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ふたたび百田尚樹『今こそ、韓国に謝ろう』のデマを暴く!

はじめに

 前回の記事「百田尚樹『今こそ、韓国に謝ろう』のデマを暴く!」の続きで、ここでもまた、同書の事実と反する部分、また同書が書いていない重要な出来事等について紹介します。ここでも前回同様に、専門家ではないので断片的な内容にとどまることはご承知おきください。

 また頻繁に論争の対象となる慰安婦問題や徴用工問題、創氏改名などは、それだけで大変なテーマであり、この短い記事で語ることは到底できないので、別な機会があれば検討したいと思います。

「善政を行ったから人口が2倍になった」というデマ

 『今こそ、韓国に謝ろう』では、朝鮮の人口が、併合時は約1300万人だったのに、1942年には約2500万人で、約30年で「2倍」になったとして、このような例は世界でも稀であり、日本の統治が住民のためにプラスになったと主張しています(47頁)。

 ところが同じ本の別な箇所(68~69頁)では、日本統治前は被差別階級が存在していて、彼らは戸籍を与えられていなかったと述べています。
 戸籍がないのであればまともに統計調査に乗ってこないことが多いと思われますから、そもそも「併合時点の人口が1300万人であった」という前提自体も疑わなければおかしいはずですが、百田氏にはそういう発想がないようです。また併合前の調査は徴税目的の申告で正確性に欠けたという問題も指摘されています。

 いずれにしても併合時に1300万人だったという前提は信用するに値しないでしょう。

 日本統治後に行われた国勢調査ベースだけで比べて見ると、最初の国勢調査が行われた1920年は17,264,119人、1940年は24,326,327人で、増加率は約40.9%。2倍とはいきませんが、確かに20年間でなかなかの増加であることは事実です。

 一方、同じ時期の日本の人口は、1920年が55,963,053人、1940年が73,075,071で、増加率は約30.6%。朝鮮半島ほどではありませんが、やはり結構な増加です。

 総じていえば、この時期、日本も、さらに言えば他のアジア地域も人口が急増しており、そもそも「2倍」という根拠が既に疑わしいので、「日本が善政を行ったから朝鮮の人口が歴史上稀な増加を遂げて2倍になった」などという主張はバカげたものだと言えるでしょう。

朝鮮に日本の神道を押しつけて各地に神社を建設した

 日本の朝鮮半島支配について百田尚樹氏が触れていないことは多々ありますが、悪名高い施策の一つに、日本の神道を朝鮮に押しつけたことが挙げられるでしょう。

 併合前から在留する日本人のための神社が朝鮮半島内に作られることはありましたが、併合後は国の政策として神社を各地に建設し、朝鮮人に対しても神社参拝をさせるようになります。1919年には天照大神と明治天皇を祭神とする朝鮮神宮が現在のソウル特別市龍山区に建立され、これが朝鮮半島の総鎮守とされました。

 朝鮮の人々からすれば、異国の神々や過去の天皇の崇拝を強要するなどまったく迷惑なものでした。逆の立場で、例えば韓国政府が日本で壇君の廟を建設して、日本人に参拝をさせたらどう思われるか、想像すればわかるでしょう。

 特に朝鮮のキリスト教会はこのような押しつけ政策に強く反発し、昭和期には多くの牧師や信徒が検挙される事件も起こっています。

 さらに戦争中に至っても、戦局に何のプラスにもならないのに、総督府は神社を朝鮮半島各地に作り続けるという愚行を行っていました。

(写真は朝鮮神宮:朝鮮総督府鉄道局の資料から(ウィキメディアコモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Entrance_to_Chosen_Jingu.JPG?uselang=jaから転載))

インフラ整備のために強制労働を行った

 『今こそ、韓国に謝ろう』では、総督府が鉄道や橋などのインフラ整備を朝鮮各地で行ったことを称えています(34頁~44頁)。

 しかしながらこのインフラ整備はきれいごとではありませんでした。総督府が土地を収用する際には、買収したケースももちろんありましたが、寄付などの名目で無償で強制的に没収したケースも多々存在しています。

 さらに道路や鉄橋の工事を「賦役」と称して、地元住民に無償の強制労働を行わせて推進し、工事が遅延すると憲兵が鞭で打って働かせたりもしたのです。

 百田氏に限らず、「日本は予算をかけて、費用持ち出しで朝鮮半島のインフラを整備した」という人がいまだにいますが、正確には、「日本は、予算を超える部分は、土地をタダ取りしたり、住民に強制労働させたりして、朝鮮半島のインフラを整備した」というべきところでしょう。


朝鮮語の教育は放棄され、研究は弾圧された

 前回も触れましたが、『今こそ、韓国に謝ろう』では、日本統治時代も朝鮮語(韓国語)やハングルの使用を禁じたわけではないと強調しています。確かに直接的に朝鮮語の使用を禁じる法令が出されたわけではありません。しかし学校教育では1938年に朝鮮語が必修からはずされ、公立学校ではほとんど教えられなくなりました。さらに朝鮮語を使うと生徒が教師から叱られる等の状況も見られるようになっていきます。

 そもそも公教育でその言語をしっかり教えないということは、言語文化に対する抑圧や破壊の行為ということができるでしょう。読み書きに必要な体系的な知識を学ぶことができないからです。

 そして1942年、朝鮮語学会事件という事件が起こります。朝鮮語学会というのは朝鮮語の研究者の団体で、ハングルの表記法の統一案を提案したり、辞典を編纂するなどの活動を行っていました。特に日本の総督府に反抗するような活動はしていなかったのですが、1942年、突如として弾圧が行われたのです。

 これは朝鮮語を研究することが独立運動につながるという発想で、治安維持法が適用され、数十名の学者が拘束されて、うち2名は拷問により死亡しています。(『今こそ、韓国に謝ろう』では「日本は朝鮮が行っていた拷問を廃止した」などとデタラメを書いていますが、あきれるほかありません。)

 このように朝鮮語に対する抑制・弾圧の政策を日本は行っていたのでした。

さいごに - 朝鮮支配の終焉

 最後に、『今こそ、韓国に謝ろう』ではまったく触れていませんが、どのように日本の朝鮮支配が終わったのか、簡単に触れておきましょう。

 1945年8月14日、日本が既にポツダム宣言を受諾したことを踏まえて、朝鮮総督府の政務総監遠藤柳作は、在留日本人の保護などの必要性を考え、朝鮮の独立運動の重要人物だった呂運亭と会談して、治安維持のために協力してくれるよう要請し、行政権の委譲を申し出たのです。

 呂が求めた政治犯の釈放などの要求を総督府は受け入れ、8月15日を迎えると、刑務所などから囚人も釈放され、朝鮮全土で「朝鮮独立万歳」を叫ぶ声が広がっていきました。

 呂たちは朝鮮建国準備委員会を立ち上げて、9月6日には「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言しています。しかしすぐにアメリカ軍が上陸し、最後の朝鮮総督阿部信行は9月8日、アメリカ軍に対して降伏文書の調印を行いました。

 このような中で朝鮮人民共和国は連合国には承認されず、南北からアメリカとソ連が入ってきて分割占領することとなったのでした。




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