テキストヘッダ

MONODRAMA 3

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1-1o6BxPWVAHKuEPefhblFT6tQFyFToxt


 殺した父親を山に埋めに行った後のウルシバラの目には、何の表情も浮かんでいない。
 神様の目線が、異常なスピードで山間を抜ける車のヘッドライトを俯瞰で捉えている。

 暗転。

 車が街まで戻って来る頃には、夜は明けている。赤信号で止まった横断歩道を、集団登校の小学生たちの列が渡っていく。黄色い帽子や赤いランドセルが、だんだんぼやけてにじんでいく。

 画面の中で動いているのはウルシバラの涙だけだ。子供たちの声が、窓の外からくぐもった音で聞こえている。
 ウルシバラは青信号になっても動けない。後ろからクラクションを鳴らされても、追い越されても、ウルシバラはそこに停まったままだ。

 その映画を、ウルシバラの部屋で観た。一人で観た。
 ずっと観ないでいたのだけど、たまたまウルシバラの部屋の隅に転がっていたDVDを再生してみたら、その映画が流れた。
 思っていたよりもきちんと物語に入り込めたことを感じて、僕は安心した。
 どんな役を演じようと、ウルシバラはウルシバラなのだと思ってしまうのではないか、と思っていた。それはあまり間違っていなかったけど、よくよく考えたら僕は、かつて何度もウルシバラと一緒に舞台に立っていたのだ。相手がウルシバラだということを理解した上で、僕は芝居を演じていたはずだった。ウルシバラが何か役を演じているだけということが念頭にあっても、それは物語を邪魔する要素にはなり得なかった。
 そうなると、ただウルシバラに対して嫉妬する気持ちがあったことだけが、この映画を観ようとしなかった理由になってしまうのだけど。
 静かな音楽が流れ始め、画面が暗転したのを見て、エンドロールが流れ出す前に僕はプレーヤーをオフにした。

「映画がめっちゃやりにくいのは、舞台と違って、撮る順番とストーリーの流れが一致してないところ」と、ウルシバラは言っていた。

 あれ、最初に最後らへんのシーンから撮ったんやで。しかもキャストやなくて、カメラマンの都合で。海のシーン撮らしたら世界一みたいな人らしくて、確かに映像はめっちゃ綺麗やったけど。でもいきなり何の理由もなく泣かなあかんかってめっちゃやりにくかった。先輩の俳優はみんな当たり前みたいにやってるから、すごいなと思う。
 俺、なんか何にもせんでも勝手に役に入っていけるみたいな言い方されることあるけど、ほんまはいろいろ段取りしてるつもりなんやけどな。だからなんかちょっと心外。これも子ども出来る役やったから、友達の子ども借りてベビーシッターやったしな。まあ、役作りっていうか自己満足って言われたらそれまでやけど。自分が安心するための。

 スクリーンの中のウルシバラは、冒頭もラストも、いつもの無表情なウルシバラとそれほど変わらないように思えた。それぞれのシーンで、ウルシバラは何を思って涙を流したのだろう。確かに海のシーンで、ウルシバラの白い頬を伝っていく涙は、海の青い色を映す美しく透き通った涙だった。この部屋でぐずぐずに泣き崩れ、シーツに黒くて丸い染みを作っていたときのものとは、明らかに違っていた。

 有名人なった友達と元々の関係を築き続けるのはとても難しい。そういう友達がいた人じゃないとわからないだろうけど。
 新しい映画の宣伝のために出たテレビのバラエティ番組で、本当に楽しそうな笑顔で芸人と卓球のようなゲームに興じるウルシバラの顔は、僕が見たことのない満面の笑顔だ。
 ビジネスでやっている。ドライにやっている。それはわかっている。それでもウルシバラの像は何重にも増えて重なっていく。
 僕から言わせれば、そういう風に周りから思われてしまうことに対する覚悟がないのであれば、俳優なんかになろうとするのはやめておいたほうがいい。
 ぽろぽろ涙をこぼしていたウルシバラを思い出しながら、思う。あの涙と、スクリーンの中のウルシバラの流す涙は違うのだろうか。


