テキストヘッダ

MONODRAMA 2

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 部屋がある。部屋は「きちんと」散らかっている。誰かが暮らしている痕跡のようなものが、きちんとある。

「ただいま」と僕は言う。敢えて言う。誰もいるはずのない空間に向かって。

 僕はコートを脱ぎ、持って帰ってきた袋の中から食材を取り出してテーブルに並べる。本当に料理を作って食べる。カセットコンロを使って、実際にパスタや野菜炒めを作る。省略などは一切しない。缶のトマトと鯖が実際に熱され、実際に混ぜ合わされていく。
 僕は黙ってそれを食べる。食器のぶつかる音だけが、部屋の中に妙に響いている。

 今日、帰りに映画を観に行ってさ。これがほんとにくだらない映画でさ。芝居も物語もめちゃくちゃなんだ。でもどちらかというと芝居の方がよくない。あれは、芝居というよりただのうそだ。ただ、うそをついているだけ。それじゃあ物語に説得力は生まれない。物語に真実味を持たせるのは、結局のところ芝居なんだ。荒唐無稽だったり矛盾している物語でも、演技でなんとかなってしまうのが虚構の世界なんだ。要は説得力。それは人間の根源的な力なんだ。

 誰に向かって話をしているのだろう、と僕は思う。思いながら話し続ける。

 演技をすればするほど、俺は自分がわからなくなるんだ。こうやって自分の身体を別のものに貸しているうちに、だんだんだんだん自分というものが遠ざかっていってしまう。舞台の上に浮かんでいる自分の魂を、舞台の袖に帰るまでにきちんと捕まえないといけない。それがここ最近、徐々に難しくなってきてる。芝居が終わったあとの俺は色がとても薄いんだ。透けて向こう側が見えちまう。それでも俺は演じ続けるしかないんだ。それしかできないから。空っぽで透明の容れ物なのが、僕の、いい、ところ、なん、だ。

「一旦止めまーす」
 観客席にはヒキタだけが座っている。僕を照らすライトの線上で、埃が舞っていた。その外側の薄暗がりの中から、ヒキタの視線を感じる。
 ヒキタが一番こだわったのは、声の大きさだった。
「観客席に聞こえるか聞こえないかのギリギリくらいのところ」
 僕たちは早々に学生会館の中にある多目的ホールを押さえていた。稽古も本番もそこでやる。会場の大きさと、だいたいの座席数が確定した上で、どれくらいの声の調子で芝居するのがいいのかを話し合いながら何度も何度も稽古した。
「自分の部屋でそんな風に堂々としゃべる人はいないんじゃない?」と、よくヒキタは言った。「とにかく自分の部屋でしゃべる時のことを思い出してほしいの」
「自分の部屋でなんてしゃべらないよ」
「どうして?ワカバヤシくんはウルシバラくんと暮らしてるじゃない」
「上下階に住んでるだけだよ。ウルシバラは最近ほとんどいないし」
「独り言ぐらい言うでしょう?」
「いや、言わないよ」
「言ってそうなんだけどな」
 一人芝居をやるにあたって、動画サイトなどで有名な作品や、ピンのお笑い芸人のネタを観てみたりしたけれど、参考になりそうなものを見つけることはできなかった。何度練習しても、僕はヒキタの思うような芝居を演じることができない。観客席側のヒキタの眉間にはずっと皺が寄っていたし、何より僕自身がどういう風にこの役を演じればいいのかをまだ掴み損ねていた。

「どうすれば良いのかな」
 僕はテーブルに肘をついたまま、顔を両手で覆う。テーブルの上にもその周りにも、くしゃくしゃに丸められた紙が転がっている。僕は誰かに手紙を書いている。
 僕はか細い声で呟く。どうすれば良いんだろう。指の隙間から人形の顔を見ると、赤くて丸いプラスチックの鼻が、まっすぐに僕の方を向いている。ライトの反射で、その赤い鼻に写っている自分の姿が見えた。

「ううーん」と、暗がりの中からヒキタの声が聞こえて、会場全体に明かりが灯る。はあ、と息をついて僕は椅子の背もたれに寄りかかった。
 この-----特に稽古の時の-----芝居が終わって電気が点く瞬間がとても苦手だった。僕は赤い鼻から目を逸らし、目線を泳がせながらワンテンポ遅れて意識を現実に戻す。

