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【小説】最後の予約【#美しい髪コンテスト】

四年もお世話になっていた美容師さんのいる町から、私は引っ越すことになってしまった。夫が転勤となり、夫婦でいまいる県から隣の県に住まいを移すことになったのだ。バタバタと、引っ越し準備に追われる中で、そういえば、美容院も新しく探さないといけないのか、と思うと、とても悲しくなった。それくらい、私の担当美容師、藤倉さんのいる美容室「ヘアサロンひよどり」での時間は、私にとって思い入れのあるものだったのだ。

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藤倉さんが初めて私の髪を切ってくれたのは、四年前の春、桜の枝から若葉が伸びてくるころだった。私はその頃、美容室ジプシーをしていて、二ヵ月ごとに新しい美容室を試してみていた。伸びてくるたびに、ボブに整えなおしていたのだけれど、なかなか、これ、と思うようなボブに仕上げてくれる美容室はなかった。

ある日ふと、職場の近くを休日散策していたとき、ふっと藤倉さんのいる美容室「ヘアサロンひよどり」の前を通りがかって足を止めた。ざっくりと塗られた白い壁に、木目のドア。窓辺にグリーンが置いてあり、足元のブラックボードにチョークで描かれた、メニューの文字が丸っこく可愛らしかった。

行ってみよう、と決めてから、実際に予約をとるまですぐだった。五月の日曜日に初めて訪れたのだが、店内に一歩足を踏み入れると、そのこぢんまりした美容室の空間には、どこか人を落ち着かせる風通しのいい気持ちよさが、満ちていた。

お客様カードを登録し、早速カウンセリングに入った。美容室には、店長の藤倉さんのほかに、男性美容師1名、女性美容師1名、アシスタントの女の子が1名いたが、カウンセリングの結果、店長の藤倉さんが「僕でいいですか?」と担当になることになった。

私は、藤倉さんが、柔らかい物腰ながらも、低くて良い声をしていたので、少し緊張した。大きな黒ぶち眼鏡をかけ、耳の下まで隠れる髪はゆるく波打ち、無精髭をたくわえている藤倉さんの容姿は、まるで渋い俳優のようで、大き目の白シャツと細身のパンツが大変似合っていた。

シャンプーが終わり、髪にはさみを入れられてすぐ「あ、この人上手いな」と思った。慎重に切っているのだが、迷いがない。のんびりとした気分でリラックスしていると、藤倉さんが話題を振って来た。「お住まいはこのへんなんですか?」「ええ、歩いてこれる距離で」「お一人暮らしですか?」「いまは一人ですけれど、来年結婚するんです」

私の結婚話に、藤倉さんは目を細める。「僕も、五年前結婚して、二歳の息子がいて、いまやんちゃざかりです」「それは、いいですね」

気が付くと、鏡の中に、いままでにないくらい良く仕上がったボブ姿の女性がいた。――私だった。それから、私は、二ヵ月にいっぺん「ヘアサロンひよどり」に通う常連客となった。

藤倉さんの手つきはいつも丁寧で、お子さんの話をするとき、くしゃっと笑うその顔が、とても柔らかくて、そのどちらにも好感が持てた。私のほうも、心おきなく、結婚する彼ののろけや愚痴を、藤倉さんに言うことができた。

美容師と客、というのは不思議な関係で、隔月ごとに会い、髪を切っている時間をともにすることによって、家族や友人のような温かい関係が築けていく。

私は、シャンプーを担当してくれるアシスタントの女の子、真中さんとも仲良くなった。真中さんはまだ十九歳。三か月前にこの美容室に来たばかりで、まだヘアカラーの薬剤で手や腕が荒れると言っていた。とてもがんばりやさんの女の子だ。

シャンプー技術も、真中さんが来たばかりの頃は、洗髪中に私の髪が彼女の指にからまったりして、あまり上手くなかったが、通ううちにめきめきと上達してきた。彼女の成長を、この四年の間に見届けられたのも、楽しかった。

一番の思い出は、藤倉さんと真中さんが、私の結婚式のヘアメイクをしに式場まで出張してくれたことだった。私と夫の結婚式は、神社で行う神前式で、私は白無垢に洋髪というプランを、ウェディングプランナーのスタッフと立てた。

その際に、いつも利用している美容室の担当美容師さんにお願いしたい、と藤倉さんに依頼したら、通った。神社近くの、披露宴会場の中の控室の一角で、藤倉さんが、私の髪を、きれいにまとめ、白い胡蝶蘭の髪飾りで彩ってくれた。唇に紅をさし、おしろいをはたき、ふだんはしないつけまつげもしてみた。

まだ春浅い、寒さが残る神社の式での白無垢姿は、いまでも私のいっとうの記念写真として、引っ越し荷物に収まっている。

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電話越しに、引っ越しするのでもう来られなくなります、と言うと、藤倉さんは、いつもの優しい口調で、またこの街に立ち寄ったときには、どうぞおお気軽にいらしてくださいね、と言ってくれた。私はそのまま「ヘアサロンひよどり」の、最後の予約をとる。

予約日は、薄雲がたなびく、少し寒い3月末の朝一番の時刻だった。いままで本当にありがとう、私の髪を切ってくれて、本当にこの四年楽しかったです。涙をこぼさずに、笑って伝えられることを祈りながら、私は「ヘアサロンひよどり」へ続く歩道を、ゆるやかな足取りで歩いて行く。


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