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僕が今、情熱を傾けられること

先日、ハフポスト日本版編集長の竹下隆一郎さんの話を聴く機会があった。当たり前すぎて言うまでもないことだが、多くの人にとってWebメディアというのは情報源として1,2を争うほどの位置付けになっている。ただ全てのWebメディアが信頼に足ることはなくて、玉石混交、情報源として接する受け手一人ひとりのリテラシーが求められる。むしろこれだけメディアリテラシーが求められる時代は今までなかったのではないだろうか。

タイトルと話は逸れてしまうが、メディアリテラシーって、そもそも何だろうか。

テレビ番組や新聞記事などメディアからのメッセージを主体的・批判的に読み解く能力。リテラシーというのは「読み書き能力」のことで、読む力と同時に書く力も含む。情報をうのみにせず、どんな意図で作られ、送りだされているかを自分の頭で判断する。そしてそれを通じて自ら情報発信する力を身につける。そうした試みはカナダなど欧米では早くから学校教育のカリキュラムに組み込まれているが、日本でも1990年代以降、全国に広がってきた。教育界や放送界での取り組みも始まり、市民のネットワークも作られつつある。背景には放送と青少年に関する委員会の設置に至るような、子供や若者への放送メディアの影響に対する関心の高まりがある。
(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」より。太字は私)

つまり前提として、メディアが編む「情報」というのは、何かしらの「意図」が含まれているということだ。「この情報を届けたら、受け手はこんな反応をするのではないか」という予測レベルであることもあれば、「この情報を届けることで、受け手の解釈をこんな風に誘導したい」という策略(あるいは謀略)に近いこともある。どちらが適切であり、どちらが適切でないか、というのはイシューとしては意味がない。その意図をどれくらい編み込むかは、だいたいのところメディア側に委ねられるからだ。

「だいたいのところ」と述べたのは、受け手側にも編集に関わる決定「権」があるからだ。メディアは運営に関する諸経費がかかり、殆どのメディアが「ビジネスとして成立するか」を抜きに意思決定することができない。どんなに骨太の主張をしたところで、運営諸経費を上回る収入を得られなければメディアは存続しない。購読料でも広告収入でも寄付でもクラウドファンディングでも何でも構わない。持続的に儲かっていなければ成立しないのだ。(運営会社がメディア以外のところで利益が出ていればメディア単体が赤字でも問題ないかもだが、そんなにビジネスって甘くないですよね)

持続的に利益を出すためには、収入をもたらす何かと接点を持つことが欠かせない。ビジネスセオリー「パレートの法則」に基づくと、全収入源の2割が売上の8割を占めることになるため、メディア側は、2割のコアな収入源を意識しなければならない。言葉は悪いかもしれないが、利益確保のためには何らかの歩み寄りが発生する可能性がある。その歩み寄りの結果として、特定のカテゴリや言論に偏向したり、フェイクニュースを発信したり、何らかの忖度が見受けられたりすることがある

そう考えると、メディアに限らず全ての商品には何らかの意図が込められていて、売り手が声高に訴える商品価値を、受け手が鵜呑みにするべきではないことが分かると思う。「自民党の首相は安倍さんだ」はファクトであるけれど、「自民党は日本国民に優しい政党だ」はメッセージであり、それを感受するかどうかは受け手の解釈による。

実はここまで書いたことは知らなくても良かったことかもしれない。何かを意思決定する上で、いちいち何かの忖度を見破らないといけなくなるからだ。特定の投資信託を信頼していればだいたい正解だとすれば、そこに多くの資産を投入していれば安心だ。与信レベルで全ての相手や状況を疑っていたら手間がかかるし、機会損失になることもある。眼前の投資信託にBetしてしまうのか否か。安易にその判断を下せないのは、僕らがとってもややこしい世界で現実に対峙しなければならない(あるいは、既に対峙している)からではないだろうか。

*

だから竹下さんの話を聴き、ハフポスト日本版のメディアとしての性質や価値、熱意を感じることはできたものの、そのまま信頼することはしなかった。一次情報だけを集めていたら時間が幾らあっても足りないけれど、僕が情熱を傾けたい情報に関しては、情報源から慎重に当たらなければならないからだ。

だけど竹下さんの著書『内向的な人のためのスタンフォード流ピンポイント人脈術』に書いてあったスモールトーク(初めて会った人と交わすちょっとした雑談、世間話)術について、興味深い記述があって、それをこのエントリでは考えてみたいと思う。

(スモールトークにおいて)どうしても具体的な企業名や役職名を書いてしまうそうなのですが、「それは絶対にだめだ」と言われました。
「何に自分が最も情熱を傾けているのかを書くように」というアドバイスを教授から受けました。たとえば当時の私だったら「朝日新聞記者」と書くのはダメで、「閉鎖的な日本で誰もが自由に発言をできて意見を活発にやり取りできる、会話がたくさんある社会をつくりたい」と書きます。
自分のいる業界が抱えているちょっとした課題に触れて、どう解決しようとしているかを説明すると、自己紹介も「ストーリー」のようになると習いました。
(竹下隆一郎『内向的な人のためのスタンフォード流ピンポイント人脈術』P115から引用。太字は著者)

僕がこのことに共感したのは、これまでの僕が情熱の如何で物事に対するコミットメントの度合いが決まっていたからだった。

例えば前職で勤めていた教育業界において。

教育に関する民間企業としては業界で1,2を争うポジションの大手だったわけだが、業界全体がアナログで、入社に際して色々調べていたときに愕然とすることが多かった。その分僕は大いに燃えて「未だに教育業界では「紙と鉛筆」による学習が平然と行なわれている。テクノロジーを活用すれば自動採点ができて子どもへのフィードバックが早くなり学習効率が上がる。グーグルグラスなどのウェアラブル端末や、ジャイロセンサーのような高機能を学習装置として取り入れることで、子どもの学習意欲を向上させたり、損なわないようにマネジメントできたりということが可能になるのではないか」ということを思い立った。自分のプロジェクトとは直接の関係はなかったが、事あるごとにその野望を語っていたときの自分はなかなか情熱的だったと自負している。(残念ながら、その野望は挫かれてしまったのだが…)

マザーハウス副社長・山崎大祐さんの経営ゼミでも、「思いをカタチにする」ことがコンセプトの1つだった。

もちろん、何に対してモチベーションを感じるのかは人それぞれ。僕がとりわけ「情熱を傾けられているか」ということに意義を感じるタイプなんだと思っている。

*

そこで一つの問いが生まれる。
お前は今、何に情熱を傾けられているのか?

正直に言おう。
20代後半に抱いていた教育業界への野望のような、あの具体的な情熱のように、現時点の僕は言語化ができていない。情熱がないわけではない。その情熱をどこにアウトプットすれば良いか定まっていないのだ。

だけど先週、このエントリを書いて。
僕は「言葉の海」に対して真摯に向き合っていきたいと気付いたのだ。

「言葉の海」に対峙することを、さて、どのように真摯に行なっていくかという問題が待ち受けている。

僕はそれを、非常にややこしい、困難を生じるものだと思っていた。

だけど、今僕が徒然なるままに浮かべているオプションは、実は瑣末なものなのかもしれない。

「How」を考えすぎていて「What」と向き合えていなかった。

改めて、僕は一つの問いに向き合わなければならない。
お前は今、何に情熱を傾けられているのか?

確信を持って言語化できるとき、僕の目の前にはきっと活路が開けるはず。活路とは「命の助かるみち。窮地からのがれるみち・方法」のこと。

情熱を傾けて生きられるならば、それくらいの冒険は覚悟の上だ。

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