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「私は何者なのか?」という問いは命の探求かもしれない#1

その問いを突きつけられたのは、40代の厄年になりまさしく厄年で鬱病になってから本当の自分の生き方を探求せざるを得なかったと感じたからだと思う。同時にその探求をし始めて色々やり始めてから初めて湧き上がったものでもあるのかなと。

で、その話題が今日投稿をしたものにあり、改めて「私は何者なのか?」という事をガラクタ箱から久し振りにひっくり返して調べ直した所「リーダーシップ論」の中の項目にありました。

その項目では、「私は何者?」というシンプルな問いに関して、自分の過去を振り返り、それが今の自分にとってどんな影響が有るのかを直視するという方法が挙げられていました。

別の資料では、上記とは逆に「自分が何者で無いのか?」という問いによって自己探求するという方法も挙げられており、その論理の根幹は「人の土俵では相撲をとらなくなる」ということらしい。大半の人が苦しんでいるのは、対人関係において「自分以外の土俵で相撲をされられている」という。その事により人と比較し、勝手に劣等感を感じてしまうとの事。それが拗れて《こじれて》、自分のアイデンティティを防衛するために人を批判したり、自分より「勝手に」下に見える人間に対してマウンティングする。

その事が現代社会の有る種の病巣かなと思いまして、どこかしこで行われている事件や現象が「自分が何者か?」を問うことをしない人によって有る種のマウンティング合戦をしている節も感じます。それらによって心の病気を併発しているのかなとも。

でも、これを治す方法は意外と単純なものにあるのではと挙げてみました。

TVを捨てて、新聞を読まず、SNSもやらず、ひたすら自分の興味のある事に時間を費し、生きる為の労働やそれに伴う表面上の付き合いは最低限とし、自然とふれあい、気を使わなくても良い人達との付き合いには気軽さを持ちながらも利害関係を一切求めない。なるべくジャンクフードを摂らずスローフードの生活をする。

・・・あっ、私が行おうとしている事と重なっています(笑)

恐らく、これぐらいの環境を(あくまでも私の場合ですが)作っていかないと「私が何者なのか?」という命題を直視する事が出来ないのかもしれません。今日書いた話だけでは入り口にしかならないので、今後は色々な切り口で「私が何者なのか?」という事を綴りたいと考えています。

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