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百田尚樹『今こそ、韓国に謝ろう』のデマを暴く!

1 はじめに

 百田尚樹氏のベストセラー『日本国紀』については、折に触れて何度も批評してきました。今回の記事では、その『日本国紀』の外伝として宣伝されている百田氏の著作『今こそ、韓国に謝ろう』(飛鳥新社)を取り上げることにします。

 とはいえ私は韓国史の専門家でも何でもないので、この著作に書かれているすべての分野にわたって検討することはできません。

 あくまでも限られた範囲で、素人である筆者でさえも普通に調べればおかしいとわかるような、事実と違う点や、敢えて触れていないと思われる「不都合な真実」について、いくつかピックアップすることにします。(なお下記写真の文庫版に依拠します。)

2 併合前からハングルによる新聞やすぐれた文学作品が多々存在していた

『今こそ、韓国に謝ろう』では、1910年に日本に併合されるまでは、韓国語の表音文字であるハングルはほとんど使用されておらず、漢文ばかりが使用されていて、日本統治時代の教育で初めてハングルが一般に普及したかのような書き方になっています。(20-22頁)

 しかしながら韓国で最初にハングルだけを用いた新聞『独立新聞』が発刊されたのは1896年です。ハングルが一般に用いられていなかったのなら、この新聞はいったい誰が読んだというのでしょうか。

 ちなみに韓国で最初に発刊されたハングル+漢字まじりの新聞は、さらに10年さかのぼる1886年創刊の『漢城周報』でした。(それ以前の新聞は漢文によるもの。)

 これらのことだけでも、『今こそ韓国に謝ろう』の上記の主張が事実に反することは明らかです。

 そもそも14世紀にハングルが考案されてから併合までの間に、詩、歌謡、小説など様々な分野の優れた文学作品がハングルで書かれているのです。

(ハングルで書かれた古典物語『沈清伝』の版本。国立ハングル博物館のウェブサイト参照)

3 伊藤博文は最終的には韓国併合に賛成になっていた

『今こそ、韓国に謝ろう』では、伊藤博文が韓国併合に反対していたのに暗殺されたことが理由となって、韓国併合の機運が高まった…という主張がなされています。(112頁。同様の主張はネットのあちこち で見受けられます。)

 しかしながらこれも事実に反したデマと言えるでしょう。

 伊藤博文が当初は韓国併合に反対していたのは事実ですが、これは韓国を自立させようとしていたわけではなく、併合となると日本の負担が大きくなるし、名目上独立国とさせた方が大義名分が立つので、保護国として傀儡政権を通じて支配した方が得だ、という利害計算のレベルの判断でしょう。

 しかしその伊藤博文も、最終的には併合に賛同するに至っています。時の首相・桂太郎と外相・小村寿太郎は、適当な時期に韓国併合を断行すること、それまでに保護国として実権を奪っていくことなどを記載した方針案をまとめ、1909年4月10日、伊藤博文に見せて、その同意を得ているのです。

 この方針は7月6日に閣議決定され明治天皇の裁可を得て、併合が政府の正式な方針となったことになります。

 ちなみに伊藤博文が暗殺されたのは10月なので、いずれにしても、伊藤博文の暗殺によって韓国併合の舵が切られたのではなく、暗殺前から既に併合の方針は決められていたのです。

4 韓国併合は脅迫によって行われた

 『今こそ、韓国に謝ろう』では「朝鮮人の中にも併合を歓迎する機運が高まっていました。…併合は朝鮮政府が望んだものだったのです。」という主張があります(112頁)。

 当時の韓国に併合論が一定程度あったのは事実で、これは一進会と呼ばれる団体によるものでした。ちなみに一進会の会員数は、1910年の調査では9万1896名です(一進会の会員100万人が併合を要望する署名を提出したという説をネットで見かけることがありますが、言うまでもなくバカげたデマです。)

  ただしこの一進会が望んでいた併合は、日本との対等併合か、連邦形式による併合だったので、日本政府が進めていた方針とはまるで異なるものでした。

 当然のことながら一進会も日本側から見て邪魔な存在となり、日本の韓国統監(既に保護国状態になっていた韓国の政治を統制するため日本から派遣されていた職。後の「総督」の前身)によって、演説・集会を禁止されるなど弾圧の対象になりました。

 一方日本政府は、ロシアやイギリスから韓国併合についての承諾を取り付けた後に、1910年6月3日、「併合後の韓国に対する施政方針」を策定し、また具体的な併合に向けた作業を進めていきました。

 当然、韓国政府がこの方針策定や準備作業に参加などしているわけもなく、日本側が勝手に進めていっただけです。

 そのうえで1910年8月16日、韓国統監の寺内正毅は、韓国首相の李完用を統監官邸に呼びつけ、韓国併合条約を呑むように脅迫し、ついに韓国政府は18日の閣議でこれを受け入れ、22日に正式に調印に至ったのでした。

