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ジェンダー法学会でのMeTooとバッシングについて

Twitterでずいぶん酷い意見が散見されるので、当日、シンポジウムに登壇していた立場から考えをまとめておく。引用するのは、情報発信源となっている山口弁護士のツイート。
なお、私はジェンダー法学会会員ではなく、書くのは個人としての意見です。

「質問時間を奪われた」 は妥当なのか

2018年12月1日2日に行われたジェンダー法学会。私は2日目のシンポジウム「メディアとジェンダー」に登壇した。質疑応答の時間はかなり長くとられ、質問紙を記入する時間を考慮した2回の休憩を挟むものだったが、 全体的に質問挙手は少なめだった。
MeToo発言があったのは、質疑応答の最後の方。登壇者による総括が16時40(正しくは50)分から予定されており、MeTooが終わったのは16時37(正しくは47)分ぐらいだったと思う。山口弁護士の挙手が見えた時、私は、「この質問を受けると40(正しくは50)分を超えるな」と考えていた。

※ 私の書き違いがありました。10分ずれて書いていました。質疑応答は16時25分~50分(そこから10分間の総括で17時終了)。MeTooは16時43分~47分ぐらいでした。

なぜ、こんなに事細かに書くのか。

山口弁護士のTwitterは、そもそも、自分の「質問時間を奪われた」ことに対する怒りからはじまっているからだ。

これに対して、私は「質問紙を書く時間は十分にあった」と答えている。

なぜなら、このシンポジウムは打ち合わせの時から、質疑に多くの時間をあてることを念頭におき、たくさんの意見交換ができるよう、いつ休憩の時間をとるかなど話し合ってきたからだ。話し合いでは、挙手では多くの発言を扱えないこともあり、質問紙への記入を勧めるアナウンスも何度か入れることも検討し、実際、会場では複数回、促していた。

学会に限らず、質疑応答で挙手した人すべてが発言するのは難しいことだ。自分語りをする人や、前振りが長く本題にたどり着かない人も少なくない。通常、あまりに時間を独占する人や、質疑にふさわしくない内容の場合、司会者による注意や、端的に質問するよう促しが入る。
また、緊張して話の筋道からそれてしまう人もいるが、その場合は、黙って聞いているか、司会者が話を整理する助け舟を出すこともある。
いずれにせよ、発言途中で司会者が遮るというのは、あまりないように思う。私はこれまで司会者による発言の制止は見たことがない。

企画側は、質問紙を書く時間を十分にとり、そのアナウンスもしていた。長めの質問がされて「質問時間を奪われ」ることは、どこでも起こることだ。
だから、山口弁護士がことさら、「質問時間を奪われた」と問題にするのは、それが「不規則発言」、MeTooであったためだと考えられる。

何が「不規則発言」にあたるのか

山口弁護士はMeTooが「不規則発言」だったと繰り返している。また、「演説」という 揶揄するニュアンスが感じられる言葉を好んで使用しているが、私は「演説」でなく、MeTooの内容は性暴力被害の告発と、「学会・アカデミアへの批判的問いかけ」だったと捉えている。

先に書いたように、質疑応答は司会者の判断によって進行や促しが行われる。制止される場合もあるだろう。発言者の暴走があった場合には、会場の参加者から異議申し立てがあったり、発言を止めるよう、司会者へ意見されることもある。
だが、MeTooの間、誰も、一言も、発言を制止するものはなかった。山口弁護士も止めなかった。

MeTooは発言者の挙手と「MeTooします」という言葉から始まった。司会者も、会場の誰も止なかったのは、それが「聞かねばならない」ものと感じられたからだと、私は思っている。

