聴く耳シーソーのアンバランス

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以前cakesの対談記事はあちゅうさんが、男性との飲みで割り勘になった場合について「(おごらないなんて)まったく意味がわからない」って自説を展開していたんですね。

これを断言するセンスがはあちゅうさんたるゆえんだろうし、そここそが面白いわけなのですが、その言葉に対する私の感想というのはここでは関係ないのでこれ以上は割愛します。でも、なんとなく彼女のそうした「断言」にカチーンと来る人はたくさんいるんだろうなあという想像はつきました(笑)

実際そうした彼女の考え方に関していろいろ言ってくる人がたくさんいるらしいです。

カリスマの名前を出してPV稼ごうと思っているわけじゃないので、彼女についてはこの辺にして、私が思ったのは、この事例で沸き起こっている不特定多数の「カチーン」という感情には二種類あるのではないかということです。

1.純粋に「女はおごられる・男はおごるが当然」という考え方に対して
2.彼女が自分の批判へ聴く耳を持たないことに対して

いわゆる「炎上」とか、主にSNSやブログで起こっている感情的な批判騒ぎのほとんどが、実は1.じゃなくて2.のカチーンがもとになっているのじゃないかなあと思うんです。

私たち末端文筆業もまったく同じなのですが、基本的に公けの場に自説を書く人間は「1対不特定多数」という構図の中で書いています。不特定多数であるからには、書かれた内容に対してそれだけたくさんの意見が生まれます。そして、その多様な意見を持っている人たちは、本当は集団ではなくてそれぞれ一個人。つまり書かれたものを読んでいる人にとっては「1対1」の感覚なのです。ちょっとわかりにくいですかね。ではもう少し。

通常、友達とふたりで話していたりしても、意見が食い違ったり、相手の言うことに「そうじゃないでしょ」って反対したりしたくなることってありますよね。そういう時は、気の置けない関係なら遠慮なく言いますよね。で、あなたの言うことに同意するかしないかはさておき、お友達も一応それを傾聴しますよね。これはあくまで1対1だから、あるいはお互いに顔が見え気心がある程度知れてる関係だからこそ成り立つ「言い合い」です。

ところが、私たち書き手が「世の中」に対して放った文章が、読み手ひとりひとりのところに届く時は「書き手と世の中」ではなくて「書き手と読み手」という対面関係ができあがってしまいます。1対1の関係が、読んだ人の数だけ生まれるのです。その想像上の対面関係の中で、カチーンと来る人は書き手が自分の言うことに対し、本物の対面関係と同じく傾聴をするだろうと考えるのじゃないでしょうか。

ひとりひとりの読者に届くこと自体は、書き手にとってはとても嬉しいものです。しかし文章を書いている先は個人ではない世の中であって、特定の「あなた」ではないのです。特に仕事の場合、いろんな人に、あるいは編集さんたちと話し合ってちゃんと想定したターゲット層にしっかりと届くように計算して書いてはいますけど、読者ひとりひとりに目の前で友人関係のおしゃべりのように語りかけているわけではありません。

もし書き手がひとりひとりの批判に、まるでそれぞれ対面で会話しているかのように応えていたら、それぞれの意見の間にあっと言う間に矛盾が生じて、どうしたら丸く収まるのかわからなくなってしまうでしょう。

というわけで、たくさんの読者を持つ人であればあるほど「読者の意見は聴かない」という態度を見せるのは当然なんですね。それは一種の防御策なのですが、1対1で書き手と会話したい読者にとっては「なんであなたの意見を聴かなきゃいけないの?」という傲慢さに映ってしまうのかもです。あたかも今の今まで普通に会話していた目の前の友達が、突然無視しだすようなイライラする不可解さ。

ですが、読者にとっては1対1でも、それと並行して同じようにいろんなことを言ってくる人がいたら、書き手にとっては「私対世間」になってしまいます。目の前にしている人の数が、書き手と読み手とは違うんですよね。

私はこれを「聴く耳シーソー」と勝手に読んでいます。人の意見に聴く耳を持つ、というのはその耳の数に限度があります。はあちゅうさんのような、カリスマ的な人気を誇る書き手にも当然聴く耳があって、それはその人たちにとっての大事な人や仕事仲間に向けられるのでしょう。でも、それと同じようには読者には向けられないのです。

聴く耳シーソーは、あくまで対話する両者のそれがバランスが保たれている時にはじめて「話が通じる」ので、書き手を目の前の個人と想定する読者と、読者を不特定多数と捉える書き手では、最初からバランスが取れていないのです。

そのため書き手は「聴く耳を持たない」というスタンスを選択することがほとんどなのですが、1対1の想像の中にいる読者は、そのアンバランスさを「力関係」と錯覚するのではないでしょうか。「あんたが自分を偉いと思っているから」「私のことを取るに足らないと思っているから」意見を聴かないのでしょうと。確かに、1対1で目の前の人にそんな態度を取られたら、そう思っちゃうでしょうね。でも、ほんとうは1対1じゃないですよね?

