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【児童文学】チーズ・カレー・ひき肉ポテト【再掲載】

僕が初めて宮田野乃花と話したのは、小学校六年生になった春のことだった。商店街のそばの桜がちょうど散り終えてしまった頃だ。

僕のうちは商店街の一角で昔ながらの肉屋をやっていて、店には文字がはげかかった『小宮山精肉店』という大きな看板がかかげてあった。ちょうどその前のアスファルトの地面に、薄ピンクの花びらがたくさん落ちていたことを、僕は今でも覚えている。

その花びらを踏みながら、野乃花が僕のうちへ、初めてコロッケを買いに来たことも。僕はこの店で、五年生の春から、家族を手伝っていた。

「ほら、諒太! サラダができたから、準備して!」

厨房から母さんの元気で明るい声が飛ぶ。僕は「へいっ」と母さんが渡してくれた大きな鍋を受け取った。中にはたっぷりのポテトサラダ。今から僕はこれをパック詰めしていくのだ。店の手伝いといっても、レジ打ちも肉のスライスも総菜づくりも、まだ小学生である僕にやらせていいことではなかった。

僕がやれるのは、母さんが店の奥でつくったサラダをプラスチックのパックに詰めたり、お客さんを相手にお会計をする父さんに頼まれて、揚げたてのコロッケやトンカツを紙の袋に入れたりするくらい。

だけど、チビだったときはうろつかせてもらえなかった厨房や店内で、父さんと母さんがどんな仕事をしているのかが手伝うようになって初めてわかって、僕はとても面白かった。

お客さんが途切れて手が空くと、僕は店の前に出て客引きをした。

「おいしいお肉ー、おいしいお肉はいかがですか? すき焼き、ステーキ、なんでもありますよ。揚げたてのコロッケ、メンチカツ、トンカツもありますよ」

僕の客引きはそれなりに効果があって、子供の僕が声をはりあげているのが感心だと思うのか、ご近所さんはもちろん、通りすがりの知らない人も、肉や総菜を買って行ってくれたりした。

僕ははりきって、紺地に白で『小宮山』と染め抜かれた前掛けをつけて、学校が退けると店で呼び込みをした。夕方になると、少々さびれた商店街であってもお客は通り、自分の呼び込みの結果、肉や総菜が売れるのは僕にとってやりがいを感じることだった。

その日も僕は、ポテトサラダやゴボウサラダをパック詰めした後、店の前に出て、ぶらぶらしながら、声を上げて客を呼び込んでいた。

今年の桜も、散っちゃったな。僕は呼び込みをしながら、そんなことを思った。商店街のみんなと、お花見をしたのはつい一週間前のことなのに、もう枝に花は残っていない。これから、緑の葉が伸びてくるはずだ。どうして、きれいなものって、一瞬で消えるのかな。

少しぼんやりして、呼び声の声を止めた僕の耳に、ふっと澄んだ声が飛び込んできた。

「カレーコロッケ、ふたつください」

はっと目を桜の枝から正面に向けると、僕の目の前に女の子が立っていた。歳は僕とおんなじくらい、春の陽を受けて茶色く光る髪が、肩より少し長いくらいの、可愛い子だった。桜とおなじ色のパーカーを着ていた。

僕はまじまじとその子を見たあと、(あれ?)と思った。この子、どこかで会ったかな。

「ねー」と僕は声をかけた。女の子がけげんそうに僕を見る。

「隣のクラスに、いるよね?」
「え?」

「僕、藤山小学校の六年二組、小宮山諒太。きみさ、一組にいなかったっけ」
 僕の問いかけに、女の子が「ああ」とうなずく。

「うん、一組にいる。四月から、この町に引っ越してきたの」
「名前、なんだっけ」
「宮田……野乃花」

そこまで話したところで、父さんがずかずかと表に出てきて、僕の頭をちょっと小突いた。

「お客さんをナンパしてるんじゃない」
「ナンパじゃないって。この子、俺と同じ小学校の同学年なんだ」

父さんは目を細めて野乃花を見た。

「ほう、そうかそうか、よく来てくれたね。またうちの坊主ともども、この店をよろしくね」

野乃花はにこっと笑ってくれた。桜のつぼみが、ほころんだみたいな笑顔だった。野乃花が父さんに二百円を渡すと、父さんは上機嫌で「諒太の知り合いということで、おまけをしてあげよう」と言ってポテトサラダのパックをひとつ、ビニール袋に入れて持たせた。

