見出し画像

とても暴力的な令和時代に、アンパンマンが果たす正義はどう捉えられるべきなのか

夏季休暇にマイケル・サンデルさんの著書『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。めちゃくちゃ良かったが「もっと早く読みたかった」「できれば読み / 知りたくなかった」という気持ちが半々で、複雑な心境もある。

そういう気持ちが湧いているのは、本書を読んでから「ちょっと冷めて」社会を見るようになってしまったからだろう。

誰が論客になれるSNS時代において、僕はそれなりにライヴ感があって楽しめていたのだけど、何となくシステムに気付いてしまったというか。結局のところ、持ち前の正義を振りかざすことでフォロー / アンフォローされている世界なのではないかと。

──

論旨がやや乱暴なので、本書から引用しながら意図を説明してみる。

<正義への三つのアプローチ>
ある社会が正義にかなうかどうかを問うことは、われわれが大切にするもの──収入や財産、義務や権利、職務や栄誉──がどう分配されるかを問うこと
である。(中略)
われわれはそうした問題をすでに考えはじめている。便乗値上げの是非、パープルハート勲章の受賞資格をめぐる対立、企業救済などについて考えながら、善きものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。つまり、福祉、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について異なる考え方を示している。
(マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』P37より引用。太字は私)

つまり、そこかしこで開催されている正義の対立は、三つのパターン(福祉の最大化、自由の尊重、美徳の涵養)が起点になっているということ。

起点が違っているからズレが発生してしまう。あるいは同じ起点でも「分派」が幾つかあって揉めてしまうという話。

まさに本日。台風15号明けの出勤について。

ある人は「①会社全体の満足(価値観など感情面も含む)が最大化するために、交通インフラの不都合を跳ね除けて出社するのが当然でしょう」と言う。一方で「②会社と個人はそもそも対等だ。仕事に悪影響が出ないのであればテレワークで仕事しても良いではないか。何なら休んでも構わない」という意見も出る。最大幸福も個人の自由も度外視して「③善き社会人の正しい行動は出社時間を遵守することだ。出社時間などのルールを遵守することによって、規律性の高い社会人になることができる」という美徳をひけらかす人もいる。

面倒なのは、それぞれが掲げる正義は「正論(=道理の正しい議論)」に基づいているということだ。それぞれの立場に立脚した意見で幅を利かせ、異なる立場の「弱い」点を突いてくる。あたかも盲点と言わんばかりの勢いでアッパーをかましてくる。

上記三つのパターン(福祉の最大化、自由の尊重、美徳の涵養)はそれぞれ強み / 弱みがある。人によっては強情なままに論理展開することもできるが、以下の事実は頭の片隅に置いておくと良いだろう。

それは悲しいことに。
その議論は、既に、総て、哲学者の間で語り尽くされていると。

世の中のことを知れば知るほど、行動する勇気が削がれていくものだが、安直にTwitterで持論を展開するのがますます恥ずかしくなってしまった。よほど強い確信がない限り、何かの是非を語ることなんてできない。僕なんかの意見は所詮、誰かの何かの焼き直しに過ぎないのだから。

──

少し前に、「アンパンマン」に関する記事が世間を賑わせた。

本記事の論旨はこうだ(太字は私)。

---
①TVアニメ『アンパンマン』には、アンパンマンがバイキンマンをアンパンチで倒すシーンが放映されている」
②『アンパンマン』は乳幼児を対象としたアニメである
③乳幼児は主人公を自己同一視しやすく、影響を受けやすい
④『暴力が問題解決のための有効な手段』だと学習してしまう可能性があり、一部の親が心配している
⑤乳幼児はテレビの世界と現実とを区別できない(ことがある)
⑥親の心配は正当なものなので、アニメ鑑賞後に、子どもに対して適切なコミュニケーションが必要である
---

