世界が終わる(かもしれない)前日に

 普段は小説を書いている。小説にも色々あるけど、僕が書くのはどちらかというと地味な小説で、世界が終わってしまったり、大きな謎が解けたりするような類のものではない。
 去年三十歳になった。子どもが生まれた。昼間は教育系の仕事をしている。子どもと奥さんが寝ると、時々こうして文章を書いたりする。
 どうしてこういう人生になったのかな、と思う。精神的な年齢は、高校生くらいから変わっていないような気がする。めちゃくちゃなスピードで自転車を漕いでいた頃、三十歳まで生きて、ごく真面目な仕事をして、結婚して、子どもが生まれるだなんて、思ってもみなかった。自分の内面は何も変わっていなくても、周りの環境が───それが自分の選択によって生み出されているものだとしても───どんどん変わっていってしまう。高校の教室の机に突っ伏して眠っている夢を見ていると、子どもの頭突きで起こされたりして、本当にどちらが夢なのかわからなくなる。
 日々繰り返し、どうしてこういう人生になったのかな、と思う。決して現在の自分を否定しているとか、過去の選択を悔やんでいるという意味ではなく、ただただ単純に、どうして自分の人生はこういう人生なのかな、と思う。それはどちらかと言うと「どうして僕はこのメニューを選んだのかな」と、料理が来て食べ始めてみてから思うのに近い。自分が食べたいものを選んだはずなのに、何だかこれではなかったような感じ。そして、何を選ぼうが自分はそう感じてしまうことから逃れられないのだと、ちゃんとわかっている感じ。

 物語を書くということはやはり、ある意味では、それがほんの些細な部分だとしても、世界を描くということなのだろうと思う。ありもしないことを、あるように書く。ファンタジーだろうがリアリズムだろうが、あるかもしれない世界を書く。
 小説を書くようになってから日々思うことは、自分が書き出したことと、現実にあることの間に、どれくらいの隔たりがあるのだろうか、ということだ。
 「そこに猫がいる」と書き、自分でそれを読むことと、そこに猫がいることの間には、いったいどれくらいの距離があるのか。
 インディーズの素人作家が何を偉そうにと言われるかもしれないけれど、ありもしないことをあるように書くことを始めた人間としては、それらの間に、距離はあったとしても決定的な隔たりはないだろう、と思わねばならないのだろうと思う。
 そしてやはりそれは、「自分が選ばなかったはずのメニューを選んだ自分、あるいは誰かの話」として、自分の書いたものを、あるいは誰かの書いたものを読むということでもあるのかな、と思う。

 スパイダーマンが崩壊したワールドトレードセンターを眺め、絶望しているイラストを初めて見たのは、いつ頃だったろうか。
 「アメコミってこういうことするんだな」と思ったのを覚えている。本当にあった事件が、ファンタジーの世界に織り込まれている。「本当にある世界にファンタジーが織り込まれている」のではなく、「ファンタジーの世界と、現実の世界が共存している」という方が近い。それまで日本の漫画ではそういうことをしているのを見たことがなかったから、新鮮だった。
 実際にそのコミックを読んだのは、大学受験に失敗して浪人し、暇を持て余していた頃だった。予備校の近くにあったブックオフで、このコミック───THE AMAZING SPIDER-MAN#36」───の邦訳が掲載されているムック本を見つけたときだ。
 このコミックには、ヒーローたちのセリフはほとんどない。誰のものとも明示されることのないモノローグが、言葉のほとんどを占めている。テロリズムを未然に防ぐことができなかったことに対する叱責を、ヒーローたちは言葉で返すことができない。ただ、まだ助けることのできる命を、市民と協働しながら救助しようとする姿が描かれているだけである。

 実際にあったであろう風景に、超越した力を持つスーパーヒーローが写り込んでいるだけで、そこは「ありもしない世界」である。それがかつて本当にあった事件───そこに確かにあったはずのビルがあっという間に崩壊してしまった───で、そこに描かれているストーリーとほぼ同じように、結論やハッピーエンドにたどり着くようなものではないとしても、やはりそれは「ありもしない世界」ということになるのだろう。

 ありもしないのだけど。

 ありもしない世界のことを、自分はどうしてこんなに信じるようになったのだろうと思う。「君はアベンジャーズだ」と戦いの最中で言われて、どうして自分はアベンジャーズだと本気で思えるのかなと思う。「僕はスパイダーマンだろ」と瓦礫に押しつぶされそうになりながら言っているのを見て、どうして本当に自分はスパイダーマンだと思えるのかなと思う。いつから本気で、スーパー・パワーなんて持っていないくせに「大いなる力には、大いなる責任が伴うよな」と思っているのかなと思う。「Skrulls」という言葉を辞書で引いても載っていなくて、なんかすごい汚いスラングなのかなと思いながらも一生懸命読んでいた頃の自分は、こんなにこの世界のことを信じていただろうか。

 ありもしないけどあるかもしれない世界のことを、いい大人にもなってもかなり本気で考えている。ありもしないかもしれないけど、少なくとも今自分はそこにいると実感せざるを得ないこの世界で、僕は本気で心配している。エンドだなんて、ゲームだなんて。そんなの冗談でしょう。
 少し前、たまたま隣り合わせでスパイダー・バースを観たおじさん。クライマックスであなた、祈るような手を前座席の背もたれに載せていましたよね。それを見て、僕も自分が膝の上でそうしていることに気づいたのでした。誰が何と言って馬鹿にしようとも、僕らはあのありもしないけどそこにある世界のことを、もう信じざるを得ないのでしょうね。

 マーヴェルの作品は、当たり前のように何度もやり直され、当たり前のように微妙に、時に大胆なほど同じ軌跡を描かない。それでもそこに描かれているのは間違いなく、怒りを力に換えるブルース・バナーであり、生活と戦いの中で悩むピーター・パーカーであり、何度でも蘇って立ち向かうキャプテン・アメリカなのだ。
 僕が自分の頼んだメニューに違和感を感じている時。それは別の次元の、微妙に異なる自分の存在を感じている時なのかもしれない。マーヴェルの世界解釈に従えば、これからそいつと僕とで大きくストーリーラインが変わってしまって、この世界が何らかの形で崩壊してしまったとしても、多分僕そのものはそれぞれの世界で違わないのだろうと思う。
 ならばやはり僕は、彼らのような心を持たねばならない。たとえ現状のストーリーに満足できなくても、僕は僕でしかないのだから。




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