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いつもそばに

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ほしちかの掌編すべてを集めたマガジンです。
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記事一覧

【掌編】苦い珈琲

【掌編】苦い珈琲

仕事がある日の朝は、出来る限り早起きする。なぜなら時間ぎりぎりにベッドから飛び出してしまっては、珈琲をじっくり淹れられないからだ。築四十年の古い団地の、銀のシンクにところどころ錆びの染みができた狭いキッチンスペースに立つと、頭の上の開き戸を開けて道具一式を取り出す。

ドリッパーに、ペーパーフィルター、サーバーに、口の細いドリップ用ポット、メジャースプーン。そして、愛用のマグカップ。

ポットに水

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ふたつの月の焼きっぱなしケーキ

ふたつの月の焼きっぱなしケーキ

甘いものよりしょっぱいもののほうが好きだった。子どものころ、いちごのショートケーキが苦手で食べられなかった。そんな私も、年とともに気づけば食べものの甘さを楽しめる大人になっている。

料理をするようになっても、スイーツのレシピにはあまり手が伸びず、総菜やごはんもののレシピばかり試していた。やればやるほど、料理は楽しくなって、いつしか日々のルーティンに欠かせない私の大切な作業になっている。

お菓子

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【掌編】夏らしくない

【掌編】夏らしくない

ホームからの階段を下りて改札を通ると、夜がとっぷりと帳を下ろしていた。空を見上げると楕円の月が光っている。ことしの夏も名残りだ。今日はコンタクトでなく眼鏡のせいか、月のかたちがうすぼやけている。髪を結いあげているため、お盆を過ぎて涼しくなった夜風があらわになったうなじを冷やしていく。アパートまでの帰り路、ひとつ先の外灯がちかり、ちかりと明滅を繰り返している。

住宅街を小走りに抜け、犬の吠え声と救

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【掌編】薄暮に思いはつのり

【掌編】薄暮に思いはつのり

冬の夕暮れ、冷え込む台所に二十分だけ、と思いながら立って、一人分の夕食をつくっている。小さな土鍋に水を張り、昆布をひときれ放り込んで煮立たせると、絹豆腐を半分に切ってほうりこむ。ひややっこをあっためたの、というかもうこれは湯豆腐だ。

グリルではじゅうじゅうと鮭が焼けていて、ちぢみほうれん草もさっとゆがく。冬場だけの、この甘い菜は、特別なごちそうだ。炊飯器がピーッと鳴って、飯が炊けたことを知らせて

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【児童文学】雷の好きな女の子

【児童文学】雷の好きな女の子

※お友達からのリクエスト「雷の好きな女の子(小4)」というものに応えて書きました。

冬が近くなると、有紗の住む福井では、空がごろごろと鳴り、稲妻の光が走ります。

「きた、きた、きたーーーーー」

その音を聞くと、十歳の有紗はいてもたってもいられなくて、窓のカーテンをしゃっと開けて、光る空を眺めるのでした。有紗は、雷が大好きなのです。さすがに、外に出たら危ないというのは知っているので、家のなかか

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忘れられない 「#旅する日本語 喉鼓」

忘れられない 「#旅する日本語 喉鼓」

富山県は、なんといってもお寿司がおいしい。氷見港から水揚げされる新鮮な魚介が、お寿司屋さんにもすぐに並ぶ。独身時代、会社の転勤で富山に住んでいた際に行ったとあるお寿司屋さんの美味しさが忘れられず、小旅行もかねて、僕は妻を連れて富山市を再訪し、懐かしいのれんをくぐった。

二階の小あがり席に通され、わくわくしながら待つ。ほかにも、高校生くらいの息子さんと娘さんと一緒のご夫婦らしき人たちもいて、さかん

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あのふたりのように「#旅する日本語 睦ぶ」

あのふたりのように「#旅する日本語 睦ぶ」

福井県小浜市にある小浜公園から高成寺へと続く石畳の道には、濡れたイチョウの葉と割れたぎんなんが散らばって、霜月の訪れを感じさせた。見上げるほど大きいイチョウの木は、しっとりと雨天のさなかに立ちそびえている。

