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【小説】春をいただく

三月の下旬、ようやく陽射しがぬくもってきた時分、私は息子を連れて港のほうへと歩いていた。さっきからうっすら匂ってきていた潮の香りが、ひとつ通りを裏道に入っただけで、いっそう濃くなった。あちらの家でも、こちらの家でも、軒先にイカや魚の干物が網をかけられて干してあり、独特の生臭い匂いが、漁師町の路地には染みついていた。

「ねえママ、ママったら! どこに行くの。どこまで行くのっ」

さっきから私が手を引いている息子の真人(まさと)が、苛立った声を上げた。真人としては、急に今までの家を出て、いきなり北陸の田舎の港町に二人で引っ越すことになって、十歳の彼なりにひどくとまどっているはずだ。でも、私には、もうここしかなかった。自分の帰る場所が、この小さな小さな漁村にしか、なかったのだった。

路地の出口まで来ると、一気に目の前に、白い漁船が並ぶ港へ出た。むせるような潮の香りと、空を舞うウミネコの群れを見上げる。その風景が、家を出た十八の頃となにも変わっていないことに、私は安堵と複雑な思いを同時に抱いた。

目の前を、茶トラの毛並みをした、痩せた野良猫が横切って、息子が「あ」と声を上げた。

「猫だ、猫!」

草むらの陰にあっという間に姿を消した猫に、「あーあ」と残念そうな声を上げる息子を見て、私は声をかけた。

「この町では、猫飼ってもいいよ」
「ほんとっ」

私の声に、真人が頬を上気させる。それくらいしか、私は真人を喜ばせてあげられることが思いつかなかったけど、彼が喜んでいるようなのでほっとした。離婚した夫は、猫アレルギーで、絶対に飼うなと、私にも真人にもきつく言っていたから。夫と暮らしてきた家を、真人と二人出てきた今、猫だってなんだって、自分の飼いたいものは飼ってやろうと思った。

「真人、神社にお参りしていこうか」
「えー、まあいいけど」

港を背にすると、小さな坂が続いていて、そこを五分ばかり登って行くと、苔むした鳥居が現れた。木造の古い社殿の前に二人で立ち、さい銭箱に小銭を放り込んで、参拝する。

真人も私も、ぶつぶつとお願い事を唱えた。神社から出るとき、真人が口を開いた。

「ママはなんてお願いしたの?」
「うーん、この町で無事に暮らせますように、って」
「僕はねえ、早く元の町に帰れますように、ってお願いしたよ。反対だね」

そう言われて、胸がきゅっと痛んだ。学校の友達からも、慕っていたサッカー部のコーチからも、真人を引き離して、私の一存でこの町へ真人を連れてきたことに、今更ながら、これで本当によかったのか、と考える。

「さ、じゃあ、おじいちゃんの家に行こうか」

もやもやしてきた思いを振り切るように、私は真人に明るい声で声をかけた。これからの暮らしが、きっといいものであるようにとの思いをこめて。


古びた家の引き戸をがたつかせながら開けた。ひどくきしんだ音がしたが、それは昔だって同じだった。玄関から目の前に伸びる薄暗い廊下には、まだ明かりがついていない。私は、壁のスイッチをぱちんと入れて、廊下に灯をともした。

靴を脱いでたたきにそろえ、真人と二人、家にあがりこみながら、呼んだ。

「おとうさーん」

そのまま暗い居間へと入ると、台所のほうで物音がした。居間との間にかけてあるのれんをくぐり、台所へ入ると、コンロの前で、父が何やら炊事をしていた。

私たちの入って来た音に、父が振り返る。くたびれた丸首の白シャツに、灰色のハーフパンツを穿いている猫背姿は、前に見た時よりもいっそう小さくなっているようだった。

「帰って、きたか」

父のつぶやきに、こう返すしかなかった。

「帰って、きたよ。帰るしかなかった」

「そうか。いろいろ、大変だったな」

無骨な父の気遣いの言葉に、思わず目頭が熱くなった。少しこちらを慮ってくれる、その気持ちにただ、ほっとした。

「ちょうどお前の離婚のタイミングと、ばあさんを老人ホームへ入所させる時期が同じだったからな。とりあえずこっちはひと段落したから、お前が帰ってきたのが入所のあとで良かった」

