寺山修司

ある日、私は芝浦の食肉市場の近くの食堂で、子供に「動物図鑑」をめくってやっているひとりの食肉解体労働者の前掛けに、しぶきのように散っている汚点が、牛の血だと知ってから、自分の中の抒情詩と食肉市場の交差点を見失ってしまったのである。

現実原則ばかり信じていると、生き甲斐がなになのかわからなくなってしまうし、かといって空想原則、抒情詩のマイホームで充足していると、歴史にしっぺ返しを食らわされることになってしまうだろう。大切なのは、食堂でスキヤキをくっている私たちが動物の解体に加担しているという意識、動物解体責任といったものに根ざしたところから叙情してゆくことであり、そのためには現実に「家出」するだけでなく、抒情詩の中なからも「家出」して、この二つの世界を飽くなく往復運動を繰り返してゆく思想的遊牧民になることであり、それなしでは自立も、選択の自由も失ってしまうことになるのである。 

私は「ぶちの子牛の詩を書く少年」であると共に「生きたまま解体された牛肉を食う生活者」であるのでもあるのだ。


誰か故郷を想はざる、反読書より。

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kazuma

最近短歌好きです。 「21歳ならギリギリ大丈夫だよ」 と言ってもらえたので今はライ麦畑読んでます。
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