なぜ「聞かねばならない」のか。
性暴力被害の告発にはさまざまな困難がある。裁判の場でさえ、ジェンダー・バイアスがあることが指摘されている。ジェンダー法学会はそのような「司法におけるジェンダー・バイアス」の克服をめざす(学会案内より)学会である。1日目には MeTooのパネルもあった。そのような場所で性暴力告発のMeTooがなされることは不自然ではない。
今も、大学でのセクハラはしょっちゅうメディアに登場している。MeTooでは、加害男性が大学人という立場を追われずに済んでいるアカデミア自体への疑問が呈された。「学問の場で起こっていることに、あなたたちは責任を感じないのか」という問いに耳を傾けることは、学会として当然だろう。
そして、なにより、当事者の声を聞かずに、ジェンダーと「法」の研究が出来るはずもない。

マイクを持っての発言でなかったことを不規則というのなら、他にもマイクなしの発言はあったし、パネリストへの質問という形ではないことを不規則というなら、ほかの不規則発言もあった。はっきりとした司会者の指名も、すべての質問者になされていたわけでなない。そして、それらの質問はいずれも司会に遮られていない。

ちなみに、山口弁護士が強弁されているご自分の質問は、こちらだ。

この内容はシンポジウム報告とは直接、関係していない。もし、この質問をされても私も、もう一人のパネリストもジェンダー法学会員ではないため、答えられなかっただろう。もうお一人のパネリストは会員だが、学会としての声明に会員個人が瞬時に何を話せるだろう。

質疑応答を狭く、報告内容への質問を行うものとすれば、山口弁護士の質問はそれにあてはまらないと思う。
そうではなく、質疑応答では報告内容から若干、離れていても、関連するもなら良いとすれば、山口弁護士の質問は意義があると思う。 
それと同様に、MeTooもアカデミアが看過している性暴力への批判的意見と問いかけであり、ジェンダー法学会に深く関連するものであったと思う。

なぜ山口弁護士の質問は正当で、MeTooが「不規則発言・演説」と責め立てられるのか、私には分からない。

学会でのMeTooの是非と真偽という問題


山口弁護士の主張は、当初、「不規則発言で自分の質問時間を奪われたことが失礼だ」というものであった。そのきっかけを以下のように書いている

あとから考えると甘かったのですが、閉会後に司会者の谷口先生に言えばいいかなと思っていました。
それで、谷口先生から、「分かりました。今後、不規則発言があった場合には注意をしますね。」とか「ご意見は分かりますが、あまり刺激をしてはと思い、言いたいことは言わせてあげたのです。」という常識的な御回答を頂いて終わるかなと思っていました。 曲がりなりにも、「ジェンダー法学会」と冠されている以上、まさか、不規則発言に対する司会の対応について、「ここは、ジェンダー法学会なんです。」と言われ、苦情を述べた私が非常識な行動を取っているかのような非難の意を込めた扱いを受けることは想定していなかったのが、本音です。

お二人のやり取りを直接、見ていないが、ジェンダー法学会でMeTooが行われることを、私は非常識だとは思わないし、司会者の発言も声明も異常ではなく、まっとうだと思う。 繰り返しになるが、性暴力はジェンダー法学会の大きなテーマだからだ。

私はジェンダー法学会におけるMeTooは不規則発言でなかったと考えるが、山口弁護士は「 私が「公の場における非常識な行動」と非難するのも何ら問題はないので、結果的に、傷ついたとしても甘受して頂くしかないと考えています」とまで言い、自分が非常識と感じたのだから発言者が傷ついても仕方ないとする。
そこまでの権限が、どうして山口弁護士にあるのだろう?

「不規則発言で自分の質問時間を奪われたことが失礼だ」で始まった批判は、現在は、山口弁護士の「男性宅に刃物を持って押しかける、手帳持ちだから警察は怖くない」というツイートを発端に、「殺人予告」「殺害予告」が行われた、それを制止しなかったジェンダー法学会は「殺人幇助」だという風に書かれ、MeToo発言者の過去の問題が取り沙汰されている。

まず、包丁云々の件だが、私をはじめ、あの場所にいた人で「そんな発言あった?」という感想の人が少なくない。100名ほどの参加者だったと思うが、参加していた20人ほどに聞いてみたところ、1人を除き、みな同じような感想だった。Twitterでもそのように書いている人を見る。
今のところ、「男性宅に刃物を持って押しかける」という発言があったと書いているのは山口弁護士だけだ。
「そんな発言あった?」という感想に対し、「団体で事実隠蔽している」と見ている人もいるが、そうではない。