「本当にお世話かけてごめん」

父は、私の言葉には答えず、壁の古時計を見上げると言った。

「真人、腹へったか。五時半だが」
「……うん」

真人は言葉少なにうなずいた。久しぶりに会う祖父——私の父に緊張しているのだろう。

「今、小鯛を焼いとるからな。せっかく来たのに、じいちゃんの下手な料理しかなくて申し訳ないが、勘弁してな」

夕食の卓袱台には、焼いた桜色の小鯛に、漬物、アジの刺身に、ご飯と味噌汁が並んだ。真人はお腹が空いているはずなのに、少しずつしか箸をつけない。父が、とまどったように聞いた。

「真人は魚、嫌いなんか」

「あまり東京で食べさせてなかったから。ほら、義時さんが、お肉しか食べなかったから、魚はほとんど食卓に出さなかったの」

そう言うと、父は渋い顔で「ああ」と合点したように頷いた。

離婚した夫——義時は、魚が食べられない男だった。骨があるのがめんどくさい、味がたんぱくで好みに合わない、肉なら好きだ、食事には肉を出せ。そういう方針で、献立を考えるはめになったため、私は真人にほとんどこれまで魚を食べさせる機会に恵まれなかった。

「おいしくない?」
真人に聞くと、真人は困ったように、小鯛の身をつつきながら、
「あまりよくわからない」

と言った。家ではハンバーグやカレーといったものを好んで食べる子だから、本当に今日の質素な食事は食べなれないものなのだ。真人はただでさえ、食が細く、体も小さいから、本当はいっぱい食べてほしいのだけど、なかなか難しいようだった。

「なんか冷蔵庫に食べられるものないか、見てくる」

そう言って席を立った私に、父が声をかけてきた。

「千香子。鍋に熱湯を沸かしてくれんか」
「え、なに? お湯割りでも飲むの?」

父が焼酎のお湯割りを好きだったことを思いだしながら、けげんな顔で聞く私に、父は、

「いいから」
と言って、湯を沸かすよう促した。

私は台所の棚から鍋を取り出すと、コンロに火をつけた。お湯が沸く、こぽこぽという音がしはじめた頃、父も台所にやってきた。真人もついてきている。父が一緒に来るよう言ったのだろうか。

父はどんぶり鉢を食器棚から取りだすと、自分が食べ終えた骨だけの小鯛をどんぶりの中に入れ、そこに鍋のお湯を注いだ。そうして小瓶から醤油をひとたらしする。化学調味料の瓶も降り、軽く味付けした。

ふわっと、魚の出汁のいい香りがあたりに広がり、どんぶりの中に沈む骨から出たあぶらで、薄茶色のスープに丸い金の粒が浮かぶ。

「ほら、真人。いい匂いがしないか?」
「……うん、美味しそうな匂いがする」

真人も、自然と鼻をひくつかせていた。三人で卓袱台のある居間へと戻り、父はどんぶりを真人のほうへ差し出した。真人はどんぶりを、おそるおそる手にして、熱い汁を、一口すする。——飲み終えた顔は、上気していた。

「……おいしい! おじいちゃん、これすごくおいしいよ!」

父が顔のしわをゆがめて嬉しそうに笑った。

「そりゃあ良かった。魚の骨から出た出汁は、こうやって飲むとほんと美味いんだ。ここにごはんを入れて食べても、雑炊みたいで美味いぞ」

父のうながしで、真人がさっそく、白飯をどんぶりの中にぶちこんだ。かきこみながら美味しい美味しいと連呼している。私も同じように、自分の食べ終えた小鯛の骨を小さな器に入れてお湯を注ぎ、そのスープを飲んでみる。とても滋味あふれた味がした。

「——私、これ子ども時代に食べたこと、思いだした」
「おお、そうか。お前にももしかしたらつくってやっとったかもしれんなあ」

優しい優しい魚の出汁の味に、ふわっと傷んだ心ごと包まれた気がして、私は思わずどんぶりを置き、膝を抱えてつっぷした。自然と、涙が出てきてしまったのだ。

「ママ、あれ? 泣いてるの? なんで?」

不思議そうに聞く真人の気をそらすように、父が、どんぶりの中から魚の頭を取り出す。

「真人、魚は、めだまも食べられるんだぞ。ゼラチンみたいで、ぷるぷるして、美味いんだぞ」

「えー、めだまなんて、ちょっとこわいよ」

父と真人のたのしげな会話を聞きながら、私は上手く嗚咽を押さえられない。父が、ふとこっちを向いて、私の頭をぽんとなでた。『おかえり』とでもいうように、私の頭をなでたのだった。


