負えなくて。そのときに─今でも忘れられない、農林高校の生徒たちが手伝ってくれたんです。たまねぎやにんにくの皮を剥いたりしてね。おばさん、おばさんって毎日学校帰りに来てくれた。あの子たちが私のお店の第1期生です」
 お客さんとしてお店を支えてくれたのもまた、高校生たちだった。那覇ではまだタコライスが物珍しく、大人のお客さんは少なかったけれど、高校生たちがお昼休みや学校帰りに立ち寄ってくれた。
「昔はもう、手に負えないようなこどもたちもいっぱいいましたよ」と敏子さんは笑う。「タバコを吸う子や、唾をぺっぺと出す子もいたけど、そういう子にはティッシュペーパーの箱を投げて、きれいに掃除させてました。この通りはゲームセンターもあったから、じんせびりっていうの、お金をせびるこどももいたんです。うちで買い物した子の後を追って、肩を組んですーじぐゎーに連れて行く悪い子たちもいてね。そういうのが見えると、私も後を追って、『その子はおばちゃんのいとこだけど、なんか用事あるの?』って追い払ったりしてましたよ」
 ただ、一見すると手に負えないこどもたちも、「家庭環境に問題があるだけで、本当は素直な子だったんですよ」と敏子さんは振り返る。「私自身、親の援助は受けないで、自分で働いて学校を出てきたから、そういう子たちの気持ちが痛いほどわかるんです」
 当時に比べると、サンライズなはの風景もずいぶん穏やかになった。昔は開南のバス停を起点にして人が行き交っていたが、2003年にゆいレールが開通したことで流れが変わり、人通りは少なくなった。それでも敏子さんは、「こどもたちが気軽に立ち寄れる場所を残したい」と、営業を続けてきた。広告を出したことは一度もないが、口コミで評判が広がり、ここを目指してまちぐゎーに足を運ぶお客さんもいる。人気の秘訣は、やはり味だ。とにかく新鮮な食材にこだわり、ソースも自家製だ。
 当初はひとりで切り盛りしていたが、今では長男と長女もお店を手伝うようになった。「赤とんぼ」の味はこどもたちに引き継がれているけれど、「引退するとボケちゃうから、今でも店に来てるんです」と敏子さんは笑う。「ここに立っていると、ちょっとしたことでお客さんとのコミュニケーションが深まるし、面白いですよ。それが楽しくて、だからやめられないんです」
「赤とんぼ」には窓があり、そこが注文口となっている。窓のサッシには小さなメッセージカードがいくつか貼られており、お客さんへの感謝の思いが綴られている。「忙しい時だと、直接気持ちを伝えられないから」と、敏子さんが暇を見つけて書き、貼り出しているのだという。タコライスを待ちながら、メッセージカードを読んでいると、忙しい時間の隙間を縫って文字を綴る敏子さんの姿が思い浮かび、胸がいっぱいになる。
(2021年4月23日掲載)

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