「性欲を抑えられませんでした」というわかりやすい言い訳が目の前にあるからやろうとするのでは?
いち男性として男社会の中で育つと、こう思わされることが多い。
「男って、いろいろ社会から許されてるなー」
何かにつけて「男だからしょうがない」「男はそういう生き物だ」「男らしさを忘れなければいい」など、しくじってもある程度免罪されるような言葉をかけられる機会がたくさんあるのだ。
その「しくじり」が単にちょっとしたポカであれば問題ないのだが、女性を傷つけるような行いでもそういう言葉で「なあなあ」にされる。
さらに言うと、失敗をしてもやり直せる社会なこと自体はすごく良いのだけれど、別にやり直せるきっかけが「男だから」である必要はない。なのに「男だから、失敗してもいいのだ」的な物言いで社会から許される。そして逆に、女性は「女だから」「女なのに」という理由付けでとがめられる。
僕たち男性は、そういう世界をずっと見て育ってきている。
その「世界」に対して「嫌だな」と思うかどうかは結局その男性の性格や周囲の人たちのパーソナリティにかかっている。どんなに「許される」現実を目の前にしても、やっぱり「こんな世の中間違ってるよ」と感じ続ける男性もちゃんといて、男性はそこで2つの層に分かれると言ってもいい。
ただ、男性だからという理由で許される世界はたった一つの現実として、男性の目の前にも、女性の目の前にも存在している。
厄介なのは、その現実は性別によって見え方が違うということだ。女性の場合は、被害に遭う、理不尽や不利益を被る時に激しく顕在化するのに対し、男性社会では常に可視化されている。
どんなにセクハラが、性暴力が、コンプライアンスがと言われていても、男性は社会を生きていく上で「男性だから許される」という物言いのほうを多く目にする。
さて、こういうふうに「浮気してもいい」「女は強引に迫ったほうがいい。そういう男のほうが魅力的」「やってしまえば女はなびく」という言説を社会のどこかしらで目にする機会が繰り返されると、どういうことが起きるか。
そのような行いをした男性が言い訳に使うのはもちろんなのだが、ことはもう少し厄介なんじゃないかとずっと思ってきた。
特に性暴力の場合「性欲が抑えられなかった」という性犯罪者の言い訳がよく使われる。これには「男性は性欲が抑えられないようにできている」という(架空の)コンセンサスが前提になっている発言だ。浮気、不倫、〇股とかも同じ理屈のことが多い。
実際は性暴力は相手を選んでやっているし、浮気や不倫だってばれないように計算して立ち回る。「男性は出さないと○○が溜まる」という都市伝説も、出さなくてもやがて体内に吸収されるので、人に暴力をふるってでも発散しないといけないような性欲はない。
性暴力に走らない男性はオ〇ニーを頻繁にやっているから大丈夫なのだという言説も、嘘だと思う。そのことを知っている男性はたくさんいるはずだ。
性暴力の発露は性欲よりむしろ、支配欲など関係性を見越したうえでの非常に理性的な産物だと言える。
その「理性」は、被害者との関係性だけでなく「社会にあらかじめ言い訳が用意されている」という現実も見ているんじゃないだろうか。こうした言い訳があるから、実行に踏み切れる。やってしまっても、この言い訳を使えば、許されるのではないかという激甘の幻想が、ただの妄想から現実へのラインを踏み越えさせる。
これは言い換えれば、
言い訳そのものが、欲望を喚起している
ということなのではないだろうか。例えば、もし社会に「男は浮気する生き物なんだよ」という偽物の「共通理解」がなければ、これほどまでに浮気してもかまわないという男性がいただろうか。
女性に薬を盛ってホテルに引きずり込んでレイプするという、どう考えても犯罪でしかない行いが「許されるという可能性が高い」のと「絶対に許されない。社会から厳しい罰を下される」のとでは、そもそも「やってやろう」という欲望が生じる割合が大きく違うのでは。
「風俗に行くパートナーが多い」と嘆く女性も多いが(風俗従業者への差別や待遇改善はまた別の話)、そもそもなぜ彼らが風俗に行きたくなるのかと言うと、やはり日本の社会にものすごくたくさん風俗店があるからだ。そういう店が、これほどまでに利用しやすく、かつ目につくところにたくさんなければ「風俗に行きたい」という欲求も今ほどではなかったはずだ。AVなどのアダルトコンテンツも同じだ。
そうしたビジネスの場合は「ニーズを先回りして儲けている」というマーケティング礼賛で話は済むかもしれないが、性暴力や不誠実な恋愛などはそうはいかない。誰かを(特に女性を)傷つけるからだ。
もちろん、女性もひどく人を傷つける浮気や不倫をするし、性暴力もやる。でも彼女らの場合は社会の中で置かれている立場は、男性加害者・不義者のそれとはかなり違うのは確かだろう。
ほんとうは誰が加害しても不義を犯そうとも「許されない」重みにまったく区別も違いもないはずだが、男性が行為者である時のそれと女性の時とでは批判・糾弾の声や判決には大きく差がある。
このような「現実」は、「許されるのは男だから」という認識を生み、そして「男とはそういうものなのだ」という言い訳を生む。その言い訳は巡り巡って「やっても許されるから、やる」という実行への欲望自体を生み出すのではないだろうか。やっても許される世の中なら、多くの人がやろうとするだろう。
例えば人のことを無許可で撮影しても(被写体からですら)何も言われない社会があったとすれば、目の前にいる気に入った人をあからさまにバシャバシャ撮るようになるはずだ。「盗撮」という犯罪があるのは、それが「許されない行い」だからだ。
ただし、そうした「許されない行い」に対してですら、男であれば「許される」こともままあり、あるいはそのように勘違いしてしまう構造が社会の中に組み込まれているということだ。
そうでなければ、性犯罪を犯した男性たちがあれほどに「性欲が抑えられませんでした」という紋切り型の言い訳を口にするはずがない。その物言いが、犯罪を犯してもしょうがないだけの「通りの良い」理由だと信じているからだろう。または実際に裁判で通用するので、弁護士が指示しているのかもしれない。
そのように、社会から下駄を履かされ許されることがままあるという現実を見てきていながら、フェミニズムに理解のある男性がその成育環境に言及することはそんなに多くない。
「自分はそのような環境でもまともに生きてきた」というプライドがあるのかもしれないし、シンプルに「社会から許されると思う男」のことがまったく理解できず、関わりたくないのか別世界の出来事と思っているのかもしれない。
しかし、そうした男性を大量に生むメカニズムをいちばん近くで見ているのはやっぱり僕たち男性なのだ。大事なのは「中にはちゃんとわかっている僕のような男性もいる」ということではなく、そうじゃない男性がたくさん「社会に育てられている」ということのほうだ。
個人的には、そういう構造を叩き壊すのは「敵をよく知る」男性自身の声が欠かせないと思うので、僕はこうやって継続的にその社会の構造について書いている。
とにもかくにも「男だからいいのだ」という言い訳を使えない世の中にはしたい。そういう僕もどこかで社会に下駄を履かされているはず。僕は、自分の正しい身長は自分で測りたい。それをわからなくする下駄は、さっさと脱いでしまいたい。
投げ銭制です。面白かったという方は、ぜひ応援よろしくお願い致します。いつもありがとうございます。
「性欲を抑えられませんでした」というわかりやすい言い訳が目の前にあるからやろうとするのでは?
100円