夫と二人、先日から北陸三十三ヵ所観音霊場巡りをしている。高成寺は四番のお寺だ。参拝し、御朱印をいただいて次の寺へ。御朱印帖からあたらしい墨の香がほんのりとたつ。

苔むした石段を、転ばないよ

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【掌編】線香花火

【掌編】線香花火

オレンジのまるい小さな火の玉が夜闇に震えたかと思うと、光のしぶきとなってぱちぱちと散った。少しでも火花がはじける時間を長引かせようと思うほど、線香花火を持つ手元が震えがちになる。朱色の閃光がまたたく瞬間を目の裏に焼き付けようと思ったとたん、ぽとりと火は濡れたアスファルトに落ちて消えた。

雨上がりの地面に、夏草の青い香りが立っている。道路のすぐそばの小学校のフェンスにもたれかかりながら私が線香花火

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【掌編】恋

【掌編】恋

水底にゆっくりと沈んでいくような恋をしている。浮上しようとしているのに、懸命にもがくのに、水の中から出ることができない。息が苦しい。酸素が足りない。溺れていく。

あなたと出会ってから、私は口紅の色を変えた。少しでも大人に見られたかったから。それくらい六歳という年の差はおおきく思えたのだ。白いシャツと黒いチノパンというそっけない格好が、余計にあなたの存在感をひきたてることに、本当は最初から気づい

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【短編】うさぎりんご

【短編】うさぎりんご

私には夢がある。小さい頃からお医者さんになりたくて、懸命に勉強してきた。医学部を受験したが、現役だった去年は不合格で涙を飲み、いまは浪人生として「今年こそ」と予備校に通っている。

もう十二月になってしまい、大学受験のハイシーズンが刻々と迫っているのを肌身で感じながら、自室で予備校に行く前の朝勉強と思って必死にシャープペンを走らせていると、いつものようにドア外から母の声がした。

「ちせ、いつもの

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【掌編】緑に雨

【掌編】緑に雨

霧雨が、すっぽりと白く街を包み込んでいる。かそけき雨音が耳にしのびこんできて、からだの奥底まできれいにぬぐわれてゆく気がした。濡れる新緑は、ひさかたの恵みに息を吹き返したようだ。

雨というのは、降り始めは鬱陶しく感じるが、いつしかその響きがからだに馴染む。梅雨という風情を、いつしか愉しんでいる自分がいる。降り込められた日は物憂いけれど、そのぶんさくさくと読みかけの本が進んだりするのは一興だ。

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【掌編】花火

【掌編】花火

夏はやっぱり花火が欠かせず、ぱっと大輪に咲くあの一瞬のきらめきほど心を浮き立たせるものはない。今年は、大きな橋の上から、幼馴染の子と二人、浴衣姿で見物した。

花火の前に、橋のたもとで待ち合わせると、彼女は柑子色の地に赤い金魚をぬいた柄の浴衣を着て、帯は小豆色といったいでたちであった。私の側はというと、浅紫の地に薄紅と紺の朝顔が大きく描かれた浴衣に芥子色の帯で出向いた。提げている巾着は、実は昔一緒

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【掌編】棘

【掌編】棘

ふたりのおわかれに、あなたは最後に薄紅色の薔薇の花束をくれた。もうさようならなのに花束なんておかしいんじゃないの、と思ったけれど、あなたらしいと思ってそのままおとなしくもらっておいた。駅のホームで軽いハグをして、あなたとはもうそれきりになる。

それから一週間が経ち、テーブルに飾った薔薇の花びらが、端からくすんだ色に枯れてきた。花は枯れる。恋が枯れるのと同じで。この花を捨てたら、あなたにつながるも

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【掌編】ピザ・パーティ

【掌編】ピザ・パーティ

ねえねえ、今夜はピザとろうよ! ユッコが目をきらきらさせて言う。大学の春休みの真っ最中、私とリサはユッコのアパートで映画鑑賞会。二人とも、お泊りセットを持ってきていて、今夜はオールナイトで映画を観ておしゃべりしようって決めていた。

いいね! とリサがスマホからピザ店へ予約する。あたしこのチーズピザがいい、いやまて、ペパロニ&ソーセージも捨てがたいよね、定番のマルゲリータが私は好きだな。わいわいき

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