【短編】夢を見たあとに
線を2Bの鉛筆でぐっと引く。目の前の花瓶に生けてある花の形を、葉の形を、線を使ってかたちどっていく。でも、まだ少ししか描いていないのに気に入らない。思い通りに、絵が描けない。
私は深く長いため息をついた。大きく期待されるのが、期待されないよりもずっと怖いだなんて、知らなかった。
結婚したとき、夫は言った。
「ずっと絵本を描きたかったんでしょう。今は転勤してこの町に引っ越してきたばかりだし、しばらく家にいながら、絵本描いたらいいんじゃない。そのうちに売れたら、今度は経済的に俺が助けてもらうから」
そう笑った夫を、神様みたいなひとだ、と思った。そうして、くる日も、くる日も、私は鉛筆でデッサンし、絵筆で色をつけ、一枚の絵に仕上げていく。その繰り返し。
夫の転勤前は、曲りなりにもバイトをしていて、日々の隙間時間を縫いながら創作していた。疲れてくたくたになっても、絵を描きたい気持ちがしぼりかすのように残っていて、いつも不完全燃焼の気持ちだった。家事に回す手間をついつい削ったので、そのたび汚れた部屋を見た夫は、寂しそうな顔をした。
一日家にいて、創作に専念できるという環境は、本当にありがたいのだ。なのに、私は、コンスタントに創作ペースを保つことができない。
描ける日もあれば、描けない日もあって、描けない日が続くと、ひどく何かに追われているように焦って来る。
――こんなに生産性のない暮らしをしてて、どうするの?
――このぼーっと過ごしてしまった一時間、外でバイトしてたら、いくらになる?
――絵が描けない上に、部屋もまともに片付いてない。主婦としても失格じゃないの?
そんなとき、頭をぐるぐるよぎるのは、兼業主婦でばりばり働いていた母親の声にならない声だった。母親は、絵を描くことに賛成ではなかった。だから、夫のマンションで一緒に暮らすようになって、自由に絵を描いていいと言われたときは、神様か何かに、大袈裟でなく赦される思いがした。
夫は優しい。夢を応援してくれる。でも――期待されながら創作するのも、また怖いものだと、私は思い知ってしまった。
――この夢が叶わなかったとき、夫に見放されたらどうしよう。
――せっかく応援してくれてるのに、一円にもならなかったらどうしよう。
――そもそも私は、なんで金にならないこんなことを一生懸命になってしているのだろう。
頭の中のぐるぐるは止まらずに、今日も日が暮れていく。重たい自分の陰を引きずって、私は夕食の準備をするために、台所に立つ。
一度頭が創作モードになってしまうと、目に見えない感性を使う分、ぼーっとしてしまって、家事もてきぱきとはかどらない。ほんと、こんな自分ゴミに等しいな、と思ってしまう。
二人分のオムライスを残りご飯でつくり、簡単にサラダとスープも用意する。何もしてないくせに疲れてしまって、寝室へと向かう。
ベッドサイドの本棚から、ずっと大切にしていた大好きな作家さんの絵本を取りだす。むちゃくちゃ元気印の女の子が出てくるいっとう大切な絵本。
本当はわかっている。私がほしいのは、名声でもお金でも肩書きでもなくって、この絵本に出てくる女の子みたいに、むちゃくちゃな自由を、生きる喜びを、絵という形で爆発させることなのだ。それだけだ。本当に、それだけなのに。
ぽたん、と、絵本の上に、涙が落ちた。ちょうど女の子の顔にかさなって、その子が泣いてるようにも見えた。
玄関のドアが開く音がして、夫が帰って来た。寝室のドアを開けて、うずくまっている私を見て、驚いたように声を上げる。
「どうしたの」
「……働きに、行こうかと思う。家にお金、入れなきゃ」
夫はため息をつくと、言った。
「なんで君はそうぶれぶれなの。自分に自信がないの。この間も話し合って、しばらく創作に専念するって二人で決めたことじゃない。仕事を探してもいいけど、焦ることないんだから。子供ができるまでの、しばらくの時間を、自由に使ってもいいんだよ?」
ものづくりというのは、答えがない。そして、才能がものをいう世界だ。その厳しさに、私は家で必死でとりくんで三か月で、もう壁にぶち当たって、音を上げそうになっている。
『絵本作家になりたい!』
自分がまだ絵を描くことに憧れているだけだったときは、無邪気にその夢が口にできた。でも、前に進めば進むほど、自分の目指していたものが、どんなに高いところにあったか、わかってきて、おいそれと人前では夢を語れなくなった。
誰も私のことを知らない町で、夫だけが知っている、私の夢。
夢に反対する母には絵を描くことに期待してほしかった。夢に賛成する夫には絵を描くことに期待してほしくない。なんてわがままで身勝手な、私の自我。
「絵、描きなよ」
夫が静かな声で言う。
「やりたいことがあるなら、やりきったほうがいいよ。そのために貧乏になっても、俺はかまわないから。やりたいことを、やりたいように、やりなよ」
夫が私に賭けてくれてる気持ちに、私は応えられるだろうか。また、外の闇が一段と濃くなった。冷めてしまったオムライスを、あたためなおさなきゃ。そう思ってはいても、私はなかなか、立ち上がることができなかった。
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