野乃花は、なんどもお辞儀をしながら帰っていった。

「なかなかよさそうな子じゃないか」と父さんが言って、僕も「うん、そうだね」と言った。

僕たちが住んでいる商店街は、人口三万に満たないこの小さな町の、ちょうど真ん中らへんにあって、昔からたくさんの店が軒を並べていたらしい。らしい、というのは、今ではその半分以上が、シャッターを閉めてしまったからだ。

僕も、この商店街がいちばん賑わっていたころを、父さんと、やっぱり父さんと同じく商店街で育ったおじさんたちの昔話でしか知らない。

父さんは、店を閉めると、いつもひとりで晩酌するのだけど、僕にこんな風に言う。

「やっぱり、郊外に便利な大型スーパーができてから、みんな変わってしまったなあ」

父さんの話によると、もう町の人たちのほとんどは、肉も魚も野菜も、生活に必要なものはすべてそろう大型スーパーで買い物をするようになってしまったそうだ。

時代の流れでしょうがないのかもしれないけれど、商店街で育った僕としては、人通りがだんだん減っていくこの景色を見るのは、やっぱり寂しいものがある。ついこの間も、田中のおばあちゃんがやっていた呉服屋さんが、店をたたんでしまった。

「もうだいぶ年だし、なかなかみんな着物を着なくなっちゃったんだな」

徳利をかたむけながら、父さんは僕にそう言った。田中のおばあちゃんの、まるまった小さな背中を思うと、僕は少しだけやりきれない気持ちになる。

父さんと母さんの店『小宮山精肉店』は、父さんの父さん、つまり僕のおじいちゃんが始めた店で、おじいちゃんの若い頃は、スーパーなんてなかったから、だいぶこの店も繁盛していたみたいだけど、やっぱりここ近年は、売上がじょじょに落ちているそうだ。

とはいえ常連のお客さんもだいぶついてくれているので、すぐさま店じまい、なんてことはないけれど、父さんは僕に「諒太は無理に継がなくていいんだぞ」とよく言う。

だけど僕はこの店の三代目になってみたかった。三代目って、なんかかっこよくないか。僕は部活帰りの中学生や高校生たちが、メンチカツを買いに並ぶうちの肉屋の雰囲気が好きだったし、コロッケや肉だって、最高に美味しいと思う。

僕の代になったら、新メニューをたくさん開発して、人気を盛り返してやる。そういう思いで、僕はときどき、自宅のほうの台所にも立って、家族の晩ごはんを作らせてもらっていた。これも修行のうちなのだ、と思いながら、肉野菜炒めやオムレツづくりに励んだ。

コロッケを野乃花が買いに来た翌日、僕は小学校に登校すると、休み時間に一組の教室に遊びに行った。野乃花に挨拶しようと思ったわけじゃないけど、あの茶色く透けた髪を探してみたかったのだ。

去年同じクラスでよく遊んでいた坂野淳を見つけると、昨日のサッカー日本代表の試合の話をしながら、僕はクラス中を見回した。野乃花は、すみっこの席で、教科書を開いているようだ。

その周りに、友達らしい子はいない。ほかの女子はみんな、あちこちでかたまって喋り散らしているのに。

ここで僕が寄って行って声でもかけたら、火のついたような騒ぎになりそうだった。それで、僕はこっそり、坂野に聞いた。

「……なー、あの転校生、名前なんだっけ」

本当は知っているのにしらばっくれた。

「ああ、宮田だろ。なんか、いろいろ噂あるんだけど」
「噂?」

不穏な言葉に、僕は思わず眉を寄せる。

「……なんか、父親がケイムショ入ってるとか。あいつも茶髪だけど、母親なんかもっとすごいギャルらしいぜ? 一緒に歩いてるの見た女子が、宮田の母親はぜったいヨルノオンナだって、言ってた」

「ヨルノオンナ、って」
「夜の街で働く女ってことだよ。ほらー、スナックとか、あるだろ」

さすが坂野、情報通なだけあって、いろいろと僕の知らないことを知っている。

「宮田のこと、最初はクラスの女子もとりまいていろいろ聞いてたみたいだけど、宮田があまりに大人しすぎるんで、だんだん、ハブにされるようになったみたい。いまじゃ教室移動とかも、だいたい一人で行動してるよ」

