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残酷な神が支配する

購入してはいたものの、頁をめくる気力を溜めるのに幾日かかかってしまった。
将棋世界12月号(2023年)

第71期王座戦五番勝負第4局。
藤井聡太名人竜王による王座奪取、「八冠」の達成である。その記念号、その観戦記。
通常であれば、勝者である藤井八冠の偉業を讃える姿勢を主軸に、もしくは両対局者と等距離からの記事になることがほとんどだろう。
だが大川慎太郎記者は敗者である永瀬拓矢九段の「肉声を中心に」振り返っている。

この事自体、否の多めの賛否両論だと思う。私も永瀬九段の勝った対局の観戦記が敗者主体で綴られていた時はかなり残念に思ったものだ。せめて等距離均等に記事になっていればまだしも。

藤井八冠のファンの皆様方々申し訳ない。世間数多出回る「八冠」記事や出版物の中で1つぐらい大目に見て欲しい。こんなとこで懺悔しても届かないけれど。

さて。観戦記の内容はまさしく永瀬九段の「肉声を中心に」構成されているのだが、記事の最終盤にて大川記者が、失冠直後にもかかわらず自分とのやりとりが普段と変わらぬ話しぶりなのはなぜなのかとの質問する。その回答の最後、ぽろりとこぼれるように告げたことばが、

永瀬「個人的には残酷でしたね」

のひとこと。記者が真意を問うも「波風が立つので」と語らず。記者もそれ以上は詮索せずこれからの取材活動を通じて意味を知るとの覚悟を示してくれている。(期待せずにはいられない。)

残酷とは、なにか。

ざん‐こく【残酷・残刻】

きびしく無慈悲なこと。むごたらしいこと。残忍。「―な仕打ち」「―に扱う」

誰が何に対して、もしくは誰が誰に対して「残酷」だと永瀬九段はこぼしたのか。なにが「波風が立つ」と遠慮危惧したのか。

「八冠」ありきの風潮か。
「逆転」のゲームといわれる将棋の仕組みか。

それはそれであるのだろうがやはり、藤井八冠が残酷である、との意であったのではないだろうか。

棋界で永瀬九段ほど藤井八冠を敬愛し尊敬の念を表している棋士はいないだろう。そのうえで厳しく無慈悲で惨たらしいとの「残酷」の一語を言わしてしまったのは何か。

第4局に限定して考えれば、122手△5五銀打。

この一手は▲4二金からの「負け」を藤井八冠は覚悟して「開き直った」からだとこたえているが。
この開き直りに至る過程において「お互いに一番人生で指している相手」である永瀬九段の「終盤力」を熟知しているという背景があり、逆転できる僅かな可能性も人読みをいれれば最大化できると言わんばかりに「誘った」のではないか。
そして永瀬九段はその背景を了解したうえで「残酷」と表現したと一次的には考えている。
そして永瀬九段の考える「残酷」と辞典的意味の「残酷」には若干乖離があるのではないか、というのが私のこのnoteの主題だったりする。
(前置き長過ぎる問題)

と、勿体ぶったわりに長々と妄想するわけではないのだが。ただ、永瀬九段の表現する「残酷」が藤井八冠に向けてだと仮定するならば、藤井八冠の性格を「穏やかで謙虚、いつも変わらない。立場が変わっても変わらない凄さ」を事あるごとにのろけているのに、こと将棋になれば「藤井さんはカラい」とも言っている。そのカラさはいついかなる状況であろうとも、秒読みだろうがタイトル戦だろうが圧倒的敗勢だろうがそんな与件は一切視野には入れず只只将棋の真理をのみ見つめて指してくる。

凡愚なる人々の理解しうる常識や規則といった枠組とはステージが違う、誰よりも日々研鑽努力する眠らない兎的な超越者の視野と論理が、努力し続ける亀にもそこに垣間見えてしまったのではないか。

古来、神は善神悪神関わらず人の理解のラチ外にあった。

誰よりも多く互いに指してきた間柄であるが故に、これまで以上に将棋への理解度が上がり自身の棋力が伸びていることを確認した。その境地に達してこそ解った、解ってしまったこと。
その距離感が「残酷」なまでにリアルに感じ、リアルに感じる境地に達してしまったことが「残酷」と言わしめたのではないだろうか。
残酷さに気づくには相応の棋力が必要で、その棋力まで到達するには藤井八冠との切磋琢磨する日々が必要であっただろうから。

永瀬九段の「残酷」に妬ましさや悲壮感はない。
感情や情念を越えてただ圧倒的な現実を準備なく否応なく理解してしまったコトを自身が咀嚼して理解するための「名付け」として「残酷」の語を宛てただけなのではないか。

だからこそ理解した上はノーサイドであり、また明日からVSを再開するのだろう。

残酷な神が支配する世界は大多数の人々には温かく希望に満ちて、一握りの人々には土を舐めながら立ち上がる勇気を厳しく無慈悲に試される。
こんな物語を夢想せずにはいられない。

#王座戦
#永瀬拓矢
#藤井聡太
#将棋世界



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