すべて引越し手続きを終え、住民票を移したり、こちらの小学校への真人の転入手続きも終えて、ひと段落した私は、自分の仕事を探しに職安へ行った。とにかく働く場所を見つけなくては、貯金も段々目減りしていくばかりだ。

田舎町の求人には、オフィスワークなどないに等しく、私は【急募】という文字に目を引かれた近所のスーパーマーケットの惣菜部門へ応募してみることにした。

面接では、眼鏡をかけた大柄な男性店長が、私の職歴を聞いたり、立ち仕事や力仕事は大丈夫か、お盆や年末年始の休みもないが平気か、と一通り確認したあと、すぐ採用となった。

はじめて出勤した日、総菜部門のチーフの山形さんという五十代後半の女性が、スーパーの奥の惣菜を調理している厨房フロアを案内してくれた。

まず手を除菌して、マスクと帽子と手袋をつける。衛生管理は徹底しなければならない。その日は一日、春雨サラダや白和えなどの惣菜を、プラスチックのタッパーにつめる作業をした。パックのふたを閉じて、惣菜の名前や値段、グラム数が印字されたラベルを、機械を使って発行し、次々と惣菜パックへ貼って行く。

先輩パートの中川さんと一緒に、出来上がった惣菜を、台車に乗せて、棚に陳列しに行くということもやった。お客さんの人波の邪魔にならないようにしながら、惣菜棚へと惣菜パックを並べていった。

惣菜フロアのパートはほとんどがこの近所の主婦のようで、みんなたくましくきびきびと立ち働いていた。

帰り際、山形チーフが「お疲れ様」と言ってくれて、

「お惣菜、賞味期限近いものは廃棄になっちゃうから、よかったら少し持って行って」

と、汗まみれの顔でにこっと笑った。私がお礼を言いつつ、どれにしようか迷っていると、

「タラの芽の天ぷらは美味しいよ、この季節のものだけだからね。あと、メギスのすり身揚げはどうだい? ここは漁港が近いから、いつも店頭で売れ残った生のすり身を、ごぼうと一緒に揚げているのさ。家で温めなおして食べな」

と教えてくれた。ありがたく、その2種類の惣菜をもらって、父と真人の待つ家へと帰った。

家で、タラの芽の天ぷらと、すり身揚げを、オーブントースターで温めなおして、父の用意してくれた夕食と一緒に並べた。

父は、タラの芽を見て、相好を崩す。

「山菜は大好物や。タラの芽以外にも、フキノトウや、ワラビも、揚げると旬の味がして旨い。久しぶりに裏の山に行って採ってくるのもいいなあ」

真人は、タラの芽の天ぷらと、すり身揚げの匂いを、ひくひくと交互に嗅いで、食べるか食べまいか思案しているようだ。

「真人、タラの芽ちゃ、旨いもんやぞ、食べてみい」
「えー、苦くないの」
「苦くない。一口だけでも、食べてみんか」

父に促されて、真人がタラの芽を箸でつまみ上げ、口に入れた。咀嚼しながら、目をまるくする。

「そんなに、苦くないね。……おいしい、かも」

私も、つられてタラの芽に箸を伸ばし、口の中へと放り込む。じわっと、春の山の恵みの味が、口の中にほんの少しのえぐみとともにジューシーに広がって、そのほこほこした味わいが癖になってしまいそうだ。

真人は、メギスのすり身揚げにも箸をつけ、「あ、僕これ好き」といいながら、次々に食べた。食の細い真人も、こちらでの魚ばかり並ぶ食生活にじょじょに慣れてきたようで、私も胸をなでおろす。

すり身揚げは、ささがきごぼうの固くさくさくした食感と、柔らかく味わい深いメギスのすり身が一体となって、口の中にふわりと香ばしい旨みが広がる。一日働いてきて、お腹が減っている身としては、いくらでも食べられそうだ。

春の山の味、春の海の味。この小さな村では、早春の里山里海の恵みを、いつでもこうして季節とともに食べられるのだ。

都会では、お金をふんだんにかけることが贅沢だったり、ステイタスだったりしたけれど、本当の贅沢って、こうして、旬の美味しいものを、採ってすぐに食べられることなのかもしれないな、と私は深く息をつく。