「ふーん」

なんか、いろいろあるんだな。僕は、遠くから五月の光が、カーテンのすぐそばにいる野乃花の髪をふうわりと揺らすのをただ見ていた。そして、なかなか大変そうな身の上に思いをはせた。

学校が終わり、その日も僕は夕方から店に出て、母さんと一緒に生ゴミを袋に詰めていた。すると、店頭から「おーい」と父さんが僕を呼んで「あの子、また来てるよ」と言った。

僕はゴミの片づけもそうそうに店の前に飛んで出た。野乃花が、お財布をにぎりしめて、店の前に立っていた。走って来たのか、頬がほんのり桃色に染まっている。

「……昨日のコロッケとサラダ、美味しかったから、また買いにきちゃった」
「そうなんだ、ありがとう!」

僕はお礼を言いながら、野乃花をあらためてじっくり眺めた。顔が小さくて、細っこくて、手も足も長い。背は百四十五センチの僕とたいたい同じくらい。今日のシャツは空色で、黒いひざ丈のスカートを穿いているその姿は、同学年の女子たちよりもずっと大人っぽく見えた。

「で、今日は何にする?」
「えーと、じゃあ、小宮山くんのおすすめで」

あ、名前を覚えてくれたんだ。胸に嬉しさの波紋が広がって行く。僕はメンチカツとゴボウサラダをすすめた。野乃花は両方買ってくれた。

すると、さっきまで明るかった空が急にかげり、ぽつん、ぽつんとアスファルトに水滴が落ちてきた。小雨が降ってきたのだ。野乃花は雨空を見上げると、

「どうしよう、傘忘れてきちゃった」
と、つぶやいた。母さんが店から顔を出して、僕に二本傘をよこした。
「諒太、家まで送って行ってあげなさい。手伝いは、いいから」

僕は、黙って傘を受けとると、野乃花に「行こうか」と言った。野乃花はこくんとうなずき、「ありがとう」と言った。

透明なビニール傘に、雨粒がばらばらとはね返る。その音を聞きながら、僕は野乃花と夕暮れの歩道を歩いた。歩道のすぐ横は田んぼになっている。あとひと月もすれば、田植えの時期だな、と僕は思った。「宮田さんの家はどのへん?」と聞くと、公民館の近くの公営住宅だという返事が返ってきた。

なんの話題を話せばいいのか、家族のことはタブーなのか、僕は困ったあげく、こんな質問をした。

「宮田さんは、どうしてこの町に引っ越してきたの」

野乃花は少しためらっている風だったが、しばらくして口を開いた。

「……父さんが、一年前に詐欺をして捕まっちゃって。それで母さんは離婚して、今は私と母さんとで暮らしてる」
「そうだったんだ」

坂野の言ってた「噂」は本当だったんだ、と僕は改めて思い返す。
「でも、どうしてこの町に?」

「この町に母さんが昔お世話になった人がいて、その人のお店で働かせてもらえることになったの。夜に、男の人がお酒を飲みにくるお店。その話が決まって、私を連れて、こっちに来たんだ」

僕はぽつぽつと喋りはじめた野乃花の話を、黙って聞き続けた。

「母さん一人で私を育てるのは大変だから、本当は施設に預けられるところだったんだけど、私は母さんと一緒がいいって、そう言って」
「そうなんだ、大変だったんだね」

僕は言葉が見つからなく、そう言うしかなかった。

「……ごはんを、用意しないといけなくて」
「ごはん?」

「母さんは、昼間はお弁当工場で働いて、夜お店に出ているから、忙しくて。帰っても寝てることが多いから、ごはんづくりも洗濯も掃除も、私の仕事なの。でも私、ご飯の炊き方くらいしかよくわかんないから、こっち来てからは、いつも大型スーパーまで歩いていってお総菜を買ってたんだ」

