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祈るということ~工芸的祈りを考える

祈るということは、自分が完全に理解できない、分からない領域があるということを受け入れるということである。

これは中川木工芸の中川さんと話をしていた時に出てきた言葉です。以前の記事に書きましたが、朝日焼では窯焚きの前に皆で集まり祈ります。

何に祈っているのか?

と問われると、はっきりとした答えは持ち合わせていません。手を合わせて祈ります。窯には火の神様が宿る。そう思いますし、きっと火の神様に祈っているのだと思いますが、窯そのものと言うか、何か大きな存在を漠然とイメージしながら祈っている気がします。
宗教的な祈りと、われわれの祈りがどれくらい異なるのかは分かりませんが、おそらくキリスト教などで行われる祈りとは少し趣が違うように感じます。

なぜ祈るのか?

そこで冒頭の、「祈るということは自分が完全に理解できない、分からない領域があるということを受け入れるということである。」という言葉が出ました。
その後に続いた私の言葉は、「全てがコントロール可能であるという風に考えることは、器を作り、窯を焚くということについて非常に傲慢な態度に感じてしまう」ということでした。自分で言葉にしてみて、あらためて自覚したように感じましたが、正直な気持ちです。
というのも、登窯の窯焚きは、非常に多くの条件が複雑にかみ合わさって、器の焼き上がりの善し悪しが決まります。気温、湿度、薪の状態、本数、入れるタイミング、入れる人の癖、窯本体の状態、窯の詰め具合等々、、、
少しでも窯焚きを理解し、成功するやり方を見つけようと、温度計を用い、ノートに薪をいつ、何本入れたのかを毎回記録します。当然、失敗したときは、何が悪かったのか。成功したときは何が良かったのか。その原因を考えて次に挑みます。
そうこうしているうちに、たまたま続けて窯をうまく焚けて、これでコツが掴めた!
と思っていると、何か条件が変わって今まで良いと思っていた焚き方で失敗をする。という経験を味わいます。
自分が理解しているのは、窯を焚くということの一部分でしかない。
そう常に思いながら、窯を焚かないと、足下をすくわれるのです。

祈りのいらない工業的なもの
一方、工業的なもの。つまり安定した製品を世の中に大量に供給するためには、その不安定な状況を容認することはできません。ですから、多くの場合、コントロール可能な条件に環境を限定できるような方法で生産されます。そこには祈りは必要ありませんし、むしろ祈らざるを得ない状況は工業的には排除されるべきです。

コントロール可能な条件に限定されてた状況下ですべてのことが起こる場合には、良いのですが、工芸の原料の多くは、素材としては不安定なものです。シンプルな元素記号であらわせるような人工物ではなく、自然界に存在するもののほとんどがそうであるように、不純物を多く含んだ複雑な組成のものであり、また木の形を見れば分かりますが、形も大きさも不揃いな物を用いて作ることになります。そういったものを用いて作る場合、予期せぬことが起きることを受け入れて、作っていかなくてはいけません。

それが、朝日焼の場合、祈るという行為になっているように思います。

自分たちの身の回りが工業的なものに溢れている現在、少しその祈るということが生活から離れ過ぎているような気が致します。
自分たちが生きている世界は、実験室や工場のように、限定的な環境ではありません。常にコントロール不可能な領域、自分たちが完全には理解できない領域が存在するということを認識しながら、自分たちがコントロールできる領域においてベストを尽くして行くべきなのではないでしょうか。

まさにコントロールできないウィルスによって多くの悲劇が起きている今、そんなことを感じました。
全世界の平和と安穏を祈って。
出来るだけ家と工房に篭りたいと思います。

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