わたしに理想の母親はいらない

大人というのは、完璧な存在なのだ。

思春期だった頃のわたしは、どういうわけかそう決めつけて疑わなかった。
何をもってして完璧な存在なのかという確かな線引きなどは知りもしない。ただ、あのときのわたしは、人よりわずかでも不得手なものがあることに異常なまでに怯えていた。誰から見てもうまくいっている自分でなくては、どうしても許せない。どこからきたかもわからない不可思議な義務感に、ずっと囚われていた。

そんな義務感が、親にも向けられるようになったのはいつからだったろう。
両親は、わたしにとって完璧な父であり、母であってほしい。知らず知らずのうちにそう求めては、理想と違う彼らを見つけてひどく反発した。

特に母とは、数えきれないくらい衝突したのを覚えている。
彼女を傷つけたと分かってもなお、追い討ちをかけるように醜い言葉を浴びせた。心のどこかで終わりにしたいと思いながら、わたしと母との関係は悪化するばかりだった。

母はわたしの母であるということに、ずいぶん苦しんだのではなかろうか。今でも眠れない夜にふと思い出して、やりきれない気持ちになる。
わたしが押しつけた幻想に重ならない自分を、母は大いに責めたはずだ。自分が自分であることさえも、嫌いにさせたかもしれない。わたしを娘として産むという選択をしなければ、母はあんなに苦しまずに済んだかもしれない、と。

母を母として、ではなく、いまのわたしと同じように、悩みながら、苦しみながら、自分を好きでいられる自分でありたいと、いつもささやかに、けれど一生懸命に生きている一人の人としてまっすぐに見つめることが、もっと早くからできたらよかった。

一人の女性としての彼女を見たとき、母は、わたしが知っていたよりずっと愛らしくて、少し抜けたところのある、素直なひとだった。
一方で、自分を犠牲にして我慢をし続けてしまうようなひとだとも知った。母のその弱さとも言えるところが、わたしには、とても愛おしく感じられた。

完璧でなんてなくていい。
長いこと、母とは血が繋がっていなかったら絶対に関わらない、と思って生きてきたけれど、今は違う。
時たま電話で聞く彼女の声は前よりずっと生き生きとしていて、こんなに魅力的なひとだったのかと、はっとさせられる場面が何度もある。その度に、わたしが彼女の魅力を殺していたのだと知る。今の母は、あのときよりずっとずっと綺麗なのだ。

母はいま、わたしの母になるという選択をしたことを、後悔してはいないだろうか。
つぎの春に帰るときには、母の好物をやまほど買って、楽しいみやげ話をたくさん用意して、元気よく、ただいまと言いたい。

#エッセイ

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