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【小説】暗がりに泳ぐ

同僚である堀内さんのアパートを訪ねるのは、初めてのことだった。老舗の和菓子メーカーの商品企画部に今年の春から配属された私は、三歳上の堀内さんに何かと仕事を教えてもらうことが多くて、彼のことをとても頼りにしていた。

一緒に働いて三カ月。堀内さんの穏やかで聡明な人となりを知っていくうちに、私の心は自然と彼に惹かれ始めていた。

先週の会議のあと、実家の栃木県から段ボールいっぱいの野菜が届き過ぎて困ってる、と堀内さんが眉を寄せた。

私はすかさず「私、いくらでももらいますよ。自炊するんで」と笑い返した。そしたら「じゃあ、いろいろ種類もあるから、うちで野菜選んで行って」という運びになったのだった。

野菜をもらいに来ただけとはいえ、気になる人の自宅訪問は、正直胸が高鳴った。

「小坂さん、わざわざ出向いてもらってどうもね」

ドアが開いて、堀内さんが顔を出した。黒い縁の眼鏡の奥の目じりに、皺が寄って親しみやすい雰囲気を醸し出している。しわのないチェックのシャツが好ましかった。私は「お邪魔します」と玄関から入って、目をみはった。どこもかしこも、片付いている。

床にはチリひとつないし、そう広いアパートでもないはずなのにモノが少ないせいで、すっきりして見えた。私は私のモノであふれたアパートを思い、ちょっぴり恥じ入った。

四畳もない小さなキッチンに、大きな段ボール箱があり、ふぞろいな形のピーマンやトマト、なすにオクラと、夏野菜が山盛り入っていた。

「小坂さん、ここにビニール袋あるから、今日は詰め放題。パンパンになるまで、詰めちゃっていいから。――あ、うちでも、和菓子の詰め放題のイベントやりたいよね」

私は「いいですね!」と言いながら遠慮せずにどんどん野菜を詰めた。ひととおり詰め終わると、堀内さんが冷えた麦茶を出してくれた。椅子に座り、テーブルで差し向かいになって飲んでいると、だいぶ堀内さんと心の距離を縮められたように思えて嬉しくなった。


自分のアパートに帰宅すると、スマホが鳴った。同じ関東圏に暮らす母からの着信だった。だいたい何を言われるかが予想できて、うんざりしながら電話に出た。

「ちひろ、お母さんね、こないだあなたの同級生のマリちゃんのママとお茶したの。マリちゃんは、もう二人も子どもがいるんだって。やっぱり、早く結婚するとそうなれちゃうのね。あなたと同じ二十八歳でしょう? しっかりしてるわねえ」

私は肩を落としながら母の話が終わるのをじっと待つ。母は暗に『見合いでもなんでもしてさっさと私に孫の顔を見せろ』と言いたいだけなのだ。私には私の物事を進めるペースがあることを、てんで理解していない。母と私は違う人間であることが、この人にはまったく理解できていないのだった。

電話が終わったあと、焦らずに関係を進めたいと思っていたはずの堀内さんとの進展を、少々急く気持ちが私にも生まれてしまった。大事に育てたい関係であることをしばし忘れて、私は早く土日が終わって、また堀内さんの顔を見たいと思った。


それから二週間が経った朝のこと。出勤した私は堀内さんの姿を探したが、見当たらなかった。めったに休まない人が、珍しすぎる。私は気になり、企画課課長にそれとなく聞いた。

「ああ、堀内くんは親御さんが急に亡くなったみたいでね、忌引きをとると連絡があった。おそらく栃木に帰っているんじゃないかな」

そうだったのか。農家をされているという堀内さんのご両親のどちらが亡くなられたのだろう。いま、彼はつらい思いをしているだろうか。いろいろなことが脳裏に浮かんだが、私はそっとしておこうと思った。

忌引きの休みのあと、堀内さんは出勤してきたが、明らかに元気を失っているように見えた。顔色がなんだか黒っぽいし、頬はげっそりしているし、目の下に隈さえできている。私も、近しい人を喪えばこうなってしまうのだろうか。そう思いながら、たまっていた仕事を片付けている堀内さんに声をかけた。

「あの、ちゃんと食べられたり、眠れたりしていますか? あまりにやつれてるので、大丈夫か私も心配で」

堀内さんは焦点の合っていない目でこちらを見てから、はっとしたように苦笑いを浮かべた。

「ごめん、この一週間小坂さんにまかせっきりで。田舎の葬式は盛大すぎて疲れたよ。でも大丈夫、フルスピードで取り返すから」

そんなことを言ってるんじゃない。そう思ってなお心配になったが、これ以上口には出せなかった。私は別に、彼の身内ではないのだ。気がかりに思いながらも、自席に戻り、パソコンに向かった。たしかにこの一週間、堀内さんがいなかったせいで仕事は山積みになっている。私もがんばって、ペースを上げよう。そう思って肩をもんだ。


仕事の山が、堀内さんと私と課長のがんばりでようやく目途がついてきたその矢先、堀内さんが無断欠勤した。課長と「彼はだいぶ疲れていたね」「はい、心配です」という話をしたあと、課長が頼み込んできた。