 このような経緯から見ても、併合は、日本が韓国に一方的に押し付けたものに過ぎないことは明らかでしょう。(そもそも韓国の軍隊は1907年に解散させられて、抵抗できる実力組織など韓国政府にはもはやなかったのです。)

5 日本の総督は朝鮮の独裁的支配者であった

 『今こそ、韓国に謝ろう』では触れていないのですが、併合後に韓国を支配した日本の歴代総督は、内閣ではなく天皇に直属する官職であり、行政・立法・司法・軍事にわたる強大な権限を備えた、いわば朝鮮の独裁者というべき存在でした。

 すなわち、強大な行政権を持っていただけでなく、法律に代わる命令を発し、さらに司法部や朝鮮軍も総督の下にあったのです。

 そして朝鮮人には帝国議会の選挙権が与えられなかった(但し日本内地に居住する朝鮮人は別)だけでなく、地方議会すら朝鮮には存在しませんでした。(後に府・面などの地域単位で協議会が設置され、一定範囲で選挙も行われましたが、これらの協議会は諮問機関であり、議決権はありませんでした。)

 こういう事情を知らないと、「日本から朝鮮に派遣された総督とは、県知事の海外派遣版みたいなものか」などというとんでもない誤解をしてしまうことになります。
 実際には県知事どころか、内閣総理大臣と同格程度の職でした。それどころか、朝鮮半島に限った範囲では自分で行政・司法・立法・軍事を動かせるのですから、朝鮮総督には、内閣総理大臣よりもはるかに広い権限を与えられていたのです。(日本の内閣総理大臣は、一応は帝国議会によるコントロールがありましたが、前述のとおり、その帝国議会にあたるものが朝鮮半島にはなかったのです。)

 ちなみに朝鮮総督府に勤務した職員は、基本的に日本人(内地人)が多数を占めていました。1937年時点の数値では、総数約6.5万人のうち4.1万人が内地人で、朝鮮人は2.4万人ということになります。

 つまり全体の2/3を内地人が占めていたことになります。ピラミッド型組織になる官庁で現地の朝鮮人が1/3しかいないというのは、非常に日本人に偏重した組織だったことを意味します。
 (イギリス領のインドの場合は、現地を支配する官庁のピラミッド型組織の上層部がイギリス人中心で、下の方ほどインド人職員が多数を占め、全体としてはインド人の方が多い構成になっていました。)

6 差別的な刑罰制度が行われた

 『今こそ、韓国に謝ろう』では、日本が韓国を併合した後に、従来から行われていた鞭打ち刑について、しばらく残したものの緩和したという主張をしています(86頁)。

 しかし実際はその真逆であり、大韓帝国時代は1905年の「刑法大全」で鞭打ちの緩和の方向を打ち出していたにもかかわらず、日本統治になってからは逆に鞭打ち刑は拡大され、1912年には「朝鮮笞刑令」という命令が発せられています。

 そもそも併合後の朝鮮には、犯罪即決例という法令が施行され、比較的軽微な刑罰については、裁判所抜きで、警察や憲兵が刑罰まで執行する権限が与えられており、これには鞭打ち刑も含まれていたのです。(なお朝鮮居住の日本人には鞭打ち刑は適用されませんでした。)

 ちなみに『今こそ、韓国に謝ろう』は、併合後に日本は拷問を完全廃止したなどとも主張していますが、これまたデタラメです。
 拷問廃止どころか、一例を挙げると、併合後の1912年、独立運動家たちが寺内総督の暗殺を企てているという噂で数百名の無実の人々が逮捕され、取調中の拷問で死亡者まで出す事件が起こって、国際的非難を浴びたほどでした(有罪判決を受けた人数から「百五人事件」と呼ばれています)。

7 最後に

 以上はいくつかのテーマを断片的に見てみただけですが、これだけでも『今こそ、韓国に謝ろう』は、歴史について歪んだ認識を広げ、隣国に対する偏見を蔓延させるような内容を多々含んだ書籍であることがわかるでしょう。
 専門的な知識のある人々による十分な批判的検討がなされるべきと思います。

参考文献

金達寿『朝鮮』(岩波書店)
山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』(岩波書店)
海野福寿『韓国併合』(岩波書店)
趙景達『近代朝鮮と日本』(岩波書店)『植民地朝鮮と日本』(同)
高崎宗司『「反日感情」韓国・朝鮮人と日本人』(講談社)
木村光彦『日本統治下の朝鮮』(中央公論新社)

なお「1945年への道」というサイトが、韓国併合に関する様々な論点について、データを多く用いて検討しており、参考になるので一読をお勧めします。



 

   



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