 この四戸しかない古いアパートには、僕とウルシバラしか住んでいない。一階に僕、二階にウルシバラ。それぞれの部屋の隣室は空白だ。「足音響いたりとか何かと気遣うから、斜めに住んだほうが良いんちゃう?」と僕は言ったが、ウルシバラは「ちゃんと相手がおるときおるってわかったほうが安心できるやん」と言って聞かなかった。
 別にそれまでだって、僕とウルシバラはお互いの部屋を勝手に行き来していた。切らしたコーヒー豆を勝手にもらったり、聴きたいCDを取りに行ったり。
 でも、初めてウルシバラのことを考えるためにウルシバラの部屋に入った時のことを、僕はよく覚えている。

 大学生になってから、僕はいつでも・どこでも寝られるようになっていた。とにかく眠かった。どうして自分がこんなに眠いのかわからなかった。これまでにだって眠気を感じることがあったけれど、こんな風に呪術にかけられるみたいな眠気が、毎日のように僕に覆いかぶさってきた記憶はなかった。
 それは抗いようのない、体にまとわりつくような眠気だった。大学の教室で電車で家で、場所を問わず自分の意思とは全く関係のない眠りに落ちてしまうことがしばしばあった。もう少し本を読みたいとか、借りてきた映画を見ようと思っていても、僕は暗い水の中に沈んでいくように眠りに落ちてしまう。
 そうして自分の意思に反する眠りについてしまうことが、徐々に自分を自分ではないものにしていくような感覚があった。心地よい眠りとは違う。眠いな、と思った時にはもう手遅れで、どんなに頑張ってもそれ以外のことを考えることができなかった。思考が侵食され、暗い色に塗りつぶされていくような感覚があった。
 もう少し自意識過剰だった中学生とか高校生くらいの頃の方が、自分が確かにここにいる感覚があったような気がする。その頃の方もしんどかったような気がするけど、今はとにかく身体と心が乖離していく感じが気持ち悪く感じられた。
 意思とは関係のない眠りから目覚めたあと、次にやってくるのは罪悪感だった。抗いきれなかったのは、自分の意思が弱いからなのだという気がした。
 その罪悪感に抗ううちに、今度は反対に眠れないことが増えてきた。
 しかし、眠気と思考が侵食され塗りつぶされていく感覚は同じままだった。覚醒と昏睡の間で、僕は時々同じ夢を見た。
 目を瞑ると、目の前にあの赤い鼻の人形が座っているのが見える。その夢の中では、僕ではなく人形が僕に向かって話しかけてくる。
「いいか。芝居を演じる人間が、そんなに頭の中を思索でいっぱいにしない方がいい。もっと空っぽでいいんだ。お前は容れ物になるんだ。ただ空っぽで透明な容れ物だ。台詞だけを詰め込んでいくんじゃなくて、その役のあらゆるマテリアルを詰め込んで、ミキサーにかける必要があるんだ。お前みたいに、でかいマテリアルを机の上に並べて、一つ一つ手に取ったりしながら頭を悩ませているだけじゃ、それは芝居の役作りとは言えない」
 顔のない人形は、のっそりとした動きでこちらに近寄ってくる。何かによって同じ呪いにかけられたビーズたちが、その細い粒子を流動させながらやってくる。
「よく見ろ」
 顔のない人形は、東部中央の赤い鼻をもいで、いよいよ全てのパーツを失う。
「もっと同化するんだ。溶かして一つにしろ。そのどろどろを一滴残らず飲み込んで、透明のお前の体に入れろ。スポットライトをいろんな角度から照らせば、それごとにお前はいろんな色に変わるんだ。お前のいいところは、空っぽで透明な容れ物であるところなんだ」

