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漁村の女

私の腕の中では、ショールにくるまれて今年産まれた娘の真里が眠っている。夫が運転するレンタカーの助手席の窓からは、よく晴れた空と青く凪いだ瀬戸内海が見えた。今日はこれから、結婚後初めて私の生まれた家に里帰りするのだ。

思い出すのは、小さいころ、この海を港の堤防に座ってずっとスケッチしていたことだ。祖父に買ってもらったキャンパスノートを大切に使っていた。灯台にかもめ。遠くを行く船。2Bの鉛筆で、なぞり描きしていたことを、つい昨日のように思いだせる。

私はいま東京で、フリーでイラストを描く仕事をしていて、現在育休と称して仕事は控えているが、あと三ヶ月もすれば真里は一歳になるし、じょじょに止めていた仕事を、また請け負い始めようと思っているところだ。さいわい、声をかけてくれる仕事先もある。

「絵を描いたって飯が食えるわけじゃないんだよ。いいかい、人間は働いてなんぼだ。手を動かして、さっさと外を箒ではいてきなさい。夢ばっかり見てたって、ろくな大人になれないからね」

中高生の頃、ことあるごとに苦い顔でそうさとす母の顔をいまでもよく覚えている。母に見つかると怒られるから、隠れて絵を描いていたのだけど、それでもたまに見つかると、かならず渋い顔で叱責された。私の家は田舎の漁村にあり、父は郵便局の配達人で、母は港の漁協で魚を加工するパートをしていた。

同居する祖母は認知症をわずらい母が介護していて、唯一絵を描くことをほめてくれていた祖父は、とうに鬼籍に入っていた。大人しくものを言わない父と、話の通じない祖母、反抗ばかりする娘の私の中で、母はどうにか自分が家族という歯車をしっかりまわしていかないとと気負っていたようだ。

母のストレス発散の矛先は、主に手伝いもせず絵ばかり描いている自分に向かった。家で絵を描いていれば、叱られるので、私は家でなく、学校の美術室の片隅で、こっそり絵を描いては見つからない場所に隠す日々がつづいた。

高校を卒業してすぐに、実家を離れた。最初に行った仕事先は、新聞配達をする社員の飯炊きをする住み込みのバイトで、私はそこで二年間働いてお金を貯め、東京へ出た。東京では、安いアパートに住み、バイトをかけもちしながら夜間のデザイン専門学校に通い基礎を習った。

出版社への持込も少しずつ始めたが、最初は洟もひっかけてもらえなかった。そんなとき、脳裏をよぎるのは母の言葉だった。

「貴族みたいに絵なんて描いて、どうするのさ」「才能なんてね、限られた恵まれたわずかの人にしかないんだよ」「まっとうに働いてこそ、まともな人間なんだよ」

そういう言葉が、ぐるぐると回り、私はこらえきれず泣いて、枕がぬれた夜が数えきれないくらいあった。

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「きみの絵は、ものを見ずに描いてるね。まずはしっかりと、描きたいものを見つめなさい」

そう指摘してくれたのは、絵描き友達に紹介されて通い始めた市民講座の絵画教室の初老の先生だった。名を、奥田先生と言った。奥田先生は、私の描いた持込用のラフスケッチを何枚か眺めると、こんな風に教えてくれた。

「いいですか、文学も絵画も、基本は同じです。まず私たちの生きているこの世界というものがあって、その世界を、自分なりに見つめて切り取り、構成しなおしたものが芸術というものです。君は、世界をそのままの瞳で見つめることから逃げている。だから、あやふやにしかものをとらえられないのですよ」

奥田先生の言葉は、一度聞いただけではよくわからなかった。デッサンするものならちゃんと見ているつもりだ。それだけじゃだめなんだろうか。でもわかることはひとつだけ、私は奥田先生の作品が好きだということだった。奥田先生の絵は、果物も魚も花もみないきいきと命を持ったように見えて、誰にもまねできないものだった。自分なりのやり方が確立されているということだろう。

それから私は、外へ出たときも、家にいるときも、なるべく目を真剣に使って、日常風景そのものを凝視してみることにした。たとえば、カフェに入ったときは、壁がどんなつくりをしているか、間接照明のシェードの形や、店員の白シャツと黒エプロンといった服装などに気をとめて見てみることにした。