お腹いっぱーい、と、真人が畳に寝転がる。少しふくらんだ息子の腹が、トレーナーの裾とズボンの間から、見えている。

「千香子も飲むか。……仕事決まって、良かったな。おめでとう」

父の骨張った指が、徳利を持ち上げる。そのまま、私の持つ猪口に、ぬる燗を注いでくれた。廊下で、古時計が、午後八時の時を打つ。小さな家の中に、静かな時間が流れていく。


スーパーの仕事が休みの日、家で家計簿をつけていると、玄関のほうから「こんちわぁ」と野太い声がかかった。慌てて出てみると、四十代くらいのジャージを着て無精ひげを生やした男性が、青いビニール袋の包みを提げて、突っ立っていた。

「どちらさまでしょうか」

私の疑問に、男性は、顎の下をぽりぽり掻くと、低い声音で言った。

「えー、と。三治さんは、おらんがかね」

三治とは、父の名だ。

「父はあいにく外出しておりまして」

と言うと「あー、娘さんかね」と、その男性は納得したようにうなずいた。

「お父さんに、瀬戸っちゅう男が生わかめ持ってきた、って伝えてくれんかね。瀬戸といったら、たぶんわかってくれるわ。普段お世話になってるお礼やからね。お返しなんかいらん、っちゅうといて」

そう言って、瀬戸さんは私の胸元に、ぐっと青いビニール袋を突き出した。

「ありがとうございます、すみません。父にも伝えておきます」

というと、瀬戸さんは、にやりとして、

「さては、出戻りか」

と、失礼千万なことを訊いてきた。私はむっとして、

「そうですが、何か」

と、そっけない口調で返した。瀬戸さんは、ほほう、と言って、私を値踏みするような目をして、さらに続けた。

「わしもバツイチや。お互い、なかなか苦労しとるのう」

またな、と笑顔で瀬戸さんが帰って行ったあと、私はよっぽど塩でも撒こうかと思ったが、掃除が面倒で思いとどまった。

だいたい私の好みは、ジャージで髭もろくに剃らない男ではないのだ。もっとぱりっとスーツを着ていて、仕事をしっかりしていて、髭剃りを欠かさないような——でも、そういう外側の条件を揃えていた元夫の義時と、結局は離婚するはめになったのだから、人生はままならない。

たとえいつか再婚を考えるとしても、瀬戸さんだけはないだろう。そう思って、私は、ぷりぷりしながら青いビニール袋ごと、冷蔵庫にしまった。

郵便局から帰って来た父は、瀬戸さんが持ってきた生わかめを、大変喜んだ。

「北陸の生わかめはな、養殖なら十二月ごろからスーパーに並ぶが、天然の生わかめは春先しか食べられん。今夜は、このわかめを粕汁で食べよう」

私は首をひねった。生わかめを、粕汁で食べる。そんなものを、この家にいた子供時代に食べたことがあっただろうか。私の疑問を察したのか、父が笑って言った。

「わかめを粕汁で、っちゅう食べ方は、数年前にあの瀬戸から教わったんや。瀬戸は、漁師をやっておってな、魚も海藻も、この漁村にあるものならなんでも、美味い食い方を知っとる。あいつはいい奴やし、お前もあいつから、スーパーの総菜のヒントなんかもらえるかもわからんぞ」

私はなんとなくうさんくさげな思いで、瀬戸さんの顔を思い浮かべた。生わかめを、味噌汁ならわかるが、粕汁で食べて、本当にそんなに美味しいものなのか。そもそも、子どもの頃は、酒粕風味のものは苦手だった気がするし、どうも信じられない。

玄関がガラガラと開く音が聞こえて、真人が家の中に入って来た。そのまま私と父が話をしている台所まで直行してくると、大きな声で言う。

「僕ねー、今日、すぐる君と探検ごっこしてきたよ! すっごい楽しかった!」

そうかそうか、と父が笑い、真人の帽子の頭を撫でる。真人は新しい環境で友達もできて、しっかり学校生活を楽しんでいるらしい。子供の適応力はすごい、と私は改めて思った。