「小坂さん、ちょっと堀内くんの様子を見に行くことはできるかね? 本当は私が行けばいいのだが、会議が夜まで詰まっていて、難しい。さっきから携帯にかけても一向に出ないし、もし部屋で倒れていたりしたら――」

課長の懸念を、私も気にしていた。

「以前野菜をもらいにいったことがあるのでご自宅はわかっています。行ってみます」と言って、特別に「仕事の一環」という名目で堀内さんのアパートに行くことが許された。

私は車のハンドルを握る手が、自然とこきざみに震えるのを感じた。何事もないといい。無事でいてほしい。

堀内さんのアパートでチャイムを鳴らしたが誰も出てこなかったので、さらに不安が増した。思わず、ドアノブに手をかけると、なんと鍵がかかっておらず、ドアは外側に開いた。悪いと思いはしたが、いまはもしかしたら一刻を争う事態かもしれない。叱られたら、あとで謝ればいい。そう思って玄関から上がり込んだ。

部屋は荒れ果てていた。先日見た、きちんと整理整頓された状態が嘘のようで、あちこちに菓子パンの袋やカップ麺を食べたあとの残骸が台所シンクにもテーブルにも置かれ、服は脱ぎ散らかされて洗った様子も干した様子もなく、すさんだ雰囲気があった。そして、堀内さんはトイレにも風呂場にも、キッチンにもダイニングリビングにもいなかった。

嫌な予感がして、おそるおそるベランダに出て、ベランダ下に人が倒れていないかさえ確認した。堀内さんは、いったいどこに行ってしまったのだろう。

焦りまくり、不安で押しつぶされそうになっている私の目に、ふと、ダイニング奥についているひとつの扉が飛び込んできた。

こんな扉があったこと、前来た時は気づかなかった。

そうっと扉を押してみると、そこには廊下が続いていて、その奥にまたドアがあった。そこで私はようやく、このアパ―トがちょっと変わった造りをしていることに気が付いた。この部屋には、離れがついていたのだ。私は、あの離れ部屋に堀内さんがいることを直感した。

息を止めて、ノックに返答がないのを確認したあと、ドアノブを回した。少しきしみながらドアは開き、そこに現れた光景に私は息を呑んだ。

薄暗い部屋をぐるりと取り囲むように、たくさんの水槽が置かれ、水槽の中ではさまざまな熱帯魚が優雅に泳いでいた。そして部屋の中心で体育座りをしてぼうっとしている堀内さんがいた。彼は人の気配に気づいたのかのろのろと振り向き「小坂さん?」と聞いた。真っ黒な瞳には私さえ映っていないような声で。

「堀内さん。携帯も出ないし、チャイムを押しても反応ないし、心配すぎて見に来ました。今日、仕事に来られなかったので、どうしたのかと」

堀内さんは「ごめん、どうしても今日は行く気になれなかったんだ」とつぶやいた。堀内さんの口まわりにもあごにも、無精ひげが散らばっていて、そして何日もお風呂に入っていない人特有の汗くさい匂いが少しした。私のなかでの堀内さんのイメージが、大きく崩れていく。身近な人を亡くされたばかりとはいえ、ここまでとは。

「この部屋は僕の――ゲームでいえば回復ポイントみたいなもので。オアシスっていうのか、聖域っていうのか。ここに長時間こもっていないと、元気になれないときがあって」

「堀内さん、ゲームもするんですね」

「かなりのゲーマーだよ、僕」

また、イメージは裏切られた。私は堀内さんの隣に腰を下ろし、正面の水槽に目をやった。水のなかで、魚体の上半分が明るい蛍光の青色、下半分が赤色をした小さな熱帯魚が群れをつくって泳いでいる。

「この魚は」

「ネオンテトラ。いろいろ飼っているけど、こいつらが一番好きなんだ。熱帯魚は狂暴な種も多いんだけど、ネオンテトラはすごく温厚な性格で。そう、まるで小坂さんみたいに」

「私みたいに?」

私は面食らった。温厚、温厚。考えてから私は告げた。

「私、別に温厚じゃありません。堀内さんは、親御さんが亡くなられてすごく落ち込んでらっしゃるけど、私は私の親が死んでも、そう思えることなんてなさそうですし」

「でも、僕にはいつも優しいじゃない?」

それは、と思わず口ごもる。それは私が堀内さんのうわべだけ見て惹かれていたからで、正直散らかりまくった部屋に住む堀内さんにも、ちょっとくさくて髭すら剃っていない堀内さんにも、どうやらゲーマーらしき堀内さんにも、これまで通り関心を持てるかわかりません。そう心のなかで一瞬にして結論づけたが、口には出さなかった。

だけど「ああ、堀内さんも私と一緒でどこにでもいる人間なんだ」と腹の底から理解できた。返事は誤魔化して、カーテンのぴっちりと閉じられた暗い部屋で、きらきらと水中で踊る熱帯魚たちを見ながら私も膝を折り座った。堀内さんのたしかな気配を隣に感じながら見るネオンテトラの群れは、ゆうゆうと狭いガラスの箱の中で光り続けている。

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