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「誰でもできる」は、希望

最近の口癖は、「いやあ、これ、誰でもできる仕事ですよ」です。

時々書いていますが、諸事情につき昨年の4月から独立してフリーランスのライターになりました。CDのレヴューやライナー、音楽家のインタヴュー、新聞やウェブサイトへのコラム連載などなど、おかげさまで幅広くやらせていただいております。

物書きだけを仕事にしている人間なんて、特に私がいま住んでいる青森市みたいな地方ではほとんどいませんから、こういう職に就いているのを「才能があるから」と周りの人たちは持ち上げてくれます。

才能がある・・・・この言葉の響きはとても甘美で、聞くたびにうっとりしてしまいそうになります。それが本当なら。

そう言って下さる人たちに対して、決まって私は「文章を書く仕事は誰だってできますよ。いや、むしろ他の仕事よりもそうかもしれない」と返します。みなさん「いやいやいや。そんなわけない。だって私は無理だもん」とさらに返します。それこそ、本当にそうでしょうか?

と言うか「誰でもできる」ということは、良くないことなんでしょうか。よくありますよね、「お前のやっている仕事なんて、誰でもできる。かわりなんていくらでもいるんだぞ」とかいうやつ。こうしたセリフの場合、明らかに悪い意味で使ってますが、私はむしろいい意味でこの「誰でもできる」という言葉を使っているんです。

ネットが発達し、ブログやSNS時代になってよく言われるようになったのが「ライター気取りが増えて、世の中に出回る書き物の質が一気に下がった」というもの。私自身がブロガー上がりだからというわけではないのですが、この説にはかなり疑問を持っています。というのも、私は「そこに参加する人が増えれば増えるほど、層が厚くなり、結果的にその分野の質が上がる」と思っているからです。

ブラジルのサッカーやアメリカの野球、バスケがなぜあれほどにレベルが高いのかと言えば、子どもの頃からみんなやっていて、経験者や、それを継続して続けて行きたいと思う人がたっくさんいるからだと思うんです。そうすると、より大きなピラミッドが出来上がって、下の方で参加する人が増えれば増えるほど、上の方の「ほんの一握り度」はより激しくなり、レベルも上がります。

上で触れたサッカーや野球、バスケも世界中に広がることで、本家のレベルも上がったはずだし、そこではじめてカウンターとしての「これまでの常識を覆す」ような天才とか概念とかが生まれてくるんです。

例えば、バスケはひところオリンピックのアメリカ・ドリームチームに象徴されるような「もう、絶対勝てねえ」というアメリカ独り勝ちが当たり前でした。でもそこからヨーロッパ流の「アメリカさんにはスピードや体格で勝てないから、俺らは空中戦で勝つ」という方法論ができて、ちゃんとアメリカに勝つようになったんですって。スリーポイントシュートなどをガンガン打つ戦法らしいです。空中じゃ、いかにアメリカの選手がでかくて速くても、ボールに触れられないですから関係ないですよね。そして、こういうカウンターが生まれることで、アメリカもさらにそれに勝つためのことを考えるわけです。ずっとアメリカ独り勝ち状態だったら、こうした切磋琢磨はなかったかもしれません。

書き物もこれと同じです。ブログやSNSなどで、たくさんの人が「文章を書く」という行為に触れるようになると、その中から必ず人を面白がらせる力を持った人がどんどん出てきます。その「層の厚さ」の中で埋もれず、上に行くには、やっぱり努力してそれだけのものを常に書くしかないんですよね。私たちプロの書き手も、うかうかしていられないんです。どんな優れた書き手が現れて、私たちの居場所がなくなってしまうか、全然読めない勢いがありますからね。それは、全体としては書き手シーンのレベルアップにつながっているということなのではないでしょうか?

同じようなことを、前職だった図書館業界についても考えています。この記事で書いたらcakesにも掲載されて、けっこう話題になったのですが、今の日本では図書館員は司書資格を持っている人はそんなに多くないんですよ。図書館員の民間化、非正規化が進んで、より多くの人がこの職に就くようになりました。で、これまでよりももっとたくさんの能力を活かせる機会が増えたわけです。世の中にはいろんな力を持った人がいますから、図書館で働くのが司書資格や公務員に限定されず、現場に参加する人が増えれば、その分活かせるものも増えるわけです。

そして改めて「司書に必要な専門性とは何だろう」という問いが立ち上がるわけです。今ほど、図書館員の専門性について議論になったことはなかったと思います。自治体のブラック化など、問題は山積みですが、そういうポジティヴな側面もあるということです。

ライターも図書館員も、プロであるためには、しっかりと努力し続けなくては埋もれてしまうわけです。「人が参加するチャンスが増えること」と「ちゃんと力を持っている人が評価されない」は全く関係がないと私は考えています。単純に、それだけの仕事ができない人は淘汰されて行くだけのことだと思います。それは、数年後の私のことかもしれません。それが嫌だから、私は今日も努力するんです。

よくジェンダーに囚われた保守的な男性が「男の方が仕事できるんだよ。どの世界でも活躍してるのは男の方が多いじゃん」とか言いますけど、そもそも女性が職場やそれぞれのジャンルに参加してきた人数や参加してからの歴史の長さが違うのでは?と思うんです。人が少ない=層が薄いところから能力のある人がたくさん出てくるわけがないのですから、男性が活躍している場合が多いというのは、単に参加している男性の数が多く、層が厚いから能力のある人が多く「見える」だけです。