冷蔵庫でかちかちになって、端がひび割れていた酒粕を父は取り出し、湯を沸かした鍋に、それを二かけら、三かけら、ちぎって放り込んだ。すぐに、お湯の色が白っぽく染まって行く。

「あとはダシの素と、味噌を入れたら、すぐ飲める」

父は言った通りに味つけすると、真人と私を鍋の前に呼んだ。味噌汁椀の中に、瀬戸さんのくれた茶色い生わかめを入れると、

「見てみろ、色がさあっと変わる」

と言って、その椀の中に、ぐらぐら煮え立つ粕汁を注いだ。椀の中のわかめが、さあっと鮮やかな緑に変わり、私と真人は感嘆の声を上げた。

炊いておいたご飯と、昼から煮て置いたカレイの煮つけ、父のつくったきゅうり漬け、あたためた豆腐と一緒に、熱々の生わかめの粕汁を、食卓へと運んだ。

わかめの緑を、目をまるくして眺めていた真人が、いただきますもそうそうに、粕汁の椀に口をつける。

「あちっ、あちちちっ」
「やけどするよ、気を付けて」

そう言いながらも、私も、ふうふうとその椀をすすってみた。昔は苦手だったように思っていたが、今は粕の香りがいい香りのように思えた。甘くて深い味がする。生わかめは、本当に海の味がした。

飲み終わった後は、体がぽかぽかと温まって来る。真人も、真っ赤な頬をしている。アルコール分は飛ばしたから、酔っぱらっているわけではないとは思うけど、きっと温まったのだろう。

(瀬戸さん、ね)

玄関で笑われたときの嫌な印象が、現金だけど、おいしい粕汁を飲んだことで少し和らいでいる気がした。


父の家からすぐそこの坂道の、桜が八分咲きになった頃、父が私におつかいを頼んだ。

「今日はばあさんの見舞いに行こう。連れ出して桜を見せてやりたい。千香子、ばあさんに、ついそこの『村中』で何か買ってきてくれんか」

『村中』というのは近所の老舗の和菓子屋だ。

「この時期なら、桜餅とか、いちご大福かな? 母さん、何が好きだったっけ?」

「ばあさんは、ここの家に居た頃は、年中『村中』で菓子を買っておったからなあ。ばあさんの好みは、わしより、『村中』の奥さんが知っとるかもしれんなあ」

「じゃあ、聞いてみるよ」

財布だけ持って、家を出た。カレンダーは弥生から卯月に変わり、外はうらうらと陽射しが暖かい。『村中』まですぐの距離を、すぐそこの春を確かめるように、ゆっくり、ゆっくりと歩いた。

町屋風のショーウインドウには、かわいいうさぎの人形が、年中飾ってあり、それを見て頬をゆるませると、「こんにちはー」と中に声をかけた。

「はいはい」

中から、白髪になった奥さんがにこにこと出てきて、私の顔を見つめる。思いだせそうで、思いだせない、というような表情をしているので、自ら言った。

「千香子です。あの、高山三治の娘の」

「ああーっ、千香ちゃん! あれあれ、もうこんな大人になって。帰省しとるんかね」

やっとわかった、という風情の奥さんに、苦笑して答えた。

「いえ、ついこの間離婚して。こっちに息子連れて帰ってきちゃいました」
「そうだったんやね。大変やったねえ」

眉をへの字にして、同情の声を寄せる奥さんを見て、私はやっと本来の目的を思いだした。

「あの、老人ホームの母に、何か和菓子を買ってこい、と父に言われたんですけど、うちの母、村中さんのお菓子で何が好きだったんでしょうか。私も父も知らなくて。でも、母は、元気だったころは、ここの常連だったみたいですから」

「そう、梅子さんのお見舞いに行くのね。梅子さんが、好きだったのはね、これ」

奥さんは、ショーウィンドウの中の一角を指さす。格子状に仕切られた小箱の中に、うす黄色のまるい餅が並んでいた。

「……ひとくち柚餅子(ゆべし)」

和菓子の前に置いてあるプレートにはそう書いてあり、読み上げると、奥さんは笑った。

「梅子さん、これがいっとうごひいきだったのよ。柚餅子というのは、そもそもまるまる一個の柚子の中身をくりぬいて、餅をつめて蒸して乾燥させたものだけど、このひとくち柚餅子は、それよりも食べやすくてね。こっちは、柔らかい求肥に、柚子を混ぜ込んで、まるめたものなの。梅子さん、年中買いに来ていたわ」

