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麻雀は、いかに"強いと思われるか"の勝負である

○"強さの証明"に感じる違和感

麻雀で「"強さを証明"する」と言っている人に対して、なんとなく違和感を感じたことは、ないだろうか?

厳密には、"強さ"とは何か、"証明"とは何か、を定義するところから始めるべきな気はするが、一旦、今の僕が考えていることをざっくり書き残そうと思う。

まず、「自分の麻雀の"強さ"を"証明"する」という言葉には、「自分は麻雀が強い」という自己認識が前提にある。

既に、自分の中には、真実が存在するのだ。
では、なぜ、わざわざ他者に"証明"する必要があるのだろう?

「力試しをしたい」「自分の実力を試したい」というニュアンスも含まれるだろう。もちろん、それはわかる。
しかし、こと麻雀においては、「自分の真の実力を知りたい」と本気で考えている人より、「自分が"強い"と確かめたい」人がずっと多いように思う。

なぜなら、「自分は"強い"」と主張する、強くなさそうな人が、存在するからだ。
もしくは、「あの人は"強い"」と言われている、大したことなさそうなやつが、存在するからだ。

なのに「なぜ、自分の"強さ"は認められていないのだろう?」と、考える。

こうやって、人は他者から認められることを求めるのだろう。
いわゆる、承認欲求と呼ばれるものだ。

自分の麻雀が"強い"ことを、自分以外の誰かにも、認めてほしいのだ。

「自分は麻雀が強い」という"真実"と、「自分の麻雀が"強い"と認められていない」事実のギャップが、落ち着かないのだろう。

もしくは、「自分は強い」と「自分は強くない」という相反する意見を、両方同時に持っていて、この脳内論争に決着をつけたいのかもしれない。

だから人は、戦いに勝つことで"強さを証明"しようとするのではないだろうか?
少なくとも戦っている間は、"強い"かどうか悩まずに済む。

麻雀に限らず、勝負の世界は、こういう人たちの戦いの場であるように思う。
「自分は本当に"強い"のか?」「お前は俺より"強い"のか?」と、確かめずにはいられないのだ。

ただ、自分の麻雀の"強さの証明"をしたがる人の中には、「果たして自分は本当に"強い"のだろうか?」という自問をすっ飛ばしてしまう人も、一定数いるような気がする。

麻雀は、自分が"強い"と錯覚しやすいゲームだ。運の要素が、大きすぎるからだ。
では、こんなゲームで、自分の"強さ"を測るには、一体どうすればよいのだろうか。


○ルールがあるところに、勝者が生まれる

ルールとは、「ここで勝ったやつが最強だ!」という約束のことだ。

この"約束"に、価値がある。

少なくとも、そのルールに賛同した人に対して、勝者は"強さの証明"をできたことになるからだ。

例えば、「最高位」とは、そういうものだろう。
最高位戦のルールで、今年一番強い人を決めようという取り決めの上で、参加者たちが争うのだ。

ルールがあるから、勝者が決まる。
そして同時に、敗者も決まる。
勝者は、敗者より"強い"というのが、一般的だ。

つまり、ルールとは、"強さ"とは何か、を定義するものに、限りなく近いと言える。

○麻雀における、"強さの証明"の難しさ

麻雀は、運の要素が勝敗の多くを決める。

これが、麻雀の"強さの証明"を難しくしてしまっている。

たとえ、厳密なルールを決めて、勝者が決まったとしても、「あいつが勝ったのは、運が良かったからだ」と、言いやすいのだ。

自分が負けたのは、「運が悪かったから」で、「自分の麻雀が強い」という真実には変わりない、という解釈が、いとも簡単に成り立ってしまう。というか、その通りかもしれないのだ。

麻雀で"強さを証明"するのは、思ったよりも大変だ。これは困った。

だからこそ、「誰もが楽しめる素敵なゲームだ」というのが、僕なりの結論だ。

よし、みんな、麻雀をやろう!

めでたし、めでたし。

と言うのは、あまりにも味気ないので、(あと、いかついタイトルに興味を持ってくれた人に申し訳ない気もするので、)もう少しだけ踏み込んで書いてみることにする。


○"強い"と認めさせたら"勝ち"

麻雀における、"強さの証明"の方法は、特定のルールで勝つことだけではない。

相手に、「こいつには敵わない」と思わせてしまえばいいのだ。
そうすれば、直接戦う必要もない。

つまり、"強い"と印象づけることだ。

これは、麻雀のゲームとしての"強さ"というより、"強く見せる上手さ"の競争である。
自分というブランドの価値を、いかに高められるかというマーケティングの戦いである、と言っていいかもしれない。

麻雀を、いかに"強く思われるか"の勝負だと捉えた場合、"強さの証明"こそが目指すべき勝利だ。たとえ目の前の半荘でトップを取れたとしても、「ただ運が良いやつだ」と思われて終わったのなら、その人にとっては"負け"に等しい。

"強い"と認めさせたら"勝ち"、それ以外は"負け"、という考え方だ。

実際、そういう楽しみ方もあるだろう。
どう考えるかは、個人の自由だ。

麻雀とマーケティングは、戦略的思考が役立つという点でよく似ている。
「あの人は本当は"強く"ないのに、"強い"と思われていてズルい」なんて愚痴を言っている暇があったら、"強いと思われるための戦略"を考えて、実行すべきだろう。