そしてそれは育児や家事にも同じことが言えます。こちらももっとやる男性が増えれば、それらがとてもうまい男性も増えます。男女ともに、それまでどちらかだけがやっていたことの両方をやるようになれば、それぞれの層が厚くなり、視点も豊かになりますし、もっとうまくやるレベルもアップするでしょう。それこそが真の男女共同参画でしょう。ちょっと話がずれましたが、とにかく女に「男並みに仕事しろ」と言うなら、男にも「女並みに家のことをやれ」と言わなきゃおかしいんですよ。もちろん、お互いそんなことは無理なので、いろいろシェアする考え方がまた発展していくわけです。

もうひとつ「誰でもできる」ことの良さがあります。誰でもできる仕事というのは、基本的にそこにどんな人が入ってきても「それなりのレベル」まで指導できるシステムが整っているということなんです。どんなにかんたんな仕事でも入っていきなり「じゃ、見ておぼえて」と言われるだけの職場なら、きっとついていけなくて辞める人がたくさんいるでしょう。

つまり「誰でもできる」仕事であるということは、誰でもそこで最低限必要なレベルまで引き上げることができるという証明なんです。言葉通りの誰でもできるということではなくて、それはその職場のおかげなんですね。このことはけっこう見過ごされがちだと私は思っています。

さらにもうひとつ。「お前のかわりなんて誰にでも務まるんだぞ」ってブラック企業の脅し文句として使われることが多いのですが、まあ脅されている場合はさておき、その言葉が意味するものって、ある意味世の中にとっては希望の光じゃありませんか?

と言うのも「自分のかわりはいない」と思いながら仕事をするって、かなりのプレッシャーだからです。もし自分に何かがあって急に休んだり辞めたりするようなことになっても、その職場には迷惑はかからない。なぜなら、誰でもかわりができるから、って考えて務めるくらいが、人間にはちょうどいいんじゃないですかねえ。前職の図書館員時代、現場主任に抜擢されて馬車馬のように働いた3年間は、ただただ「自分のかわりがいないから、やるしかない」という責任感だけでやってて、とても辛かった。それは健康な状態じゃないんです。

以前ポーランドに行った時に現地の文化機関の人と、日本とあちらの「休みのとり方」の違いについて話したことがありました。その人が言った「でも、年に何日休まなくちゃいけないって義務付けられていて、絶対にその日数休むって決まっていた方が、その間のかわりに仕事する人を見つけやすいじゃないですか」というのが、ものすごく腑に落ちたんです。誰でもできるってそういう側面もあるんですよね。これからの日本に必要な考え方のような気がします。

そう、誰でもできるというのは、絶望じゃなくて希望なんです。

最後に、また「書く仕事は誰にでもできる」という話に戻ります。人は日常や仕事で、文章を書くということを意外とやっているものです。メールやSNSだって文章でしょう。あと、私たちライターは特にものすごく文章がうまいという才能を生まれながらにして持っているわけではありません。ただ、仕事なので、他の仕事と同じように勤務中により良い仕事になるためのあれこれをずっと考えているにすぎません。同じですよね?

ただ、どこかに出勤したりしているわけじゃないので、自然と「一日中」それについて考えることになります。はっきり言って、逃げ場所がありません。すべての時間を書き仕事に捧げているようなものです。だからこそ思うんです。誰でも、これだけ書くことについて考えを巡らせたらちゃんとしたものが書けるんじゃないかと。

「いい文章なんて書けませんよー」と言っている人のおそらくほとんどは「いい文章を書くために真剣になっていない」からだと思います。仕事としてやったら、時にほめられ、時にダメ出しされながら、だんだん上手くなっていきますって。だから、文章を書く仕事は誰でもできます。もちろん、他の仕事と同じく、それなりの辛さも楽しさもあります。あと、小説家などの「表現活動」はまた違うと思うので悪しからず。

というわけで、もう一度繰り返します。「誰でもできる」は希望です。一に「層が厚くなり、全体のレベルが上がる」、二に「育てるシステムが整っている」、三に「自分が辞めても迷惑がかからない」。

いいこと尽くめじゃないですか。特に一の件。あなたは今、きっと何か「誰でもできる」仕事に就いていると思います。その誰でもできる層の厚い業界で、一人前の働き手として生き残っているんです。それは、プロの証。すばらしいことなんです。そのことに誇りを持って、今日も誰でもできる仕事をしっかり努めようじゃありませんか。



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オラシオ

ライター、コラムニスト。青森市在住。『中央ヨーロッパ現在進行形ミュージックシーン・ディスクガイド』(DU BOOKS)監修。コンピCD『ポーランド・ピアニズム』『ポーランド・リリシズム』(コアポート)選曲・解説。ご依頼はaladyhasnoname@yahoo.co.jp

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コメント1件

ありがとうございます。だいぶ前から「誰でもできる」という言葉に違和感をおぼえていて、なぜなのかずっと考えてこの結果にいたりました。この言葉がネガティヴに使われているから、私はちょっと違うなあと感じたようなのです。
あと、書くこととか描くこととかって基本的に仕事としてじゃなくてもやる人がたくさんいるので、それもまた層の厚さの条件なのかなと。そういう意味では、いつも鍛えられています。
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