「お花見を家族でするので、じゃあ、二箱ください」

十個入りのひとくち柚餅子の箱を、二つ包んでもらうと、私は奥さんに御礼を言って外へ出た。どこかで、鴬のまだ下手な鳴き声がした。

真人も連れて、三人で老人ホームに向かい、玄関で面会の手続きをする。母はまだ七十代半ばだというのに、認知症になってしまい、考えた結果、老人ホームに入所させたのだと、離婚の結果私が実家に帰ることになったと報告したときに父から聞いた。

今年四十歳になる私は、母が三十七歳のときの、遅く産まれた子どもだった。老人ホームの廊下を歩き、母の個室へと向かう。真人はずっと私にくっついている。

個室に入ると、母は寝椅子で、すやすやと眠っていた。

「梅子。梅子」

父が声を掛ける。うっすら目を開けた母に、私も声をかける。

「母さん、ただいま。千香子だよ。孫の真人もいるよ。今日は、ホームの外の桜を見ようね」

「ちか、こ? さく、ら?」

目を開けた母のまなざしはぼんやりとして、焦点を結んでいない。私を見ても、真人を見ても、娘や孫だと、理解ができないのだ。

父は老人ホームの介護スタッフさんにお願いして、車椅子を用意してもらうと、スタッフさんと一緒に、母をそこに乗せた。

「梅子さん、桜を見にいくぞ。さあ、出発だ」

まだぼんやりして、ともすれば、車椅子に乗ったまま、また船をこぎそうになっている母にかまわず、父は私たちを連れて、車椅子を押してホームの外へ出た。

ホームの庭には、立派な枝ぶりの大きな桜があり、薄ピンクの花があふれるように咲いていた。ひらひらと花びらが舞い散るその下で、ひとくち柚餅子の箱を開けた。

まっさきに手を伸ばす真人に、ひとつ楊枝にさして渡したあと、私は母によく見えるように、ひとくち柚餅子を彼女の目の前に見せてみた。

「母さん、ひとくち柚餅子だよ。好きだったんでしょう」

そう言っても、母の反応は薄く、まだぼうっと、宙を見つめたままだ。

「うーん、好きだった村中の菓子なら、食べると思ったんだがなあ」

父はそう言って肩を落とした。

ほんのりと、柚子の香りがあたりに漂う。清冽で、爽やかな香り。もっとちょうだいと騒ぐ真人に、二つ、三つとやり、私自身も、ひとつ口の中に入れてみた。
やわらかい口当たりと、ほんのりとした柚子の芳香が、口の中で噛むうちに溶けていく。父も、もう一つ箱を開け、楊枝で指すと、食べ始めた。

三人で食べていると、母が、急に、「ひとつ、ひとつくだぁ」と言いだして、私たちは顔を見合わせる。

「みんなで食べてたから、おばあちゃんも欲しくなったんだ」

真人がそう訳知り顔で言って、みんな笑った。春の木漏れ日の下、柔らかで穏やかな時間が過ぎていく。



開店時刻が過ぎて、人が入り始めたスーパーで、時計を気にしながら急いで品出しをしていると、背後から声をかけられた。

「三治さんの娘さん、あんたここで働いとるんやな。ちょっと教えてや」

振り向くと、瀬戸さんがそこに居た。内心の動揺を隠して、聞く。

「はい、何でしょうか?」

「このスーパーは、線香と仏花はどこに置いてあるんかな。こないだと、場所変えたやろ」

そういえば、ついこないだ、リニューアルと称して、たしかに商品の配置を変えていたのを思いだし、私は瀬戸さんに線香と仏花の新しい位置を、それぞれ教えた。

「どうもありがとう」

こないだの失礼な態度とは少し違う雰囲気を感じて、私はつい聞いてしまった。


「お墓参りですか」
「うん、そうや」

季節は四月の終わりで、お彼岸でもお盆でもない。誰の墓に行くのかと思ったのだが、詳しいことを突っ込むような仲では全然なかったので、私は黙っていた。すると瀬戸さんが、

