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「天皇」について考えてみる(4) 明治前半の人々は天皇をどう思っていた?

(写真はウィキメディア・コモンズよりhttps://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4177424) 

 戦前、天皇が「現人神」とされていたことは有名です。とはいえ「戦前」といっても非常に幅があります。ここでは、明治維新が行われてから間もない頃、具体的には明治時代の前半頃の人々が天皇のことをどう思っていたか、いくつか例を見てみましょう。
 ここでいう「明治の前半」とは、おおむね、大日本帝国憲法(明治22年(1889年))や教育勅語(明治23年(1890年))が発布されるよりも前の時期ということです。

天皇おひざもとの近衛兵が反乱!

 西南戦争の翌年の明治11年(1878年)、皇居を護衛するのが任務の天皇おひざもとの近衛兵259名(将校含む)が反乱を起こしました。これは竹橋事件と呼ばれています。
  近代日本の軍の反乱といえば、皇道派将校が昭和天皇をかつぎ政治体制を変革しようとして引き起こした2・26事件が有名ですが、この竹橋事件は、別に明治天皇をかつぎ出そうとしたのはなく、動機は単なる待遇への不満でした。要は待遇を改善させるための農民一揆のような感覚だったのかも知れません。

神武天皇も最初はただの豪族?

 初代天皇である神武天皇というと、昔から神格化され崇拝されていたかのようなイメージがありますが、明治の初め頃、特に自由民権運動が盛んだった時代はそうでもありませんでした。その例をいくつか見てみましょう。

 竹橋事件から2年後の明治13年(1880年)8月2日、東京曙新聞という新聞が民権運動を鼓舞する趣旨で「神武天皇もその始めは、日向(宮崎)の一豪族にすぎない」という意味の記事を書いて問題になりました。
 ちなみに東京曙新聞は自由民権運動派の有力新聞で、政府を激しく批判し、何度も処分を受けています。

神武天皇は蜂須賀小六と同じレベル?

 明治14年(1881年)10月8日、自由民権運動家の前島豊太郎は静岡県で行った演説の中で
「蜂須賀小六は大勢の人の財産を略奪して天下の大名になったが、神武天皇もこれと同じで、自分に逆らう者を征伐して天下を取った大泥棒である」
という意味のことを述べて検挙されました。

神武天皇は異国から来た大盗賊?

 さらに明治15年(1882年)3月に伊賀地方で演説した自由民権運動家の大庭成章
「神武天皇は、日本の近くの外国からやってきた腕力の強い異国人で、日本の腰抜けを圧倒して日本を奪った大盗賊だ。その末流の今上天皇陛下や大臣たちも大盗賊だ」
という意味の演説をして、不敬罪に問われました。

  これらの自由民権運動家たちは、本気で現実に皇室を倒そうと思っていたわけではなく、単にその程度に突き放して見ていたという方が当たっているのではないでしょうか。

天朝様に敵対する!

 明治17年(1884年)10月、経済的に困窮していた埼玉県秩父地方の農民たち数千名が、自由民権運動の影響を受けて、「秩父困民党」と名乗る集団を結成し、借金弁済の猶予や減税を求めて武装蜂起する、有名な秩父事件が起こりました。(冒頭の写真はその墓標です。)
 この時に農民を駆り立てた指導者が「恐れながら天朝(天皇)様に敵対するから加勢しろ」と叫んでいたと言われています。 

まだ天皇崇拝の教育がなかった時代

 いくつか例を挙げてみましたが、これらの事件から程なくして、明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が発布され、その翌年の明治23年(1890年)に教育勅語が発布されています。
 教育勅語が、天照大神や神武天皇の子孫として天皇を尊ぶように児童を教育する目的のものであることは知られていますが、ここで紹介した事件を起こした人々は、まだ日本人がそんな天皇崇拝の教育など受けていなかった時代に生まれ育ったことに注意しなければなりません。
 例えば前島豊太郎は、明治元年の時点で32歳でした。つまり江戸時代に教育を受けて人格形成されていたわけです。当時の人間にとって、神武天皇を蜂須賀小六や大盗賊に喩えるのは、それほど違和感はなかったのでしょう。

★本記事にあたっては、牧野憲夫『シリーズ日本近現代史② 民権と憲法』(岩波書店)、手塚豊『明治十五年刑法施行直後の不敬罪事件』(慶應義塾大学法学研究会)等を参考にしました。

 

よろしければお買い上げいただければ幸いです。面白く参考になる作品をこれからも発表していきたいと思います。