 気がつくと僕はウルシバラの部屋にいる。
 部屋の中は真っ暗で、ウルシバラはそこにいない。どろりとした蒸し暑い夏の空気があるだけだった。僕が扉を開けて中に入ると、生ぬるい部屋の空気が僕の形に歪むのを感じた。
 ウルシバラは一ヶ月弱の間、山形県の山村にロケに行っているということだった。今は田舎町の大学生を演じているらしい。ウルシバラのパソコンでスケジュールを見たら、すぐにわかった。
 薄いレースのカーテン越しに、隣の祖師谷さんの家の明かりがうっすらと見えている。祖師谷さんの家の二階の部屋には裸電球がぶら下がっている。薄いカーテン越しに見ると、家そのものが発光しているように見える。薄くて安っぽいガラス窓の外からは、近くにある国道を走る車の低いうなり声が聞こえている。
 僕の部屋と全く同じ間取りのその部屋は、物は多いがきちんと整理されている。服やレコードや本。本、本、本。壁の一面は全て棚になっていて、そこにぎゅうぎゅうに本が詰め込まれている。くそ忙しいくせにこんな量どうやって読むのだろう、という量の本。
 逆にそれ以外の物はほとんど置いていなくて、ウルシバラがいつも座るところだけがへこんでいるマットレス型のベッドと机、弦の切れたギターがあるだけだった。家を飾りつけたりするような類のものは何もない。
 ウルシバラはここで暮らしている。
 小さな机の上を見やると、小汚ない灰皿の中に握りつぶされたアメリカン・スピリッツの箱があるのが見える。使ったマッチの箱と、数本の吸い殻が捨てられている。灰。煙草の灰。ウルシバラが吸った煙草の灰。ウルシバラが最近煙草を吸い始めたことを、僕はそこで初めて知る。
 レコード・プレイヤーのプラスチック・カバーは、埃まみれになっている。引っ越してきたばかりの頃にウルシバラが買った、念願のレコード・プレイヤーだった。
 感覚を研ぎ澄ませると、微かに煙草の香りがした。この部屋にある何もかもが、持ち主を失くして行き場を探している気がした。収まっていた場所の足元が突然消えて、所在なさげにふわふわと浮かんでいる。
 僕はLPのオートプレイボタンを入れる。ウルシバラがいつも座っているベッドの丸い窪みに座って、目を瞑ってみる。
 針がゆっくりと溝に落とされて、不安定なピアノの音が聴こえてきたあと、男がつぶやくみたいに歌い始めた。知らない歌だった。ハヴィング・ドリームス・アバウト・ユー。と、何度も言っているように聴こえた。
 こんな歌を聴いているからおかしくなるんだ、ウルシバラは。
 レコードはすぐに僕の手によって針を外される。僕はもう一度ベッドに座り直す。
 ウルシバラは、今何を演じているんだろう。と僕は声に出して言ってみる。ウルシバラ、今演ってる役、マジでしんどいんだよ。何考えながらやっていいのかわかんないよ。
 僕は自分が今座っているところにウルシバラが座って、煙草に火をつけるところを想像する。
ウルシバラの残していったアメリカン・スピリッツを吸ってみたら、ちゃんと美味しいような気がした。肺に煙を入れると、ゆっくりと静かに頭まで煙が回っていくのを感じた。それが僕の思考力をほんのわずかに鈍らせるのが気持ち良かった。
灰皿の横には、若草色の台本らしき冊子が置いてある。表紙には「#3」とだけ書かれている。
 その台本は手垢だらけで、ウルシバラの汚い字でたくさんの書き込みがある。台詞に線を引いて、「歩くのと同じスピードで」とか「思ってるより弱々しく」とか「オデュッセイア」とか、ほとんどウルシバラにしかわからない注意書きが施されている。
 それはどこにでもいるような現代の平凡な若者の物語だ。寝坊して大学の授業をサボり、就職活動に辟易し、独善的な理由を呟いて楽な方へ流されているうちに、いつの間にか社会みたいなものときちんと接近している。
 僕からすれば、どこか若者の有り様を一面的に切り取ったくだらない筋書きだった。
 ウルシバラは、どうやってこの物語を理解しようとしていたのだろう。芸能界にいなかったら、自分も同じように歩んでいたはずのこの世界を。
 そして表紙の裏側に「●ライ麦畑」「●変身」「●イノセンス」「●生きてるものはいないのか」と箇条書きされた作品名と思しき文字列たちの一番下に、「●ワカバヤシ」とどうやら自分の名前が連ねられているのを、僕は見てしまう。

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