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雨とは、憂鬱を象徴するものなのか(映画「天気の子」)

いきなり拙著の紹介で恐縮だが、2017年に僕は小説『カメラトーク、セッション』という作品をApple Booksで無料配信した。

僕にとって二作目、前後編にわたる初めての長編小説だ。

心を込めて書いた大事な作品だが、不思議なもので細かい設定に関する記憶は朧げだ。もちろん大筋は憶えている。鬱々としたシーンでは雨を降らせたし、転換を匂わすシーンでは目も眩むような晴天を用意した。

やや強引な繋ぎになるが、一般的に「天気」というものは、物語における最もベーシックな舞台装置になると言って差し支えない。僕の小説を俎上に載せるまでもなく、以下のように単純化できる。

晴天=うまくいっている
雨天=うまくいっていない
晴れ → 雨=物事が悪くなる
雨 → 晴れ=物事が良くなる

ということ。上記が「裏切られる」ことも稀にあるが、その場合は演出における綿密な根回しがなされなければならない。それが暗黙の了解だ。チェーホフの銃ではないけれど、雨を降らせたのなら、誰かが傷つく必要がある

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大ヒットした前作の虜になった僕だけど、3年を経て公開された新作「天気の子」を観たのは、公開から既に1ヶ月が過ぎた頃だった。

その日、日中は夏らしい酷暑だったけれど、夕方から突然強い雨が降り出した。夏の終わりのせいだろうか、日毎に寒暖差が大きかったり、唐突に雨が降る日が続いたり、空模様は常に不安定だった。映画を楽しみにしていた分、その強い雨は、これから映画を観ようとするテンションに水を差した。

手垢がつくほど言われていることだが、新海誠さんの作品は映像が美しい。「天気の子」は、その名の通り「天気」がテーマになった作品だ。主人公である帆高と陽菜の心模様とリンクするように、空模様が丁寧に描かれていた。水滴(つまり雨や涙のこと)の瑞々しさは、命が宿っているようだった。細かい演出の連続で、一分足りとも飽きることがなかった。

この作品もご多分に漏れず、雨は「晴れやかな」ものとして描かれていない。ただ「憂鬱な」ものとして描かれているかと言えばそうではなく、傷つくシーン、出会いのシーン、葛藤のシーン、笑い合うシーンなど、様々なシーンが雨という状況下で描かれていた。(少しネタバレになってしまうが)この作品は全編通じて雨を降らせており、キャラクターの心情も、雨中において当然変化していく。

もちろん晴れのシーンはとびきり「晴れやか」で、キャラクターたちはひときわテンションが上がる。ただその「晴れやか」にはカラクリがあり……(この先は映画をお楽しみください。笑)

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この作品が印象的だと感じたのは、晴れと雨を、二項対立のものとして描いていないことだ。暗黙の了解なんて単純化せず、天気がどのように人間の態度や行動を規定するかを深掘りしているし、何なら天気に関する新しい解釈を試みようとしている。

例えば帆高は、

雨であっても力強かった。
晴れであっても悲しみを纏っていた。

そもそも、悲しみと喜び自体が二項対立のものとして描かれるべきではないのかもしれない。その中間を、表現者は描かなくてはいけないのかもしれない(いや、きっととっくにみんな描こうとしているはずだ)。

雨が、町にある様々な物事の輪郭を曖昧にするように、僕たちが「当たり前」だと想っている物事も「当たり前」ではなくなっているのが昨今だとしたら……。

「天気の子」の彼らのように、世界を変える力を持っていなくても、僕らは新しい解釈に挑戦していかなければならない。……の、かもしれないね。

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追記です。二項対立と言えば、以前書いたこちらのエントリもオススメです。もしよろしければご笑覧ください。


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