というより、こういう愚痴を言っている時点で、あまり強そうには見えない。
というのは、あくまで個人的な感想だ。

愚痴を言いたくなる気持ちは、人としてわからなくもない。とはいえ、多くの人の目に触れる可能性のあるSNS上で特定の誰かを批判したり、コメント欄で叩いたりするのは、良い方法とは言い難い。
ちょっとした飲みの席で、友達と話して盛り上がるくらいに、留めておきたいものだ。

もしくは、聞いている人が良い気分になるよう、伝え方を工夫するというのも手だろう。
大切なのは、ユーモアだ。

○指示コメントのしやすさ

Mリーグを見て、"強さ"について議論したがる人は、紅白歌合戦を見ているときも"歌唱力"について議論したがるのだろうか?

別にしてくれても全く構わないが、僕はその話には、あまり興味が持てない。
あと、名前も知らないレジェンド演歌歌手よりは、センターの子だけでも見たことのあるアイドルグループが出てくれているほうが、なんとなく落ち着く。
けどまあ、正直、誰が出てくれてもいい。

Mリーグのコメント欄は、見ていてあまり良い気分になれない。
他のエンターテイメントに比べて、上から目線の"指示コメ"が、気になってしまうからだ。
おそらくこの違いは、僕が麻雀の"強さ"にこだわりをもっていることが要因なのだろう。

誰もが、「自分は"強い"」と思えてしまうところが、麻雀の魅力でもあると同時に、難しいところでもある。
「あいつは大したことない」と、マウントを取りやすいということだからだ。

とはいえ、将棋の放送対局で、藤井8冠に指示コメをする人よりは、麻雀にコメントしたがる人のほうが、まだ、理解できる。
将棋のことはよく知らないが、そういう人はきっと9冠以上なのだろう。

世の中にはいろんな人がいるものだ。

○得意な方法で、"強さ"をアピールする

あなたの考える、「麻雀の"強い"人」は、「"強く"見せるのが上手い人」でもあるのでは、ないだろうか。

打牌、解説、戦術ブログや動画配信、他者からの評判など、自分の"強さ"を印象づける方法はいろいろある。

ネット麻雀の段位もその一つだ。
「魂天」と言っておけば、雀魂を知っている人には、「なんだか、強そう」と思ってもらいやすいだろう。そもそも、段位戦とは"強さ"を段位として可視化するためのものだ。

"強さ"を示すには、いろいろなやり方がある。その中で、自分の得意なやり方でアピールするのが、"強く見せる"ための良い方法だ。
これは、"強さ"を知ってもらいたいと思う人にとっては、有益な話かもしれない。
麻雀の勉強以外にも、できることはいろいろあるのだ。

手っ取り早く、「大会やリーグ戦で優勝する」のも、もちろん良い。参加者が多いほど、また、注目度が高いほど、勝ったとき"強い"と思ってもらいやすいだろう。

ただ、困ったことに、同じように考える人は世の中に大勢いる。注目度が高いほど、参加者は増える。参加者が多いほど、自分が優勝できる確率は下がる。
仮に、優勝できたとしても、自分の"強さ"を認めてもらえなければ、苦労した甲斐がないというものだ。

残念ながら、僕は短期間の大会で"強さを証明"できるとはあまり思えないし、そもそも、そこまで自分の"強さ"を信じていない。大会での優勝を目指して努力している人たちに、勝ちきれるとは思えない。

やるなら、より長期的に勝ち越せる"戦略"を立てて、のんびり実行する。
その方が、手間はかかるが、運の要素を小さくできる分、ずっと確実だ。"強さの証明"は、20年後くらいに、できていればラッキーくらいに思っておくことにする。

麻雀の大会は基本、"お祭り"のようなものだ。
最強戦より自団体のリーグ戦に勝つことに"価値"を感じる麻雀プロがいるのも、おそらく似た理由だろう。
もちろん、大会に参加するのは楽しいし、"強さの証明"にはならなくとも、自分を認知してもらうチャンスくらいにはなる。そう思えば、参加する意味は十分にある。

麻雀プロや配信者など、認知されたり、応援されたりすることに"価値"を置く人にとっては、より重要になるだろう。参加できるなら、参加しない手はない。
そういう意味では、参加した時点で"勝ち"だ。もちろん、優勝できれば、それが最高だ。勝負事で、勝てるに越したことはない。

とはいえまずは、勝負に参加しなければ、何も得られない。
高みの見物を決め込む人よりは、"負け"のリスクを承知で、戦いに挑める人でありたいものだ。


…なんてことを、四象戦のエントリーをし忘れたことに今更になって気づき、負け惜しみのように書いている時点で、僕の"負け"だけは確実なようだ。
招待のメールを読んで、すぐ返事をしなかったのが失敗だった。

今回の"お祭り"は、遠くから見物して満足することにしよう。

できれば、自分が勝ち取るかもしれなかった枠は、もっと熱意のある人の手に渡ってくれていたらいいな、なんて都合のいいことを思ってみたりする。
誰かのチャンスが増えたのなら、それはそれで嬉しいことだ。

きっとまた、出場する機会はあるだろう。
その時は、目一杯楽しむことにしよう。

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ではまた。

読んでくれて、ありがとう。

2023年12月7日 horiwo128

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