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東京で家賃7.5万のワンルームに住み自然を追い求めていた頃

自然が足りない。自然があるところにいきたい。

毎週末そのように呟き始めたのは、初めての一人暮らしで東京に出てきてから半年後くらいだったかもしれない。

日々の生活の疲弊が閉鎖的な空間で癒されることはなく、じわじわと自然への欲求が掻き立てられていった。


当時住んでいたマンションは、家賃7.5万円の狭いワンルームだった。

窓は窓としての機能をほとんど果たす気がないようで、磨りガラスから微妙に差し込む濁った光が、部屋の明度を少し調整しているだけだった。

毎朝聞こえてくるのは、管理人のおじいちゃんがゴミ捨て場のゴミを無愛想に選別する、ガサガサとした音。

ベランダの洗濯物を取り込みながら風を感じようとすると、排気ガスの匂いが鼻につく。


そんな東京暮らしにうんざりした私は、「自然」「癒し」などといった単語に安易に飛びつくようになっていた。

今週末はどこで自然を感じようか?

ちょっと遠出でもしようかと意気込むが、結局ミッドタウン・ガーデンや代々木公園に落ち着いてしまう。

私には自然を感じに行く体力すら残っていなかった。


これで、最後ですね。

引越し屋のお兄さんはそう言って、最後のひとつを運んで行った。

あれ、ワンルームもこうしてみると意外と広かったのかもしれない。いやいや、錯覚、錯覚。

東京での生活は、勤めていた会社をやめる一ヶ月に幕を閉じた。


亡くなったおじいちゃんの和室に、冷蔵庫やレンジが運ばれていく。

畳の上に整然と並べられた家電たちは、ここは仮住まいでしかないと思っているようだ。

私はおそらく、当分の間、ここで暮らすだろうに。


レースの暖簾を少しだけ押し上げて、こっそりと入ってくる風。

遠くや近く、上や下から立体的に聞こえてくる鳥たちの声。

庭の木に茂った葉が、擦れる音。

自然は全部、そこにあった。

実家に戻った私は、それを思い出した。


私の実家は絵に書いたような田舎というわけでもなく、ごく普通の住宅街の中にある。

本当の田舎を知っている人なら、ここも自然が少ない方だと思うだろう。

しかし、自分で見ようとし、感じようとすれば、自然は確かにそこにあった。

今はそれをできるほどに、心が養分でいっぱいになってるのだと思う。


もしかしたら、あのワンルームにも、ささやかな自然はあったのかもしれない。

そういえば、ベランダに誰かが置いていった小さなサボテンがあった。

ただ、あのときはそれを見つける力が、私には残っていなかったんだ。

そう納得し、今日もこの自然に感謝して生きる。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。