私小説集「いつか出会った人たち」 ジェリー

僕はまだその頃、駅近くにある市立図書館で働いていた。もう、10年近く前のことになる。その日はたぶん、中番だったと思う。中番は11:30から19:00までの勤務だ。

地方の公共交通機関のローカルぶりは、僕のように免許を持たず自動車通勤できない人間にとって悩みの種だったが、中番の場合、19時台のちょうど良い電車があるので、仕事上がりに早く帰れた。もしこの電車を逃すと、バスも鉄道も、それから1時間くらい待たなければいけない。

その日が、どの季節だったかははっきりおぼえていない。確か、真冬か、冬に差しかかる頃の、けっこう寒い時期だったような残像が、記憶の中にある。

1~2時間に一本のペースなので、田舎とは言えど列車の中はそこそこ混む。館内を駆け回り、立ちっぱなしのことも多い図書館仕事で疲れ切っていた僕は、プラットフォームを歩きつつ列車の外側からロングシートの空きを目ざとく見つけて、すかさずそこに乗り込んだ。

手持ちのバッグから職場で借りてきた新書を取り出し読んでいると、やがて車内が混雑しはじめ、空いていた僕の両隣も席が埋まった。この街の人たちはギリギリまで動かないという習性があり、発車間際になるまでなかなか乗ってこない。混む気配に気づき、折り畳み式のガラケーを開けて時間を確認すると、もう間もなく発車の時刻だった。

基本的に、帰宅のために乗る人がほとんどなので、車内には疲れた空気が漂っている。運動部帰りらしい学生たちも、競技用具が入ったらしき大きなカバンを足の前にどかっと放置し、大股を広げてぐたっとしている。

込み合う車内で邪魔でたまらないが、僕を含め、誰も注意はしない。寛大だと言えば聞こえはいいが、田舎は案外、不干渉が当たり前になっている。

ようやく発車すると、突然僕の右隣の男が、彼の右隣の乗客に話しかけはじめた。英語だが、ネイティヴではなく、どこかの訛りがある。話しかけられたのは年配の女性で、この地方の訛りがある日本語で「わからない」と言い、会話が続けられるのを断っていた。

するとくるっと僕のほうに向き直って、隣の男が今度は僕に話しかけてくる。フィリピンか、南米系の顔だち。中年に見えるが、外国人の年齢は見かけではわからない。野球帽のようなキャップをかぶっている。

彼は、あまり流暢とは言えない英語で、僕が降りる駅の2つ先の駅について訊いてくる。僕の英語だって大したものじゃない。拙い同士の会話がはじまった。

彼が降りようとしている駅は、かなり歩いたところにタンカーらしき船が泊まる港がある。彼は、そこに行って船に乗り込み、2ヶ月近く海上で仕事をするらしい。東京のほうから来たと言う。この街はおろか、この地方に来たのもまったくのはじめてだそうだ。

「あんた、トムとジェリー知ってる? アニメの。オレの名前はあのネズミと同じジェリーって言うんだ」

トムとジェリーは、幼い頃好きでよく見ていた。図書館の児童コーナーの館内視聴サービスの大人気ソフトで、大人になった今でも、視聴ブースの再生状態をチェックするためのモニターで見ていて、思わず笑ってしまう。

あのシリーズは好きだよと答えると、ジェリーは人懐っこい笑みを浮かべて喜ぶ。すると唐突に声を潜めて、

「ところであんた、夜のクラブ行ったことがある? 日本のクラブ、すごいねえ」

と訊いてきた。クラブってDJがいて、みんなが踊るあれだろうか、目の前のジェリーの雰囲気にあまり似つかわしくないな、と話を続けていると、どうやら「キャバクラ」のようなところのことを指しているらしい。

「とにかく、おねーちゃんが綺麗で、優しくてすごいよ。オレ、日本のクラブが大好きになっちゃった」

と嬉しそうに言う。まだ行ったことはないけど、おねーちゃんはすごくかわいい人ばかりだって聞くよと答えると、彼は僕の肩に腕を回してきて「絶対行った方がいいぜ!」とニコニコしながらすすめてくれた。

ジェリーはそのまま、ふと上を見上げて、

「ああ。この仕事が終わったら、また行きたいなあ」

とつぶやいた。彼はこれから、船に乗り込んで、おそらく遠洋に出て、長期間厳しい仕事に就くのだ。そうしたところに赴く直前の人と、僕は話している。

彼の故郷はやはりフィリピンで、奥さんも子どももいると言う。仕送りは欠かさずしているそうだ。日本はやはり稼げるよ、と言う。それに、綺麗なねーちゃんがいるクラブもあるし、日本は最高だよと付け加えて、ジェリーは僕にニコッと笑いかけた。

やっぱ、綺麗なねーちゃんだぜ!と繰り返したのが妙におかしくて、僕は噴き出してしまった。

僕が降りる駅が近づいてきた。改めて、僕が降りた後の次の次の駅だとジェリーに伝える。握手して「じゃあね。楽しかった。健康でいてね」と言うと彼が「ありがとな」としっかりと僕の目を見て返し、そのまま手元に持っていた駅名を書いた紙に目を落として、再び目線を上げることはなかった。

これから、彼の厳しく長い労働がはじまるのだ。

ジェリーを乗せた電車が駅から出ていくのを見送りながら、こんなに長い間英語で会話したのは今日がはじめてかもな、ということに思い当たった。

おそらく、彼が外国人でなければ、日常でなかなか言葉を交わすことがない部類の人だったと思う。僕の身の周りに、工場などで働く肉体労働従事者はほぼいない。仕送りや、つかの間の楽しみとしてのキャバクラなど、彼が話す言葉の端々から、労働に明け暮れてきた人生なのだろうということが感じられた。

もう、とっくの昔にジェリーの「おつとめ」は終わって、港に降り立ち、あの駅からどこかに向かったはずだ。またキャバクラにでも行ったんだろうか。まだ日本のどこかで出稼ぎをしているのだろうか。あるいは、フィリピンに帰って、時々キャバクラのことなど思い出しながら、家族と暮らしているだろうか。

電車に乗って、車窓から彼が降りたはずの駅や船に乗った港を目にするたび、こつこつと働いて生きてきた年月が皺になって刻まれた、ジェリーの人懐っこい笑顔を思い出す。

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