なるほど、確かにそんな気がする。

僕自身、勧善懲悪で仕立てられたストーリーが苦手で(ガンダム的な世界観が好きなのです)、いつの頃からアンパンマンを遠ざけるようになっていた。著者のやなせたかしさんによると「バイキンマンが好きな子ども、多いですよ」ということなんだけど、僕自身もそうで。周囲にいじわるをして気を引いたり、ドキンちゃんに気に入られようと行動する姿に共感を抱くタイプだった。だからこそ、そんなバイキンマンをアンパンチで倒す「彼」に対して良い印象を抱けなかったのだ。

やなせたかしさんの著書『わたしが正義について語るなら』を読んで、その印象が良化する。良い印象を抱けなかった(一義的な感想に留まっていた)のは、未熟だった10代・20代の僕の世界観がアップデートされていなかっただけだった。

──

どういうことか。
1973年に、著者が提起した「正義」について触れていただきたい。

アンパンマンはテレビアニメになる前、絵本『あんぱんまん』として描かれていたことがあったそうだ。現在のアンパンマンよりもボロボロで、太陽みたいに明るいアンパンマンとは似ても似つかぬものとして描かれていたようだ。(そして親たちには不評だったようだ)

子どもたちとおんなじに、ぼくもスーパーマンや仮面ものが大好きなのですが、いつもふしぎにおもうのは、大格闘しても着るものが破れないし汚れない、だれのためにたたかっているのか、よくわからないということです。
ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行えませんし、また、私たちが現在、ほんとうに困っていることといえば物価高や、公害、飢えということで、正義の超人はそのためにこそ、たたかわなければならないのです。
あんぱんまんは、やけこげだらけのボロボロの、こげ茶色のマントを着て、ひっそりと、はずかしそうに登場します。自分を食べさせることによって、飢える人を救います。それでも顔は、気楽そうに笑っているのです。
さて、こんな、あんぱんまんを子どもたちは、好きになってくれるでしょうか。それとも、やはりテレビの人気者のほうがいいですか
(やなせたかし『わたしが正義について語るなら』P15〜16より引用。太字は私)

この力強いパンチラインの連続、どう感じただろうか。

「アンパンマンに文句言うならやなせ先生のバックグラウンドを知ってから言え!」という乱暴な言説は公平ではないように思う一方で、アンパンマン vs バイキンマンのような二項対立で語るのも表層的な見方であることを気付かせてくれるものだと、僕は思う。

(やや著者を支持する方向に向いているが、作品そのものを語るのは自由であるべきだと僕は考えている。時代は移り変わるもので、アンパンマンを肯定する / 肯定しない立場があるというのは健全なことで、議論の積み重ねそのものが、エンタメの世界を広げ深めることに繋がっていく)

──

さて。
「とても暴力的な令和時代に、アンパンマンが果たす正義はどう捉えられるべきなのか」というタイトルに戻ろう。

ややこしい性格で恐縮だが「僕が子どもの時代はこうだったから」といった経験則で語るのは、あまり僕は好きではない。記事で書かれていたように、アンパンマンが、子どもの潜在的な暴力性を喚起しうる存在なのかもしれないけれど、改めて僕はそう簡単なものではないと思っている。

集団の中で、特定の子どものことを「バイキン」と呼ぶのは間違いなくイジメだ。だけどそれは象徴としての「アンパンマン」「バイキンマン」という存在がオートマティックに語らせているわけではないはずだ。

時間軸、空間軸の様々な視点がある。
そこにいるプレイヤーたちの特性がある。

化学反応次第では良質なコミュニティになるし、悪い方向に傾けば悲しい末路を迎えることにもなる。できれば良い化学反応を期待したいし、何ならアンパンマンを「正義」を語る上でのマテリアルにすれば良い。

みんなにとっての「わたしが正義について語るなら」をぶっちゃければ良い。そんな教育論は、ややエモく感傷的に過ぎるだろうか?

──

全て書き終わった後で、とても真摯に考察された論文を発見した。自ら駄文を重ねる必要もなかったなと……。

とても長いですが、練り上げられた考察が素晴らしい記事(note)です。正義を語りたい方は、一読されることをお薦めします。


この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

記事をお読みいただき、ありがとうございます。 サポートいただくのも嬉しいですが、noteを感想付きでシェアいただけるのも感激してしまいます。