例えばこんなことがありました。ある芸術ジャンルの人気若手評論家に対し、ツイッターである人が「人のアドヴァイスを聴かないような、我が道を行く思いあがった奴」と批判していたんですね。それに対して、普段その若手さんと仕事を共にすることが多い大物評論家さんが「この人は彼を、人のアドヴァイスを聴くような人間に矯正して、一体どうしたいと言うんだろう」と返していたんです。

「何で人の(と言いつつオレの)言うことを聴かないの?」ってすごくわかりやすいですよね。オレの言ってることは正しいのに、それを聴かないお前はどんだけ偉いんだっていうカチーン。

あるいは、こんなこともありました。ネット上のある場所で、ある作品について、私が「こういうレヴュー書いたんですよ」と自分の仕事の内容を抜粋してコメントしたら、その内容がその人の愛するある音楽にとって許せない物言いだったらしく猛反論してきて、挙句に「あんたのような文章の結び方をする人のレヴューはオレは読まない」と返してきたんですね。どう考えても私のレヴューを読んでいないまま書いた反論だったので(苦笑)リプもしなかったのですが、ここにも上で私が書いたような構図があります。

レヴューという仕事はCDなどのソフト商品の「プレゼン」のようなもので、ある音楽のファンや、特定の「あなた」に向けて書くものではないのです。私は、その反論してきた人のため「だけ」にレヴューを書いているのではないので「へえ、そう感じるんだ」と思いはしても、別に自分の仕事のやり方を変えはしません。クライアントから求められていることがそもそもその人の要望と違う。これも、オレの満足するようなものを書かないお前は間違ってるんだという、方向がそもそもずれたカチーン。

もちろん、事実関係が間違っているとか特定の人種や職業、個人を差別したり貶めたりしているとの指摘だったら話はまた別ですよ。

もっと個人的な話をすると、最近『マタハラ問題』(小酒部さやか)という本を読んだんですね。すごく考えさせられるいい本でみなさんにもオススメですし、社会にはびこるマタハラ、本当にひどいです。それらをなくそうという小酒部さんの書かれていることには全面賛成なんですけど、一個だけカチーンではないんですが、どうしても考えてしまうことがあって。それは「産まない側が産む側に寄り添うことはできるだろうけど、その逆はあるんだろうか」ということでした。

気持ちのどこかで、マジョリティ(産みたい側)と私や彼女が属するマイノリティ(産まない側)に分けちゃうんですね。もちろん産みたい人たちの環境を整えることが至上目的の小酒部さんたちの活動なので、そこに「私たち産まない人の気持ちもわかってよ」っていうのは全然ナンセンスなツッコミなのは自覚していますし、そもそもそれに対して当然彼女たちもいい意味で聴く耳を持つ必要はないですよね。我ながらこの考え方、いけませんねえ。

物事の中に勝手に対立構造を作って、自分がマイノリティ側に属していることを勝手に悲観する。互いの置かれている場所の力関係をくらべてしまう。マイナーな小国の音楽について一生懸命書いている人が、大国アメリカの音楽について書いている人に対して「そもそも戦う土俵が違うじゃん!」と勝手に羨んだりとかもそうでしょうか。あ、私のことじゃないですよ(笑)。これもまた、一種の聴く耳シーソーのアンバランスです。

そして、このアンバランスにはさらに恐るべき地雷が埋まっているんですよね。それは、

カチーンをぶつける前からすでに「どうせ言うこと聴かないんだろ」とうすうすわかっていて、そのことにもうカチーンとしている。

いわばマッチポンプ。むしゃくしゃしている時に限って、自分にとって一番腹が立ちそうなことを言いそうな人、ウマの合わない人に対して食ってかかってしまい、よりむしゃくしゃが爆発するっていうこと、ありますよね。その人にわざわざ当たらなきゃ良かったのにってやつ。

そう、私たち書き手って、基本的に「その意見は違う」ということに対して「そうですね。私の言ってることは違うと思います」と訂正することはほぼありません。そういう気配を、うすうす読者の方たちも察知している。でも言いたい。わかっているのに言いたい。この時点ですでにミニサイズのカチーンが生まれています。どうせ言っても聴かないんだろうなという予感に対して、もう怒っている。怖いもの見たさに近い本能があるのでしょうか。わざわざ自分から怒りに行くという(笑)

政治の世界に置き換えてみましょう。私たちの切実な声って、政治家の先生たちに全然届かない感じがするでしょう? すでにそのことにイライラさせられるじゃないですか。もちろん政治家は「不特定多数と向き合う」のが仕事なので、書き手とは負っている責務がまるで違いますから、それじゃあいかんのですけど、このイライラ感も「聴く耳シーソーのアンバランス」感ゆえだと思うのです。

どんなに気に入らないことを書いていても、それは「あなただけ」に向けられたものではありません。あなたを否定しているんじゃないんです。だから安心して「違う考えの人がいる」とスルーしてください。あなたより偉いと思っているからあなたの意見を聴かないのではありません。あなたが言うことを正しいかそうじゃないかで聴く・聴かないを判断しているのでもありません。

書き手はただ聴く耳シーソーのアンバランスを、元に戻せないだけなのです。

ネットやテレビで誰かに対してカチーンときたら、がっつり傾いたシーソーの図を想い描きましょう! きっとそれでカチーンの種火が消えるはずです。

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オラシオ

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