最初はなかなか慣れなかったが、続けるうちに、効果は私の絵に表れた。描くとき、白いキャンバスを目の前にして瞳を閉じると、描きたいものがすっと浮かんできた。日々見ているもの、目にするもの、それが写真を一枚撮ったように私の目の裏に焼きつき、あとはそれを紙に写し取るだけだった。描くことがわかってきた、絵というものをつかまえた瞬間だった。

私は急激に自分の絵が描けるようになり、バイトも休んで夜昼かまわず描きまくった。人間普通に働かなければまともとは言えないよ、という母の教えを破るなんていままでならありえず、どんなときでもバイトはしていたのだが、自分の絵をつかまえた私は、描かないでいる時間が惜しすぎた。

もっと描けば、もっと上手くなれる。だから、もっと描く。その繰り返しで、がりがりの栄養失調寸前になっていた私を、自分のアパートに連れ帰ってくれたのが、夫となる人だった。

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「世界はね、どんな風にでも解釈できて、その仕方を決めるのは自分自身なんだ」

卵入りのおかゆを、熱を出して倒れた私につくってくれながら、彼――のちの夫となる人は言った。彼は、私の勤めていたバイト先の社員で、私よりも五歳上の人だった。熱にうかされながら私が、絵を描きたいけど、母の描いたらいけないという言葉が追ってくる、と話したときに彼はそう言った。

「絵を描いたらいけないっていうルールは、広い世界の中の、小さな日本という国の、さらに小さな田舎町の、君の家というちっぽけな場所だけのルールだよ。いろんな人に会えば、いろんな人がみなそれぞれの自分だけのルールを持ってることがよくわかる。

だから、たくさんの人に会って、その中で信じられる人を見つけたら、その人を仮にお母さんと慕ったっていいわけだ。世の中に素敵な女性はいっぱいいる。絵を描く女性もいっぱいいる。その中に、ロールモデルはいないかい? 僕の父はね、幼い頃に家を出て行ったけれど、僕はそういうやり方で、世界中に本物のお父さんと言える人たちを見つけたよ」

私は彼にしがみついて泣きじゃくり、ずっと体にたまっていた澱が、少しずつ溶け出してなくなっていくのを感じていた。抱えていた重い荷を、やっと降ろせた思いだった。

私はそのまま彼の家に居ついて、絵を描き続けた。描くことに対しての罪悪感は、少しずつ消えていき、翌年私は小さな絵画コンクールにはじめて入賞した。

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絵の世界に入っていって、少しずつ知り合いの輪が広がっていくに連れて、さまざまな絵を描くさまざまな人と知り合った。どの人の作品も、魅力的で、みんな世間からはちょっと浮いていておもしろい人が多かった。そうして三年が過ぎたとき、私は仲間にチケットをもらったある個展会場で、忘れがたい作品に出会うことになる。

大きなキャンバスいっぱいに描かれたその絵は「漁村の女」と題されていて、ほおかむりをした日に焼けた年配の女性が、魚あみをつくろっている姿だった。瞬間に、母を思い出して胸がわけのわからない感情でいっぱいになった。コツ、コツ、と背後から足音が響き、絵の前で立ち尽くしていた私の隣で止まる。

振り向くと、入り口でもらったパンフレットの写真のその人で、この絵を描いた本人だとわかった。きれいな白髪を蝶のバレッタでとめた六十代ほどの女性で、柔和な笑みを浮かべた顔に透徹したまなざしを浮かべていた。

「この絵を見てくれてうれしいわ。この絵はね、ある田舎の港町へ行った時、漁港の裏で作業しているこの人を見つけてね。スケッチしていいかって言われてかまわないと言われたので、描かせてもらったのよ。こういう、名もないけれど背筋をしゃんと伸ばした美しい人が世界中にいっぱいいるの。一日働いて、家族に食べさせて、寝て、また働いて。私はそういう女のひとを描きたいのね」

