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文武両道、クソくらえ?

 田舎の進学校では、やたらと“文武両道”を推奨したがるところがあります。しかしこの言葉を理想的なものととらえることには、かなり注意が必要です。
 

 まず、“勉強も部活も頑張っているから文武両道です”などというのはありえません。松江南高校の校長は、「我々が言うところの文武両道は、文武の両道に励むということであり、何事にも一生懸命取り組むということである。結果として両方の道で良い結果を出せればすばらしいことだが、 両道で好結果を出すことが目的の文武両道ではないと思っている」と述べていますが、これは明白な誤りです。

 文武両道とは、文字通り文でも武でも道に達さなければならないのです。辞書で”文武両道”と引いてみましょう。「学芸と武道の両方に秀でていること。勉学とスポーツともにすぐれていること」とあります。両者ともに結果の優れていないものは、文武両道とは呼びません。

 大体、頑張りそのものにはあまり価値などないのです。誠実に取り組む姿そのものは評価されるかもしれませんが、世の中では適当で手を抜いていても、結果を出した人間の方が全体的には評価されるのです。学習も部活動も頑張ることはよいのですが、その程度で道に達したなどというのは軽々しいにも程があります。結果を伴わない場合には、しょせん“文武無道”に過ぎません。
 

 また“部活動で県大会に出場し、関西学院大学に合格しました”などというのも、文武両道のうちには入りません。どちらもまずまずの結果でしかないから、道に達したとはこの場合でも言えないでしょう。せいぜい“文武半道”です。

 この程度で“両道”だなどとうそぶくのは、毎日10時間、脇目も振らず学習して東大に合格した人や、毎日日付を超えるまで練習してプロのスポーツ選手となった人に対して、あまりにも失礼です。“道に達する”というのは、その道のトップクラスに立てて初めて使うことが許される言葉なのです。

 だから“文武両道”だなどというのは、“スポーツでは全国レベルで活躍し、かつ東大や京大クラスに合格した”というような場合に初めて使うことが許される言葉なのだと思います。おそらくその一番の体現者は、オリンピック銀メダリストにしてノーベル平和賞受賞者の、フィリップ・ノエル=ベーカー氏でしょう。
 

 そう考えると、文武両道など生半可な覚悟でそうそう求めるべきものではないのかもしれません。下関国際高校の荒れていた野球部を立て直し、2018年夏には甲子園ベスト8にまで導いた坂原秀尚監督は、          「何かひとつの分野を極めようと思ったとき、”片手間”でやっても成功することはできないと思っています。脇目を振らずにひとつのことに打ち込むことは、決して否定されるものではないとも思うんです」と述べています。

 自分の好きなこと、得意なことにひたむきに打ち込みながら、そうでないことも最低限は押さえておくという姿勢の方が、“文武無道”や“文武半道”よりはよいのではないでしょうか。

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