「三治さんに、今年も筍を掘りにいこう、って言っといてくれんか。なんならあんたと息子も、来てかまわんぞ」
「筍、ですか」

「ああ、俺の親父が、山持っとるから、その山で採れるんや。三治さんと、一緒に、この頃は毎年行っとるから、あんたと息子さんも、せっかくやし一緒に行かんかなって」

どう返事をすべきか考えた。この男はいったい何を考えているのだろうか。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。

「考えておきます」

そう言うと、瀬戸さんはにやっと笑って指摘した。

「あんたの着とる上着、裏返しになっとるよ。気を付けえ」

一気に顔に血が上った。確かめてみると、確かに羽織っていた黒のカーディガンが裏表になっていた。どうして出がけに気付かなかったのか。

笑いながら瀬戸さんは去って行き、私は、やっぱりどうも瀬戸さんのことが苦手かもしれないと思った。


スーパーの仕事を四時に終えて家に帰り、金魚に餌をやっていた父に、筍掘りに誘われたことと、瀬戸さんが線香を買って言ったことを伝えると、父はしばらく無言でいたのちに、

「そうか」

と一言だけ言った。けげんな顔でいた私に、父は言った。

「瀬戸は、奥さんと息子を、だいぶ前にいっぺんに亡くしとるんや。今日はもしかしたら、月命日やったかもしらん」

「え、でも、バツイチだって、言ってたのに」

「バツイチじゃなくて、あいつは寡夫なんやけど、きっとバツイチって言った方が、心のハードルが低くて言いやすかったんやろな」

あまりのことに絶句していると、父は言った。

「ま、あんまり気にするな。筍掘りはみんなで行こうや。きっとその後、瀬戸がいろいろ料理してくれるだろうし、ただ千香子は楽しみにしとけ」

すっきりとしない気持ちのまま、私は父と並んで、家の庭にある金魚池を眺めた。すいすいと並んで泳ぐ金魚を、何分もただ見つめていた。


見事な五月晴れの日曜日、瀬戸さんの車に乗って、真人と父も一緒に、みなで筍掘りに出かけた。山道の途中に車を停めて降りると、山の中腹に続く小径を、草をかきわけながら登って行く。目当ての竹林は、二十分ほど登ったところにあり、柔らかい土や斜面に足をとられつつ、その場所に着くと、瀬戸さんが、「ようし、このあたりや」とドラ声を上げた。

「まず俺が掘ってみるから、見とらし。ここに筍の先がちょっと出とるやろ」

たしかに、土から、筍の頭らしき先っぽが5センチほど見えていた。瀬戸さんは自宅から持ってきたクワを振り下ろし、筍の周りから徐々に土を掘り起こした。三度、四度と、掘り起こすと、筍の本体がどんどん見えてきて、ぐっと傾いた。

「ほうら、掘れたぞ。坊主も、やってみんか」

瀬戸さんはそう言って、真人にクワを渡した。真人は、目をきらきらさせながら、別の筍の頭を見つけ、クワを振り下ろす。

「筍本体は傷つけたらだめやぞ、注意して、ほら、そう、そうや」

真人の後ろから、真人の身体を支え、一緒にクワを操ってあげる瀬戸さんの目が優しくて、私はいたたまれない気持ちになった。

同時に、元夫だった義時が、真人とこんな時間を持っていたときがあっただろうか、と私は思い返した。義時は、仕事仕事で、ほとんど家に寄りつかなかった。休日、寝ているところを真人に「遊ぼう」と邪魔されて、ひどく激昂していたときもあった。

でも、義時だけが悪かったんじゃない。私自身、自分が何を大切に人生を生きていきたかったか、それが曖昧なのがいけなかったのだ。

ぴしっとスーツを着て、仕事をばりばりやっている夫が、理想だと昔は思っていた。けれど、義時は、常に家では苛々し、私と真人をひどく怒鳴りつけ、王様のように振る舞った。私は義時の召使だった。

