「書いて、再会」 後編

親が自己破産し、経済的に頼りまくりだった自分が突然自立しなければならなくなった。その少し前にバイト先で大先輩のベテランのおばさんにいじめられて嫌気がさし、欠勤を繰り返してクビ寸前になっていたのに、なぜかよその部の部長に拾ってもらい、会社のバイトの役職の中で一番いい仕事「マイクロフィルムの撮影」業務につけてもらった。

そのかわり僕は四面楚歌の状態に立たされることになった。誰の目にも明らかな形で「こいつをこの仕事に抜擢して良かった」と突き付けなければ、ここにいられない。しかも、親に金も送ってやらないといけないから、やってみたけどダメだったというわけにはいかない。絶対に、仕事ができるようにならないといけなかった。ギャンブルですらない。必須なのだ。

その僕がどんな努力を重ねたかは、interludeを参照されたい。

とにもかくにも、僕は何とか通常ノルマの2倍以上の数字をコンスタントにあげることができるようになった。とは言え、撮影中は一切喋らず孤独にひとりで機械に向き合っていたし、たまに話すのはフィルムチェックの社員くらい。その彼とは残業後の深夜によく奢ってもらって一緒に飲んで、仲良く喋ったり時に口論したりした。

昼食は会社近くの弁当屋でおかずを選べる詰め合わせ方式のものを買って社内の隅の方の机で独りで食べるか、おかず+チャーハン食べ放題の中華料理屋に行ってたらふく食べるかのどちらか。食い意地の張った僕にとって、その時だけがほっと一息つける時間だった。いずれにせよ、昼休みでもバイトの同僚や先輩たちとゆっくり話すことはほとんどなかったわけだ。

だから、仕事の成績としては間違いない数字をあげていたものの、突然他の部署から現れて、いちばんいい仕事をあてがってもらった僕について、みんながどういう気持ちでいるのか、よくわからなかった。と言うか、それどころじゃなかった。

今日では、月に80時間以上の残業は「過労死ライン」と言われている。でも僕は、この頃それくらいを普通にやっていた。しかもその後飲みに行ったりもしていたわけだ。なので以前の経歴の中でハードそうな職業に就いていた人によく「残業100時間とかやったことあります?」と訊いて、そうだと答えた人には意味もなく親近感を持ってしまう。きっと30前だったからできたのだろう。若さとは恐ろしい。

とは言え確かに、時々トイレの個室に座って5分くらい寝て何とか仕事を続けていた日もある。フットスイッチでちゃんとマークを入れられたかどうかをチェックするために、撮影しながらずっと幅3~4cmくらいのデジタル表示のカウンター画面を見つめ続けているので、呆れるほど良かった視力もみるみる落ちた。

残業は強制ではないので、あくまで自分の意思でやっていたけれど、やっぱりギリギリのところで働いていたのだ。だから、しばらくの間、同僚の視線について想いを馳せる余裕もなかった。

そんなある日、大学時代からずっと付き合っていた彼女が仕事の関係で青森市に赴任することになり、夏の終わりに慌ただしく東京から引っ越して行った。撮影のハードな労働を続けながら、その手伝いもした。大学時代も一度経験しているけれど、また彼女との遠距離恋愛がはじまる。まるで飢えているかのようにただただ撮影マシーンと化していた自分の日常に、その時ようやく「これからどうしよう」と考える時が訪れた。

「僕が東京にいる意味って何だろう。でも、親をサポートしないと・・・」

東京に独り残され、突然虚しさをおぼえた。青森に、僕も行きたい。でも、そんな金はない。

悶々と過ごす日はすぐに終わった。彼女が去ってから1ヶ月ほど経った頃、突然部長が部署の全員を集めて、この会社が今年度いっぱいで廃業すると伝えたのだ。データのデジタル化の技術が進み、うちにマイクロフィルム撮影を発注するのをやめ、携帯会社が自前でデジタル保存するという体制に移行するため、収益のほとんどをこの仕事からあげていたこの会社はもうつぶれるしかないのだという。

部長はそこで、僕たちに2つの選択肢を提案した。この会社が提携している似たような業務の職場に推薦してもらい、年度終わりを待たずにそちらに異動するか、あるいは年度いっぱいまで残務処理をやって、そこで退職するか。