「わかってるよ、ヒキタ」
 客席で腕を組みながら僕に何と言おうか考えているヒキタに向かって僕は言った。
「僕もあんまり良くないってわかってる」
 ううん、と、ヒキタは曖昧な返事をした。
「一人だけで芝居を演るのも初めてだし、こんな戯曲も初めてだから、正直まだどういう風に演じていいのかわからない」
 複数の登場人物が出る芝居のときは、相手の台詞や芝居に引っ張られて、自然と次に自分がどう動くべきなのかを思い出すことができた。
 でも一人芝居の場合は、次に何を言うべきなのか、どういう風に心が変遷していくのかということについても、基本的に全て自分で責任を負わなければならない。複数で演じるいつもの芝居よりも、ずっと主人公当人の心情に同化する必要がありそうだった。
「これは、結局全部独り言なの」と、ヒキタは言う。「こうやって限定してしまうと、何だか演技の幅を縮めてしまいそうだけど」
「そうなの?」
「うーん」
「男は、自分が人形に話しかけていることが独り言に過ぎないと自覚しているということ?」
 ヒキタは黙る。

 わかってるよ、ヒキタ。これは僕とウルシバラの話だ、と僕は思う。そんなの隠すまでもなく見え見えなのだから、はっきり言ってしまえばいいのに。

「涙腺おかしなってるわ」とウルシバラはぽろぽろ玉のような涙を流していた。
 最近では、ウルシバラはほとんどアパートにいない。毎日のように一緒にいた時期が長かったから、余計にそう思うのかもしれない。ロケからロケへ。海外にも行っていたらしい。また痩せて薄くなったようにも見える。机の上にはビールとデリバリーのピザが置かれている。ピザは一切れ分だけ欠けて、冷えて小さく縮んでいる。それは蝋細工のようにも見える。
 机の端ギリギリのところに若草色の冊子が載っていて、手垢まみれになったそれは小口がよれたり折れ曲がったりして膨らんでいる。

 俺ずっとやっていけるやろか。わからんなってくる。仕事、めっちゃ楽しい、ような気がしてるけど。キャーキャー言われんのも好きやし。好きな芸能人とかミュージシャンに会えるし。ははは。
 でも一人になったら不安になる。誰かに見られてるような気がする。俺がエネルギー切れになって、電源が落ちるの待ってる奴がいるような気がする。
 ワカバヤシ、こんなん言うたらバカにするかもしれんけど。もう自分が自分じゃないみたいな気がする。めっちゃベタやろ。

 バカにしないよウルシバラ、と僕は言った。そして、「そういうこと、誰でもみんなあるんじゃない」というようなことを、僕は言った気がする。誰でも、みんな、そういうこと、あるよ。「僕にもあるよ」と言ったかもしれない。
「誰もお前のことなんて見てないよ。大丈夫だよ」

 そやんな。自意識過剰やんな。ごめん。

 ウルシバラはそう言いながら止めどなく涙を流し続けた。また、ぽつりと涙腺がおかしなった、と言った。誰かの分まで肩代わりしてるみたいや。

「ちょっとくらい休みもらいなよ」
 群青色のベッドシーツの上に涙が落ちて、そこは丸くて黒いしみになったのが、僕の目に焼き付いている。誰かの悲しみを肩代わりしている。いつか僕もそんな風に思えることがあるのだろうか、と僕は思う。

 舞台に明かりが点く。

 縦のカギ。アメリカ第四十代大統領のラスト・ネーム。ギッパーの愛称で、俳優としても活躍。アルファベット六文字。
 僕がそう呟くと、テーブルの向こうから声が返ってくる。
 ありがとう。アール、イー、エー、ジー、エー、エヌ。
 僕はそう言いながら、紙に文字を書きつけている。ふと鉛筆をかたん、と音を立てて転がし、頬杖をついたままで呟く。
 君がいてくれてよかったよ。一人でいると、どうにもくよくよして困るんだ、最近。
「俺も」
 いやはや。

 ヒキタの「オッケー」という声と共に客電が点く。

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