今週の初め、吉野山に帰山しておりました。

帰山というのは、わたくしども吉野山金峯山寺の行者が文字通り本山に帰ることであります。通常、この時期は中千本・下千本が満開で、週末ともなれば原宿は竹下通り並みに人でごった返すなか、じわりじわりと進んで行くことになります。そんな難儀な時期に、わたくしはわざわざ帰山することはナイと、この時期は寄りつかなかったのでありますが、今回何故か、なんの成り行きか因果か、この最も人出の多かった二日間で山を訪れる羽目になったのであります。

吉野山は交通規制がかかり、シャトルバスも行列でございます。勝手知ったる脳天大神に車を停め、急なことで有名な階段を駆け上がって、蔵王堂に入りますとこちらもまた凄い人。人。人。

そんな中、法螺貝を取り出して、おもむろに立てますれば(法螺貝を吹奏することを立てると言いますな)、なんやなんやと皆様振り返っておられます。手を合わせて下さる方もいらっしゃいます。


しばし、音でご本尊とお喋りをして、吉水神社さんの一目千本へ向かいます。こちらも人・人・人。その群衆を宮司様がかき分けて下さって、中千本奥千本へ向かって法螺を立てました。その時に、感じた桜色のグラデーションとの響き合い。ああ、一本一本がわたしたちのご本尊。金剛蔵王大権現のお姿なのであり、やはり吉野はこの春の桜を見なければ、先人達のお気持ちに繋がることは出来ないのではないか…ともう十数年も人混みがイヤで避けてきた自分のこだわりなどどこへやら…急に手のひらを返したように「春にこな、なんにもわからへん」と、嬉しくなってしまったのでした。ははは。

このあとは勝手神社さんにも音の捧げ物に立ち寄りました。勝手神社さんは吉野の行者の守り神さんなのですが、数年前火付けによって社殿は焼失してしまいました。屏だけがのこり、社殿跡はさまざまの草木でさびた風情です。ところがこの何もないことがぐっと胸に迫ってくるのです。社殿も、祠や、お寺の建築も、もとは何も無かったのです。そこにはただただ空間だけ、場だけがあって、そこに心を寄せる者があれば、目に見えないものは感応して音を聴かせて下さる…そんな往古の人と宇宙との響き合いの世界を見せて頂いたような気がしてイイ時間を過ごしました。

柿の葉寿司と葛湯頂いて帰りましたとさ。

令和の世となり、梅にフォーカスが当たっておりますが、桜も素晴らしい。

南無三世一体金剛蔵王大権現





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?