これは、青森に行くチャンスなのかもしれない。そう決意するタイミングが思った以上にすぐやって来たことに、我ながら驚いた。

問題は親だ。しかしこちらもすぐに解決した。両親は完全に自己破産の手続きを終え、持ち家を手放し、もろもろの整理を済ませ無事府営住宅に落ち着いたのだ。とりあえず当面は何とか生きて行けそうだから、もう金を送る必要はない。会社がこういうことになったので彼女を追って青森に行きたいと親に伝えると、そういう返事が返ってきた。

問題は、青森に引っ越す資金を捻出できるかどうかだ。いくらぐらい必要で、それを稼ぎ出すためには、どれくらいの時間をどれくらいの時給で働かなくてはいけないか、綿密に計算した。その時の撮影業務の時給より200円上がったら、ギリギリで稼げることがわかった。

部長によると、年度末でビルを出ないといけないので、今抱えている大量の受注分書類は処理し切らないと困るらしい。その量は、通常ペースで片づける場合、残りの日数では足りないくらいある。つまり、最後まで残って頑張る僕らバイトの腕にかかっているのだ。会社にとっては、一種の弱みだ。

「時給を200円上げてください」と部長に交渉しなくては・・・と独りで悩んでいて、もう今日にでも言おうか、と思っていたその日の朝。

撮影隊の先輩や、書類整理のベテランのおばさん世代の女性バイトの人たちが「シラオくん、時給上げてもらおうよ。あなた、そんなに頑張ってるんだからさ。ね。一緒に言いに行こう」と声をかけてくれた。

僕は、この時はじめて、この職場の人たちにちゃんと認めてもらっているのを知った。交渉はどのみち、独りでもやるつもりだった。そんなことより僕のこれまでの頑張りをちゃんと見ていてくれたことの方が嬉しかった。

みんなとランチをしながらどう切り出すかを相談し、その後の部長との交渉はちょっと緊迫したムードになった。僕らが「自分たちがいなきゃ、困るんでしょ。ここは、私たちの経験と能力にちゃんとお金を払うべきでしょ」みたいなことを言ったら部長が苦い顔で「そんなに大したもんなのか」と答えたからだ。先輩たちはその言い方にえらく立腹し、正直ダメなのかと思ったが、部長はちゃんとみんなの時給を上げてくれた。僕の計算した通りの額だ。あとは、これも計算通りの時間を働くだけ。でも、その計算以上やらなければ、片付かないくらいの量の書類が残っていた。

もうこの仕事も終わりだ。僕は、これまで以上に撮影マシーンとして頑張って、有終の美を飾りたい。

ベテランの先輩たちに認められていた。そのことが、僕の気持ちをすがすがしいものに変えていた。そこからの数ヵ月、残業100時間は普通に超えるような猛烈な労働が続いたが、それよりも、いつも親に金をせびって生きてきた自分が、自分だけの力ですべてを解決できそうという充実感が僕を満たしていた。ちゃんと働いて、ちゃんと自分ですべてを考えて、自分が稼いだお金だけを自分の人生に投資する。そんなことは、それまでの自分の人生の中で一度もなかったのだ。

そうしてまさに過労死ラインを超えたゾーン突入で死ぬほど働いた甲斐があり、残務処理はすべて終了。いよいよこの職場での最後の日がやってきた。3月半ばのこと。引っ越し資金は、すでに予定金額分貯まっていた。苦労したものの青森での新しいアパートも見つけ、安い引っ越し業者も手配し終わっていた。東京での日々が、終わろうとしている。

その日出勤して、僕はどうしても言いたいことがあった。クビ寸前のところを拾ってくれた部長へのお礼だ。彼が救ってくれなかったら、僕はこんな日を迎えられなかったし、自分の職人としての力に誇りを持つこともなかった。

「僕は、部長のご恩に報いることができたでしょうか?」

「十分すぎたよ。俺は誇らしかった。君がいなかったら、この量は片づけられなかったと思っている。時給値上げの交渉も、君が言うならわかるんだ」

嬉しくて、すぐトイレに行って少し泣いた。どうしようもない僕に、こんな言葉をかけてもらう日が来るなんて。僕は、ろくでなしじゃない。ちゃんとこうやって働けるんだぞ。やりきった感が、急激にこみあげた。