ああ。と私は思う。私はそういう目で母を見たことがあっただろうか。奥田先生の、きみの絵はものを見ていないという声がよみがえる。彼の、世界の解釈の仕方を変えてごらん、と言った言葉を思い出す。私は母を嫌いだと思っていた。でも、そうではなくて、母を、よく見ようとしていなかったのだ。

「漁村の女」を描いたこの作家さんのように、母の美しい一面に、気がつかなかったのだ。

「私の家も、漁村にあります。素晴らしい作品を、ありがとうございました」

そういいながら、私は心の中でこの人を、師匠として慕おう、それも一生、と決めた。

私の腹に新しいいのちが宿ったことを知ったのは、初個展の準備に追われる直前だった。産まれる時期を指折り数えてみると、なんとか個展がすんでから出産準備をできそうだった。心配した絵描き仲間が、何人も手伝いにきてくれて、本当にありがたいと思った。

絵を描くことは、もう何もこわくなかった。師匠と私が心の中で呼んでいる初野ゆやさんに出会えたのも自分の中の恐れをふきとばすのに十分なことだった。初野さんの口癖は「生きることを楽しみなさい。そこにすべて答えがあるから」で、私の絵もたくさん見てもらってアドバイスをもらった。

産婦人科のエコー検査で、腹の中の子が娘だとわかった私は、一瞬ひるんだが、すぐに奥田先生の言葉と彼の言葉を思い出した。目の前の対象を、よく見ること。世界にはいろいろな解釈があるけれど、世界の見方は自分で決めていいこと。それに加えて初野さんの生きることを楽しむこと、も加えると、不安が消えた。

娘が生まれたら、私が描いたこの個展会場いっぱいの絵を見せてあげようと思った。そうしてふと、母も私によく魚料理を食べさせるのが好きだったな、と思い出した。あれは、自分が漁協でさばいたり、骨をとったとれたての魚を、私に食べさせたかったのだなと、娘を持った今になってやっとわかった。

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レンタカーは実家の前で、いっぱいに生えている草をかきわけながら止まった。家の前で、父が待っている。

真里を抱きながら降り、父に「母さんは?」と聞くと「台所やな」と言う。夫が父に挨拶している間に、玄関のたたきを上がり、家の奥の台所へ向かうと、母はこんろの前で鍋をかきまぜていた。シンク台の上には、すりばちがあり、魚の出汁のいい香りがした。

「……魚の、団子汁? 母さん、魚をすってつくってくれたん?」
「これなら、赤子でも食べられるからな。骨はぜんぶぬいてあるし」

私のほうを見ずに、母は言う。魚の身をすりつぶし、こまかい骨をぬく作業はたいへんだったろう。優しい言葉を言うときは、この人はたいてい人の顔を見ない。

「東京で、絵を描いてるんやってな。どんな仕事でも、まじめに働かんといかんよ」

まじめに働く。それが、母の生きてきた背筋そのものなのだろう。だから繰り返し、私に教えた。人は自分の生きてきた道を肯定するために、自分の目に見える解釈で、他人に話したり伝えたりする。だから、私も、伝えようと思う。

「母さん、私ね、絵を描いてきて本当によかった。あこがれてる、師匠も見つけた。その師匠は、私にとって目標だけど、でも、魚の仕事でずっと働いてきた母さんも、私にとっては、目指したい人」

母の背中が、ちょっとだけゆらぐ。

「私、母さんの絵を描きたい。それでいつか、真里にも見てもらうの」
「こんな田舎のばあさん、描いたってちっともおもしろくないよ」
「でも描きたい。描かせて」
「ああ、ああ、わかったよ。そのかわり、ときどき帰ってきなよ。こんな十年ぶりとかじゃなくて、盆とか正月とか、顔見せに来な。真里坊も連れて」

母が私に向き直り、手を伸ばして抱いていた真里を受け取る。真里も小さかったが、母もこの十年でなんとちいさくなったのだろう。ことことと、鍋の煮える音がする。夫と父は、早速ちゃぶ台で酒盛りをはじめたようだ。この家で、ずいぶん昔に止まっていた私の時間が、またときを刻み始める。母の腕の中で、真里が「あー」とひとつ小さなあくびをした。

#小説

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