小川たまかさんのnoteに、MeToo発言者と思われる方が18日にコメントを書かれている。

私は一昨年その本を読み、解離性遁走を起こしそうになりました。包丁をもってばーっと走っていっちゃいそうになるんです。NCNPの診療申込書にはっきり『自殺、殺人したいです。助けてください』と書いて受診しましたが、お医者さんが全然話を聞いてくれません。

私たちが聞いたのも、このような話だった。
これが「殺害予告」だろうか。

性暴力被害にあって、精神的に不安定になった。自殺願望があったし、包丁を持って走っていけば解決できると思った、という言葉であり、それほど切羽詰まっていた比喩として、包丁という言葉は使われていたように思う。
「思う」と曖昧な言い方しかできないのは、「包丁」というショッキングな言葉なのに、はっきりとした記憶がないからだ。
おそらく、「包丁」はMeTooの枝葉、比喩と受け止めたからこそ、そこに注意がいかなかったのだと思う。
唯一、「包丁」という言葉を覚えていた人も、殺人予告というようなものではなかった、と言っていた。私は、山口弁護士がMeTooのごく一部を切り取って扇動的なツイートしたと考えている。

もう一点、最近になって山口弁護士が批判しているのが、実名をあげてのMeTooだったということだ。

わざわざ 「(一般論デスヨ)」 とつけて、ジェンダー法学会が「都合の悪い#metoo を隠蔽」していると誘導的に書いた後、「共感する前に最初に事実関係を調査してスクリーニングした方が良いと思います」としている。
共感などという、何の足しにもならないものより、調査してMeToo発言をさせた方が被害者のためだという、ありがたい言葉だ。

しかしMeTooとは、性暴力被害が被害として認められにくいという社会的背景の中で、自分に起こったことを語り、それに対する共感によって、エンパワメントが行われるものであり、性暴力加害者を追い詰めることを目的としたものではない。発言者に何が起こったのかを発言者の目線で語ることが重要で、「いつ誰がどのように、どんな状況で」といったことを明らかにして真偽を正すものではないのだ。

MeToo運動の創始者であるタラナ・バークらによるサイト   https://metoomvmt.org/ では、以下のように語られている。

Our work continues to focus on helping those who need it to find entry points for individual healing and galvanizing a broad base of survivors to disrupt the systems that allow for the global proliferation of sexual violence.

(#metooによって議論は急速に拡散したけれど)この運動の焦点は今なお変わりません。必要とする人々がひとりひとり、自らの傷を癒やすため、最初の一歩を踏み出す手助けをすること。そして性暴力が世界中に広がることを許しているシステムを打破できるよう、幅広い層のサバイバーたちを力づけることです。

As the ‘me too’ movement affirms empowerment through empathy and community-based action, the work is survivor-led and specific to the needs of different communities.

「MeToo」運動が支持するのは、共感とコミュニティベースの行動を通したエンパワーメントです。ゆえに、この運動はサバイバー主導のものであり、異なるコミュニティのニーズに応じて様々な形を取ります。

性暴力は、警察でも裁判でも、被害者に落ち度があったような判断や言葉が発せられることが多く、被害者は自分を責めがちだし、社会の目も被害者に冷たい。だからこそ、遠いむかしに起こった時効と言われてしまう出来事や、故人となってしまった人からの加害や、証拠を明らかにできないような出来事、「同意があったのでは?」と思われそうな体験を、独り、飲み込むほかなかった。
MeTooは、被害を独りで飲み込んでいた人に、「あなたは一人じゃない」と寄り添うことから始まるものなのだ。