義時と離れて、故郷でゆっくりと流れる時間に体を馴染ませると、どれだけ自分が痛めつけられていたのか、よくわかった。

筍を五つも掘り、車に乗って私たちは、父の家へと帰った。瀬戸さんも、家に上がりこんできて「台所借りるよ、三治さん」と言って、シンクで手を洗い始めた。

「何か手伝うことはありますか」

私もエプロンをしめて、瀬戸さんのとなりに並んだ。

「筍、縦に切ってや。そんで、中身だけ取り出す」

言われた通りにやっていると、瀬戸さんは大鍋にお湯を沸かして、ガーゼの袋に米ぬかをつめたものを放り込んだ。

「これで灰汁ぬきできる」

そのまま一時間ほど茹でることになった。鍋の中を見ている瀬戸さんに、私は声をかけた。

「ご家族を、亡くされたと聞きました」

瀬戸さんは「ああ」というと、

「こないだは線香ありがとう」とぽつりと言った。

「だいぶ昔の話や。八年ほど前に、この辺大雨で土砂崩れが起きたやろ、そのとき」
「そうでしたか」

そのニュースを、私も思いだした。あの頃は真人がまだ小さくて、私の実家の近くの災害のテレビニュースを食い入るように見ていた私に、義時が「市の対応の初動が悪い」だの「警報が鳴っていたのに、どうして避難しないんだ」などと、さんざん勝手に毒舌を吐いていたのだった。

自分が突っ込んで聞いてしまったことと、あの日の義時の悪口を思いだして、なんとなく申し訳ない気分になり、謝った。

「思いださせてしまって、ごめんなさい」

「いや、いいんやって。今日は楽しかった。千香子さんと、真人くん見てると、ちょっと俺も、楽しかったわ。昔に戻ったみたいやった」

茹で上がった筍は、先端の柔らかい部分を刺身に、残りを炊き込みご飯にすることにした。

「筍の刺身は、だし醤油とわさびで食べても、酢味噌で食べても、美味いから」

私も瀬戸さんも、それ以上今話した話題に突っ込むことはなかった。ただ、私にいろいろ事情があるように、人にも、見た目からではわからない、いろいろな事情を抱えているのだ、ということがわかった日だった。

筍尽くしの食卓に、真人は大喜びで、刺身も、筍ご飯も、生わかめと一緒につくった若竹汁も、きれいに残さず平らげてしまった。あの食の細かった真人が、こっちの食生活に慣れて、こんなにたくさん食べてくれるようになったと思うと、私の感激もひとしおだった。

瀬戸さんも、大柄な体躯にふさわしく、筍ご飯を三杯もおかわりして食べ、父が勧めた日本酒を、美味しそうに飲んでいた。とても、楽しい晩だった。

五月の終わり、風邪を引いた。少し暑くなってきたので、布団を脱いで寝てしまっていたらしかった。朝熱を測ると、七度四分あり、でも大丈夫だから、と無理を押してスーパーの仕事へ行き、帰ってきてみたら、熱は八度二分に上がっていた。

ふらふらしながら布団に倒れ込み、うんうんいいながら寝込んだ。感染るといけないから、と真人をそばに置かないようにし、水分だけ補給して、ずっと寝ていた。

やっと起き上がれるようになったとき、父がたまごがゆをつくってくれていた。その傍には、小皿に乗せた梅干しが二つ、並んでいた。

「ありがとう、父さん」

まだ熱の残る声でそう言うと、父は言った。

「これ、ばあさんが元気だったころ、二人で漬けた梅干しなんや。今年も、もう少しで梅の季節だから、もし千香子さえ手伝ってくれるなら、また漬け始めようかと思ってな。青梅を買ってもいいか?」

「うん、手伝うし、漬けようよ」

優しい味のおかゆに、深みのある味の梅干しは、よく合った。父と母は、長年連れ添った、良い夫婦だったのだな、としみじみした。

長年連れ添った夫婦に、私と義時もなれなかったし、瀬戸さんと奥さんも、それが叶わなかった。夫婦という、わかっているようで、全然わかっていない、その道。その道を、この先また誰かと歩むことになるのか、そうでないのか、今はわからない。

けれど、こうして、誰かと美味しいごはんを食べたり、誰かに美味しいごはんをつくったり、その繰り返しをする関係が、家族という営みなのだろう。

「ママ、元気になった? おじいちゃんと一緒に、僕がママのために剥いたんだよ」

真人がそう言って、小さなガラス皿を持ってきた。その中には黄金色に光る、枇杷が二つ並んでいた。その光をはなつ小さな丸い果物を見て、私は真人を抱きよせた。

「ありがとう、ママはもう大丈夫だよ」

開け放った網戸の前に吊るした風鈴が、ちりりんと鳴って初夏を知らせる。みんなで迎えることになる、この町での夏が、ただ楽しみだと思った。
 


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