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「家族のような」という表現について

6月30日に放送された情熱大陸で、社会学者の上野千鶴子さんが特集されていた。2019年度東京大学 入学式での祝辞にて話題になった上野さんの生き様が30分間に濃縮されていて、とても見応えのある回だった。

番組の中で上野さんが介護の現場を訪問したシーンが紹介されていた。上野さんは、知り合いの方(館長?お医者さん?)に対してこんな苦言を呈していた。

私は「家族のような」っていうのがすっごく嫌なんだ。すごい抵抗がある。良いことやっている人ほど「家族のような」という形容詞がお好きなのよね。私、本当にすごい嫌なんだ。抵抗を感じる。
家族ベストなら、家族以外のものが家族のようなことをするのは代用品でしょ。代用品て二流品じゃないですか。自分たちがやっていることを二流品だなんてお考えになる必要なんて何もないじゃない。いつも思う。いっつも思う。日本は家族の呪縛がその辺にいっぱいあるから。家族 is the bestでさ
TBS「情熱大陸」2019年6月30日放送より。太字は私)

「苦言」というと語弊があるかもしれない。
違和感を、そのまま口に出しただけかもしれないから。

本人の意図はさておき、僕はしっかりと思い知る。

「30年前は「女性学」という学問はなかった。なかったから自分で創った」という上野さんは、既存の価値観 / 男性社会という枠組みの中で戦い、学問を創り出し、社会に対して徐々に影響を与えてきた。視点の鋭さ / 深さがある故に、敵も味方もどちらとも対峙しなくてはならなかった。自ら進んで、その責任を背負い込んだようにも思える。

きっと初めの頃、上野さんがイメージする「女性学」そのものの輪郭はファジーだったのではないだろうか。理論の脆弱性ゆえに、今と同じくらい、もしくはそれ以上に叩かれたこともあったはずだ。

そのたび、上野さんはご自身の理論を磨き上げてきたに違いない。泥臭く、気の遠くなるような過程を経て。そのプロセスの中で感じてきた「言葉」に関する様々な違和感。それが冒頭の「家族のような」という表現にも当てはまったのではないだろうか。

*

「家族のような存在」
「家族同然の付き合い」
「(これまで他人だったけれど)家族になれて嬉しい」
「家族になろうよ」

そんな表現を、僕はこれまで違和感なく使ってきた。とても幸せなことに、僕にとって「家族」は尊く、自然体で、失われるはずのない(と盲信している)存在なのだ。

でも振り返ってみれば、家族 is the best. でないシーンもたくさんある。仲の良い友達、色んな気付きを与えてくれた先輩や恩師、切磋琢磨できる関係だった元同僚の方々、家族にはならなかった元恋人たち。彼らは、未熟な僕に対して、その時々でベストな体験をさせてくれた。「家族だったら(だからこそ)できないこと」もたくさんあった。家族依存のままだったら、僕はもっと縮こまった人間になっていただろう。

家族は大切な存在だ。
だけど、いつも、家族 is the best. であるとは限らないんだ。

*

言葉が生み出される。
そこには様々な解釈がある。

僕は、そこに情熱を傾けたいと思う。
日曜日から、ちょっとだけ言語化が進んだ。

それにしても、言葉というのは、その人の生き様が表れるものだとつくづく思う。

前週のリナ・サワヤマさんの放送でも、珠玉の言葉が発せられていた。「(ケンブリッジ大学で人種差別を受け陰湿ないじめに遭ってきたけれど)戦うのではなく、愛と知識で何とかしたい。ネガティヴなものばかり目の当たりにする中で、音楽のみがポジティヴだ」。何という28歳だろうか。

僕はこれから、どんな言葉を編み出すことができるだろう。

楽しみでもあり、怖くもある。



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