見出し画像

”勉強”という言葉に潜む違和感―目指せ勉強嫌い

―学びて時に之を習う。亦説(よろこ)ばしからずや。―

 学問というのはおそらく遠い原始時代、日常生活における“なぜ”を解明し、“どうすれば”よりよい生活を送れるかということを考えるところから始まったと思われます。人間の知能が進歩し文明が発展するとともに、学問もまた細分化して、時には遠い宇宙やネットワーク内部など人知を超えた世界をも扱うようになりました。それでも、学問というものの本質は変わっていません。現状に対する不思議と将来に対する希望が、今日でも学問の源泉であり続けています。

 学問がそうしたものである以上、それは本来的には積極的、能動的、主体的に行われるものです。たとえ高校までの学習であっても、それらの延長線上には学問があるわけです。だからそれらについても、決して単に消極的、受動的にこなすべきものだという観点でとらえられるべきものではないでしょう。
 

 まず当サイトでは“学問”を、“世界秩序の探求”と定義します。世界のあらゆる現象には因果を含めた論理が存在しており、その意味で世界は秩序だっています。その秩序を探求し、理解したうえでさらにあるべき秩序を追求していくのが学問です。”学問”という字は”学ぶ”という字と、”問う”という字から構成されています。また”学ぶ”という語は古語の”まねぶ”、すなわち”真似する”という意味の語に由来するのです。

 そして“学習”を“世界秩序の習得”と定義します。研究などによって先人が明らかにした世界の秩序を、我々も理解するのが学習です。”学ぶ”という字義については上記の通りで、”習う”という語は”倣う”、すなわち”真似する”という意味を持ちます。およそ高校までの学びというのはこれを指します。学習を基本として、学問が初めて存在しうるわけです。

 また我々が一般的によく使う“勉強”という言葉は、“拘束されて行う学問や学習”という定義とします。“勉強”は“勉める”、”強いる”という漢字で構成されています。親が、教師が、やれというからやるのが勉強。これは当然のことながら、上で述べた学びの本来的性質である、積極性、能動性、主体性といったものと相反します。したがって当サイトでは、この“勉強”という言葉は否定的なニュアンスで用いられることとなります。こんなものは今すぐ、嫌いになりましょう。

 私が当サイトを通じて学習方法を発信していく上での目的は、積極的に戦略を立て、能動的に効率の良い学習方法を探り、主体的に学力の涵養に取り組むよう読者を誘うことです。ぜひ勉強嫌いを目指し、心から学習や学問を愉しめる(余談ですが、”楽しい”という字も基本的に使いません。学習や学問は本質的に愉しいものですが、決して”楽”なものではないからです)人間になっていきましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?