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言葉の海に溺れそうになったときに。〜瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』〜

君は何者だ?

自分に対して問い続けて早34年、「未だに答えがない」と言ったら笑われるだろうか。だけど自分がどうやら「言葉」あるいは「言葉の使われ方」に対して非常に強い関心を持っていることが分かってきた。

そのことに気付いたのはつい最近のことだから、僕は専門的に「言葉」に対する教育を受けてきたわけではない。本を読み、歌を聴き、人と対話をし、Twitterを眺めてきた。何より僕がこうして書いている駄文を見つめている頻度は誰より高くて(当たり前ですよね)、そしてしばしば、無数にある言葉をどう手繰って良いか迷ってしまう。前文で僕は「手繰る」という言葉を用いたけれど、それが現在の僕の心情を表すのに最適なのかとか、いちいち止まってしまうわけだ。

それが「作文する」という行為における試行錯誤なわけだが、自分に課せられたテーマ(or ミッション、アジェンダ等々)が明確であるならば、それは息が詰まるような難解なものではない。容易いことだと断定するほど傲慢ではないし、その一文に魂が込められているかどうか、鋭い読み手には即座にバレてしまう。

そんなエクスキューズを挟みながらも、僕が最も難しいと思うのは「答えのない問いに対する文脈形成」だ。極端なことを言うと「世界から戦争をなくすべきだ」という主張を声高に掲げても、「そりゃそうだね」ということで人々の記憶には残らないし世界は変わらない。だけどガンダムを観ると、人同士の諍いがやむを得ぬ事情で発生し、時に親友や恋人を反してまでも対峙せざるを得ないことに気付く。観終わった後にどんな解釈をするかは人によって異なると思うけれど、敢えて戦争を描く(アニメにする)という手段を取ることで、その文脈には生き生きとした血肉が宿る。

文脈。文の脈。
脈にはには暖かいものが流れていなければならないし、それが速すぎても、バランスが悪くてもいけない。「脈々と続く」という言葉があるように、穏やかに堅実に流れて、そのもとで文脈が形作られていかなければならない

*

という中で、僕は残念ながら言葉の海に溺れがちだ。有効な処方箋も持ち合わせていない。

だけど、もしかしたら、小説家の瀬尾まいこさんから学べることがあったかもしれない。2019年の本屋大賞を受賞した『そして、バトンは渡された』には、そのヒントが随所に散りばめられていたように感じる。

森宮優子、十七歳。継父継母が変われば名字も変わる。だけどいつでも両親を愛し、愛されていた。この著者にしか描けない優しい物語。 「私には父親が三人、母親が二人いる。 家族の形態は、十七年間で七回も変わった。 でも、全然不幸ではないのだ。」 身近な人が愛おしくなる、著者会心の感動作。(Amazon「内容紹介」より)

本の内容は本エントリの趣旨ではないので割愛するが、この本を通じて感じる瀬尾さんのプロフェッショナルに、ただただ恐れ入ってしまった。(プロの作家に「恐れ入る」なんて言うのも恐れ入るわけですが)

『そして、バトンは渡された』に限らず、瀬尾さんの作品は、とても穏やかなトーンに彩られている。大きな事件が頻発するわけでもないし、理不尽な環境変化がふと訪れるわけでもない。名言ないし、過去の偉人の金言が引用されているわけでもない。普段僕はAmazonレビューを見ることはないのだが、たまたま見てしまった内容で「あまりにファンタジー。いじめのシーンだってこんなに単純じゃないし、主人公が淡々とし過ぎていて感情移入できなかった」というものがあり、確かに「薄味」に捉えられることもあるかもしれない

だけど良く読んでみると、無駄な贅肉が一切ない。だからこそ、優子と森宮さんのやりとりの1つ1つに「なるほど!」と思ったり「そう来たか!」と膝を打ったり「火星に異動って笑」とクスリと笑わされたりしてしまう。それぞれズレている二人が、ズレるポイントの相性が良くて、そしてやりとりを通じて噛み合ってしまう。時々現れる第三者(友人の萌絵や史奈、担任の向井先生)が、噛み合っていることを「奇跡」かのように伝えている。

印象的なのは、優子の卒業式のシーン。

つらかったんだね。無理しなくていいんだよ。親が変わったってあなたはあなた。生い立ちなんか気にすることない。そんな言葉をかけてくれる先生は今までたくさんいた。でも、向井先生の手紙には、「あなたみたいに親にたくさんの愛情を注がれている人はなかなかいない」そう書かれていた。(中略)
一組の代表者が卒業証書を受け取り、二組の呼名が始まった。
向井先生は名簿ではなく、私たちの方を見て、名前を呼んでいる。
(瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』P274〜275より)

その後に続くのは高校卒業に関する感慨深さの描写なんだけど、「私たちの方を見て、名前を呼んでいる」という文章を挟むことで、高校生活という良くも悪くも心情をざわつかせやすい環境をちょっとだけ肯定してくれる。もしかしたら気付いていないだけど、僕の高校の担任も、細やかなところで僕のことを見てくれていたのかもしれない(そうでなかったかもしれない)。

誰かが言った。
「ビジネス書は全編読む必要はなく、要点だけ摘みながら読めば良い」と。僕の知る読書術関連の本の幾つかもそういった読み方を推奨しているし、著者自らが「それで構わない」と断言していることもある。

だけど小説は違う。(少なくとも僕はそう思っている)
人に平等に与えられた「時間」という資産の中で、「時間」をかけて小説は読まれなくてはいけない。「時間」をかけて物語は消化されなくてはならない。仮に5分で小説を読める人がいたとしたら、その人にとって小説を読むとは「物語を体験する」ということではないのだろう。

小説、あるいは、物語。
文脈を破(わ)らずに、作家の創る文章の流れに身を任せてみる。言葉の海に溺れていた僕が、束の間、安息の眠りに就ける。そしてまた濁流に飛び込んで、見つかるかも定かでない「何か」を探す。濁流の勢いは衰えもせずに僕を狼狽させるけれど、『そして、バトンは渡された』を読んだ僕はちょっとだけ心が整っている。光が満ちあふれていた

*

僕はこの文章をサカナクション「834.194」を聴きながら書いている。

繭割って蛾になる マイノリティ
揺れてる心ずっと 三つ目の眼
飛び交う蛾になる マイノリティ
雨に打たれ羽が折りたたまれても
(サカナクション「834.194」収録「モス」より)

「新宝島」のように外との接点(見せ方も含めて)を大事にしている山口一郎さんなんだけど、真骨頂は「モス」にもあるような内向的に思索できる「くらみ」にあるのではないかと思わせる。まだ聴き始めたばかりだけど、これは会心の一撃と言えるオリジナルアルバムなのではないだろうか。


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