また、学会は事実関係を突き詰める場ではないし、真偽を問う場でもない。山口弁護士は、MeTooに共感することは、実名をあげられた方を犯人扱いすることと言っているが、誰かSNSで、名前の上がった人を追い込んだり、誹謗中傷するようなことをしただろうか?「魔女狩り」はいつ行われたのだろうか。
発言者がどこかの弁護士に依頼していれば、山口弁護士のような判断がなされたかもしれないが、それは学会の責務ではない。学会が出来ることは、あの場でされた問いを考えることだと思う。
MeTooで話されたのは、アカデミアで起こってもおかしくないようなことであったし、なぜ被害者は苦しんでいるのにセクハラで訴えられた人は大学をクビにならないのか、という問いかけだった。
真偽を正すより、そのような構造があることを問うことこそ、研究課題ではないか。

MeToo発言は、手元の紙か何かを読むような形で行われた。山口弁護士は発言を「叫び声」と表現しているが、私には、声に抑揚はあったが、できるだけ冷静に語ろうと務められていたように聞こえた。
別学会のMeTooでは 、発言は「カミングアウトですね。受け止めたいと思います」 という言葉をもって迎えられたそうだ。
また、ジェンダー法学会のつながりで、発言者を支援する動きもあると聞いてホッとしている。
一方的に糾弾するのではなく、MeTooを受け止め、あげられた声を聞くこと。それぞれのポジションで声に応じることが必要なのだと思う。
ましてや、精神疾患があったとしても、それを理由に発言を遮るなど許されないことだ。

「宗教」という喩えの意味

私の報告タイトルは「メディア表現とネット炎上―異議申し立てと対立」で、メディアにおける女性像をめぐってネット炎上した事例から、炎上の批判点と批判に対する批判(表現に対する擁護)を整理したもので、日本が批准している女性差別撤廃条約と男女共同参画社会基本法(基本計画)から、どのようにこれらの現象を検討すべきか、という発表だった(ちなみに私は、法による表現規制は望ましくないと論じてきたし、当日も何度か繰り返している)。

報告後、何年かぶりに顔を合わした山口弁護士は挨拶もそこそこに、私の報告が「宗教みたいだった」と言ってきた。確か、「どういう意味ですか?」と聞き返したと思うが、山口弁護士はそれにははっきり答えなかった。

私に対してだけでなく、山口弁護士は、ジェンダー法学会を「(新興)宗教」「カルト」と絡めるツイートをしている。それに乗じて、ジェンダー研究や研究者もカルトなどと揶揄される事態が起こっている。カルト裁判を手がける弁護士がこうした言葉を使うにはそれなりの含みがあるだろう。というより、からかい、悪意が込められているはずだ。

からかいは、「他者を『真面目』にとりあげるに値しないものと規定する」(江原由美子, 1981「からかいの政治学」)。
私がシンポジウムで発表したこと以下の言葉は、どうやら山口弁護士には「からかい」の対象でしかなかったようだ。

(ネットで)声をあげた女性への侮蔑は、男性に比べはるかに多い。声をあげた女性への攻撃は、それを見た他の女性が、これから意見をいうことを躊躇させ、女性を分断する。声をあげたことで、Twitterで誹謗中傷を繰り返され、セクハラさえ受ける女性は「思想の自由市場」の参加者といえるのか。討議の自由は保障されているといえるだろうか。

山口弁護士とやりとりをしていた12月4日以降(上から2つ目のツイートの頃)、私の元には誹謗中傷や私の容姿をけなすDM、山口弁護士の私宛のツイートをコピーしたものが大量に送られ、Twitterを見るのにも差し障りが出るほどだった。
シンポジウム会場にいた方で、山口弁護士の意見に批判的なツイートをされている方にも「殺人幇助」などという言葉が寄せられていると聞く。

一体、この騒ぎはなんなのだろう。
「貶められている」ものは何なのか。
MeTooによる告発をした方、複合差別に声をあげた方に、ひどいバッシングが向けられ海外に移住ということも起こっている。フェミニストを自称する女性や、在日コリアン女性への攻撃によってアカウントを抹消した人たちがいる。
いつまでこのようなことを続けるつもりなのか。便乗して騒いでいる人たちにも考えてほしいと思う。

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