もう片付けムードの社内で、身辺整理をしながらベテランのおばさんたちが「シラオくん、今日最後だから上がったらみんなで飲んでいこう。ほんとに頑張ったねえ」と誘ってくれた。これも嬉しかった。でも、今日でお別れなんだな。そのことに気づき、同時にとてもさびしかった。

もう、この空間に入ることはないんだ。職場を去る時は、いつも少しさびしい。

会社は大久保にあったので、打ち上げは韓国料理店に。この最後の晩餐で「実は、彼女を追って青森に行くんです」とみんなにはじめて伝えた。みんな囃し立ててくれたけど、ポツンと誰かが「じゃあ、シラオくんともこれでお別れね」とつぶやいたのが印象に残っている。

たまたまみんな中央線沿線に住んでいるので、帰りの電車も一緒。そして、中野で降りる僕が一番最初の降車だった。大久保から中野はすぐだ。無事勤め上げて、仲間とはじめて飲んだ余韻も冷めやらぬうちに近づく、中野の駅。

みんなが口々に「じゃあ、シラオくん、元気でね」と言ってくれる。もう、この人たちと会うことも話すことも飲むことも、一緒に働くこともないんだ。せっかく仕事ぶりを認めてもらったのに。

そんな思いが胸を通り過ぎ、みんなを乗せて遠ざかる電車に向かって深々と下げた頭を、僕はなかなか上げられなかった。

「本当に、お世話になりました」


それから十数年経つ。仕事が少ない青森市でも何度か失業を経験したけれど、あの会社で最後に頑張った時に得た「プロとしての誇り」がいつも僕を踏ん張らせた。僕はちゃんと仕事ができる。頑張れる。

あんな四面楚歌の状態から、みんなに認めてもらえるまでに、なれたんだ。この誇りは、かんたんには消えない。あの時の、仲間として認めてくれた先輩方の声は、その後も長い間僕を支えているのだ。

その僕は、ひょんなことからライターとして独立することになった。前職の図書館を辞めた翌月にすぐ、地元の最大手の新聞へのコラム連載が決まった。図書館の仕事も、うち数年現場主任を務めたこともあり愛着があったし、8年強いたので同僚への「同じ釜の飯を食った」感も強かった。だから、辞める日はあの時韓国料理店で聴いた「じゃあ、シラオくんともこれでお別れね」というつぶやきが胸に甦った。みんなと別れるのは、やっぱりさびしい。

しかし、新聞にコラムの初回を掲載した後図書館に行ったら「シラオさん、読みましたよー」と同僚たちが口々に言ってくれた。

「面白かったけど、やっぱりシラオさんだなーと感じました! なんか、シラオさんがしゃべっているみたい(笑)」

そうか、僕がどこかに書いている限り、職場を離れても僕とみんなはそこで再会できるんだ。そんな再会が、ありえるんだ。

じゃあ、これから僕がどんどんいろんな仕事をして少しは知られるようになったら、あの最後の日に一緒に飲んだみなさんや、お世話になった部長に文章で再会できる日も来るのだろうか。

これまで一緒に働いた、みんなに再会するためにも、僕は文章を書き続ける。みんながくれた、職人としての確かな誇りを胸に守りつつ。

僕にとって、今たどり着いたこの仕事は、そういう意味も持っている。

(了)

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オラシオ

コメント4件

ぐっと来ました!そしてやる気もらいました!ありがとうございます!
こちらこそありがとうございます。過去の思い出のメモ代わりに書いたのですが、思いがけず前中後編の長編になってしまいました。
一途なシラオさんだからこういった出会いができたのか、こういった出会いがあったから、一途なシラオさんになったのか
結果は今現在なんですよね。
良いお話有り難うございました。
>いこ・じわらさん やー、別にそんなに一途でもないとおもうんですけどねー。とりあえずマスなメディアに書いている限り、つながりは途切れないなと。そういった意味で書いているところはありますね。
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