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「本の森」  下田 玲奈

 初めて尾崎翠の名を知ったのは、大学一年の春休み、屋久島での旅の途中で、であった。私は普通電車を、地元小田原から乗り継ぎ乗り継ぎ、三日間かけてその島に辿り着いた。二日間の滞在を終えて再びフェリーに乗り込む直前、島におそらく一軒しかない、古めかしい木箱のような本屋に入った。携えてきた五冊の文庫本は、すでに読み終えてしまっていた。
 店の入り口には、子供向けの雑誌や正方形の絵本が並び、幾人かの子供たちが手ぶらで冷やかしに来ていた。作り物のように美しく見えたその空間を乱さないよう、私はそっと彼らの脇を通り過ぎた。カウンターの内側に、眼鏡をかけたおじさんが、クリーム色のデスクチェアに収まっていた。店内には私一人だった。
 私は文庫本の棚を物色し、案外新しい本が揃っていることに驚いた。店の奥にある、たんかんの網袋がぎっしり入ったコンテナこそ目立ったが、本棚には埃も溜まっていない。雑誌の棚も時間をかけて廻った後、結局一冊の文庫本に決めた。おじさんを振り向くと、デスクチェアに沈み込んだまま、本を読んでいる。
 会計するために本を差し出すと、私の中で気分屋な社交性が頭をもたげた。この人と何か話したい。
「何かおすすめな本はありますか」
「どういう本が好きなの」おじさんは眼鏡の下から私を見上げ、逆に問うてきた。少し考えて、私は道中に読んで「いい」と思った本の題名を挙げた。
「ああ、川上弘美ね」おじさんはにっこりと笑った。始めは、屋久島の森で見た老木のように朴訥の人に見えたのに。
「それなら、あれも好きだと思うよ」そう言っておじさんが教えてくれたのが、尾崎翠の「アップルパイの午後」であった。その場でおじさんおすすめの本を購入できればよかったのだが、あいにく在庫がなかった。
 尾崎翠。
 忘れっぽい私は、携帯にその名前をメモしてから店を出た。物欲しげな目をしていたつもりはなかったのだが、おじさんは最後にたんかんの網袋を一つくれた。
 そしてその年の初夏、大学の図書館で私は、生まれたばかりのように瑞々しい、「彼女」の世界に出会ったのである。
 それから三年後、大学四年の春休みに再び屋久島の土地を踏んだ。時が止まったようなその本屋の同じ椅子に、絹のように真っ白な頭を見つけた時、言い知れぬ幸福感で胸が一杯になった。
 平積みになっていた屋久島に関する本を手にとって、読む振りをしながら私は、始めの台詞を頭の中で書いたり消したりを繰り返した末に、言った。
「三年くらい前に、ここに来て尾崎翠の本を教えてもらったんです」
「ああ、覚えているよ。尾崎翠について話す機会はそうそうないからね」
眼鏡の奥のおじさんの眼差しが、当たり前のように私を見つめる。
「もう忘れちゃってるだろうなと思っていました」おじさんは微かに首を振る。
「私、尾崎翠の本で卒業論文を書いたんです」背に隠していた贈り物を差し出す時のような、嬉しい気恥ずかしさだった。
するとおじさんは血色のいい、羨ましいくらいにつやつやした頰をさらに紅潮させて、笑い声を立てた。三年間の私の「物語」が円を描くように収束した。
 尾崎翠について、広く本についての、私のとりとめのない考えを、おじさんはやはり同じ場所に立ち尽くす木のように、うんうんと聞いていてくれた。
 迷子になりかけた話の行方は、
「小説だから表現できるものがあると思うんです」という思いがけず控えめな声に落ち着いた。
「ある本を面白いと思う感受性が、その人に備わっているかどうかだと思うんだ」
 私たちは何かを確認するように、何度もゆっくりと頷き合った。
 旅から帰ったら、卒業論文を郵便で送る約束をして、店を出た。
 家に帰ってしばらくして、自宅のポストに葉書が入っていた。おじさんの元に、私の長い手紙、卒業論文は無事届いたようだった。達筆なボールペン字を読んで、初めて「本屋のおじさん」の名前を知った。

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東京都在住。来年中に本屋を福岡にて開業計画中。 https://hontohitsuji.wixsite.com/book
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