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原田まりるさん

『まいにち哲学』のトークイベントで「寂しいと思うことある?」と聞いたところ、まりるさんは「寂しさを感じることはよくあるが、30分くらいしか継続しない」と、考えながら答えてくれた。

イベント後のnoteから引用する。

「寂しさは、虚しさに変色していく」というのが私の中の感覚です。一見すると寂しいという気持ちが継続しないというのはいいことだらけに思えますが、逆にいうと「どうでもよくなるのが早い」ということにもなりますよね。執着心が薄いので、すぐに気を変えられるのだろうとも思いました。

『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』に、寂しいという感情から起こした衝動的な行動はろくな結果を生まない、というようなことを書いた。
例えば、寂しくてついクリスマスイブにデリヘルを呼んだ結果、「クリスマスイブにデリヘルを呼んだ男」と隣人(私)のネタにされる、みたいなことだ。

(デリヘルを呼ぶことが悪いと言っているのではない。壁が薄いのだから、焦らずホテルへ行ってホテヘルを呼ぶべきだったのだ。)

実際、寂しさをやり過ごせず、普段ならありえない、一般的に見て愚かなことをしてしまう友人もいた。それは、私が寂しいという感情を理解できない人間であったからかもしれず、残念に思うこともあった。

だが、同じトークイベント中に、結局人はその人がしたいことをしているというような話をした。(ざっくりすぎるが哲学の話だ)

寂しい状態に執着する人はその状態にいることが気持ちいいのであって、私がベタベタしようがコチョコチョしようが、彼女は寂しいままでいたのかもしれない。

ミステリ小説なんかでは、殺意の炎を聖火のように燃やし続け、「いまかよ!」というタイミングで凶行に及んだりする。
きっとあれは、炎が消えなかったのではなく、自ら燃料を投入したり、うちわで扇いだりして維持したのだろう。つまり消したくなかったのだ。
私だって殺意くらい抱くことはあるが、経験上、あんなエネルギーの要るものは、もって3秒である。

執着し続けた相手を殺した後に残るのは、虚しさだと想像する。
ヨッシャー!わし殺ったでー!と、ガッツポーズで余生をハッピーに暮らしたとはとても思えない。(例外・シリアルキラー)

何かに執着すると、自由な想像力が失われる。もし、そのままの状態で対象を失ってしまうと、ダメージからの回復は難しそうだ。

まりるさんのように30分で気が変わるのはかなり執着心の薄いタイプだが、ある程度の諦めや大雑把さ、飽きっぽさは、私が彼女に感じている湧き出るような強さと、精神的な健康さと、無関係ではないのかもしれない。

執着しない人は、執着しない状態が気持ちいいからしないのである。どうしてもしてしまうことに悩んでいるのであれば、もしかしたら本当はしていたいのかもしれないと疑ってみるのも面白い。
どちらがいい悪いではなく、好きなようにしたらいいのだ。

人はしたいように、なりたいように、生きたいように生きている、と少しずつ哲学に触れていくなかで思うようになって、それは他人に対しても自分に対しても、良い発見だった。

哲学が面白いよって教えてくれてありがとう。


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