「あきらめる」と「あきらめて、やめる」は違うだろ

マンガ史上屈指の名言、多くの人を奮い立たせてきたあの言葉。

『SLAM DUNK』の元・白髪鬼こと安西先生が言う「あきらめたらそこで試合終了ですよ・・・?」

うん、僕もあのセリフ、感動した。あきらめなければ、きっと何かができると思った。

しかし、現実はそんなに甘くなかった。あきらめないということすら、ある種の才能のなせるわざだったのだ。

僕たちは、何かを成し遂げた人も尊敬するけれど、何の見返りも称賛も結果も期待できない段階から毎日毎日努力を続ける人に対しても、同じように心のどこかで敬意を払っている。いや、畏怖してさえいるのかもしれない。

あきらめないで何かをやり続けることがどれだけ難しくつらいことなのか、それをやったことがなくても僕らは本能で知っている。

だからこそ、安西先生のあの言葉が刺さるのだ。

しかし。

この世には、あきらめるとあきらめないの2つしかないのだろうかとも思う。

どんな凡才も、毎日努力していればいつか必ず結果が得られる。これは真理なのだけれど、絶対にあきらめなかった人だけが結果を出している、ということでもない気がする。

『描かないマンガ家』というマンガ作品がある。主人公は、マンガ専門学校に通いながらも、既存の作品やクラスメートのマンガに偉そうな批評を加えるだけで自分はいっさい作品を描かないという非常にみっともない男だ。

周囲の人間が、自分なりに努力を重ねてどんどん殻を破っていくのを横目で見て、猛烈に嫉妬し焦りはするものの、なかなか創作の一歩を踏み出せない。そして、自分のことを棚に上げてこき下ろす。よくいるクリエイター志望の批評家くずれというやつだ。

しかしそんな彼も紆余曲折を経て最終的にはマンガ家になる。それほど売れてはいないものの、自分の作品を、ちゃんと描いている。

彼はきっと、何度も何度も何度も「自分にはできない」「どうせオレは他のやつらとは違う」とあきらめたはず。そこまでは普通の人によくあること。

しかし、みっともない姿を晒しながらも、彼は何だかんだ言って専門学校に居続けた。マンガとのつながりを絶たなかった。努力をきちんとできないのは、自分で自分をあきらめているから。でも、やめない。どこかで、未来への糸をしぶとく手放さない。

結果を出せる人は確かに一握りなのかもしれないけれど、僕はこの「あきらめてるけど、やっぱりやめない」ということが結果につなげるためにものすごーく大切なのではないかと思うのだ。

このnoteの例を出すと、いま人気のnoteクリエイターさんはほとんどが毎日書いている。毎日書くって、ほんとうに難しい。でも、それをできる人がやっぱり結果を出している。

そのことを僕もわかっているから、毎日書こうとしてみるけれど、毎日のように毎日書くことをあきらめている。そして実際、毎日書けていない。

あー、僕はやっぱりダメだなーと思いつつ、でもやっぱり「毎日書けるようにやがてなるかもしれない。できるだけ書くようにしよう」と時間を見つけてパソコンを開く。まだできちゃいないのだけれど、いつかできるようになると思うことをやめない。悪あがきしてみる。

悪あがきは努力とはちょっと違うので、何度もくじける。やっぱりあかん、とすぐ放り出すかもしれない。でも、例えばアカウントを消すとかスマホからアプリをアンインストールするなどして完全にやめてしまわないということが重要なのだ。

結果を残すために必須の質量ではないかもしれないけれど、あきらめるたびにできそうなラインまで下方修正してマイペースにしぶとくやり続ける。そして、そこがクリアできたら、ほんのちょっとだけ「やるべきライン」のレベルを上げる。

「あきらめない」が毎日ちゃんと努力をする、ということだとしたら「あきらめる」は反対に何もかもやめてしまうと思われがちだけど、実は「あきらめる」の中には「あきらめて、やめる」と「何度もあきらめて、必要な努力も怠ったりするけれど、でもあがく」の2つのモードがあると思うのだ。

SLAM DUNKのミッチーが不良になっても煙草を喫わなかったように。描かないマンガ家の主人公が専門学校をやめなかったように。後にスーパーボウルMVPになった名QBカート・ワーナーが、ドラフトでまったく相手にされずくさりながらも、バイト先のスーパーマーケットの倉庫でトイレットペーパーを投げて「いつかオレも」と思い続けたように。

彼らはみな「一度もくじけなかった。あきらめなかった。毎日努力した」わけではないと思う。きっと何度もあきらめたはずだし、やるべきことを続けられなかった時もあったはず。

「成功の法則」がちゃんと見える才覚のある人から見たら「何をこんな時間の無駄を」というような下手を何度も打ったかもしれない。そして結果が出ないことに心が折れ、すねてしまったこともあるかもしれない。

その意味では、彼らはただの凡人なのだと思う。「毎日続けてきたからこそ、今がある」という人ではない。でも、みっともなく、しぶとく、あきらめ悪く「やめない自分」をキープする人には、「あきらめて、やめる」人には絶対に訪れないチャンスが巡ってくることがある。

だから、あきらめたら終わりって、ある意味嘘だと思う。あきらめない人は確かにすごい。すごいからこそ、結果につなげられる。でも、あきらめてもどこかで「やめない」人にも扉は少し開かれている。

例えば、毎日書くのをあきらめたら、目標を下方修正して「一週間に4つくらいだったら?」とあがいてみる。時にはどうしても筆が進まず、さらに更新が途絶えることもあるだろう。その度に落ち込むかもしれない。

でも別にいいじゃない。完全にやめさえしなければ、また何度でもやり直すことができる。過去100回あきらめたのに、ある時ふと毎日書けるようになるかもしれない。やめさえしなければ。

僕は今でこそ「ポーランド・ジャズ専門のライター」を名乗って監修本や選曲コンピCD出せたりしているけれど、ここまで10数年かかっている。何度も投げ出したし、どうでも良くなったこともあった。拙いやり方を無駄打ちし続けたりもした。そして、何度もあきらめた。

でも結局、必要な質量に全然足りないながらも、マイペースにしぶとく続けてきたので今があると思っている。「毎日努力しました」という超人じゃなくて、心弱く、誰でもできることしかしていない。

でも、完全に手を引くことだけはしなかった。こうやればいけるかも?と試行錯誤を繰り返し、うまくいかなくて放り出し、でもまた性懲りもなく次の手を考えてみたりした。考えるだけでやらないこともあったし。

だから「あきらめなかったんですね」と言われたらまったく違う。何度もあきらめたし、努力を怠った。ただ、僕はやめなかった。それだけ。たったそれだけなのだ。

「あきらめない人は必ず結果を出す」というセオリーは、一度あきらめてしまえば手の届かないものになる。でも、そのたびにみっともなくまたはじめればいいのだと思う。たとえ何度あきらめても「あきらめても、やめない」という道が残されているので。

だから安西先生のあのセリフはひとこと足りないのだ。「あきらめてやめたら、そこで試合終了ですよ」こそがほんとうの真理だと、僕は思う。

なので、今日も「毎日書く」をあきらめるかもしれないけれど、僕は書くこともやめないし、情報発信もやめない。ほんの時々「やめない」が何かにつながることを、僕は知っているのだ。

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「あきらめる」と「あきらめて、やめる」は違うだろ

オラシオ

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