大型スーパーまでは徒歩でこのあたりから子供の足では十五分以上かかる。毎日行くのは大変だっただろう。

「そんなときに、小宮山くんちのコロッケが美味しいって、クラスの女の子が言ってるのを聞いて」

突然僕のうちの話になって驚いた。野乃花は話し続ける。

「買いに来てみたら、本当に美味しくて。だから、これからときどき買いにくるかもしれないけど、いいかな。ごめんね」

僕は息を大きく吸い込んだ。そういう事情があったのか。息を吐き出しながら、雨音に負けないような大きな声で言った。

「いつでも買いに来てよ」
「ならよかった」

微笑んだ野乃花を見て、僕はあることを思いついた。すぐに言った。

「僕んちもさ、父さんと母さんが忙しいから、家で僕が晩メシつくる係をたまにやるんだ。たぶん宮田さんより、僕料理できるよ。こんど、僕んちに来て、一緒に料理しない?」

「いいのっ?」

野乃花も大きい声を出した。目がまんまるく見開かれている。

「僕、母さんによく料理の基礎を、店の定休日のときに習うんだけど、きっと宮田さんにも教えてくれるよ。家に帰ったら、父さんたちに話してみる。きっと、いいって言うから」

野乃花は「うん、じゃあ、教えてもらいたいな」と言った。喋っているうちに、古びた公営住宅が見えてきた。

「ここまででいいよ。傘ありがとう」

野乃花は僕に傘を返すと、小雨の中を公営住宅への入り口まで走って行った。


僕が家に戻る頃には、雨は上がっていた。夕闇が、ゆっくり商店街にも降りてきていた。『小宮山商店街』の前まで来ると、揚げ物のおいしそうな匂いに、お腹がグーッと鳴った。

「おかえり、諒太」

声をかけてくれた母さんは、汗だくになりながら、一心にコロッケを揚げている。うちのコロッケは三種類あって、ひき肉ポテトに、チーズに、カレーだ。

ひき肉ポテトコロッケは、つぶしたジャガイモの中にひき肉が入り、塩こしょうが効いた味。俵型をしている。チーズコロッケは、コロッケの中にとけたチーズがはいっていて、熱々を食べるとやけどしそうになるけど美味しい。小判型をしてる。カレーコロッケは、つぶしたジャガイモにカレー粉を混ぜ込んである。これはハート型。

常連さんになるとみんな、形から中身をわかってくれる。僕はスパイシーなひき肉ポテトが一番好きだった。

母さんの手が空くのを待って、お店の定休日に、僕と野乃花に料理を教えてほしいことを頼んでみた。野乃花の家の事情も話した。

母さんは店の奥の座面が破れたパイプ椅子に座って、手ぬぐいで汗をふきふき言った。

「そういうことなら、教えるのはもちろんかまわないけど。男の子の家に、女の子が一人で来たら、向こうのお母さんは心配しないかねえ。その子は、友達はいないの?」

「うーん、どうもそれが、まだいないらしくて」
「そうだ!」と母さんが突然にこにこして手を叩いた。
「薫ちゃんも呼べばどう?」

「なるほど、薫ね。あいつ、もしかしたら宮田さんの友達になってくれるかも」

薫の本名は八代薫という。僕らの『小宮山精肉店』がある商店街の同じ並びの、『酒屋やしろ』の娘だった。薫は僕と同い年で、六年三組。上に十も歳の離れた稔兄ちゃんがいた。稔兄ちゃんはすでに『酒屋やしろ』の三代目として、お酒の配達や買い入れに、きびきびと働いている。

薫は気ごころしれた仲、そして稔兄ちゃんは僕の憧れのカッコいい人だった。漫画好きの薫は眼鏡をかけて短い髪をしているが、大人しそうな見掛けとは裏腹に、なかなか気風がよく、さっぱりとした性格の女の子だった。僕は薫と生まれたときからずっと一緒に育ってきた、いわゆる「幼馴染」の仲だ。

薫もたしか、ときどき薫のお父さんに晩酌のつまみをつくってやるために、料理をすると言っていたはず。この話にも、のってきそうだった。

『酒屋やしろ』は、『小宮山精肉店』から、十メートルほど商店街を南に行ったところにある。大きな紺色ののれんがかかっている、町屋づくりの建物だ。

「じゃ、僕、ちょっと薫に聞いてみてくるわ」
「ちょっと待って、諒太」

母さんが僕を引き留める。手早い手つきで、コロッケを四つ、紙袋へと入れた。

「人にお願いするときはね、手土産を持って行かないといけないよ」

さんきゅ、母さん、と僕は言って、温かな紙袋をお腹に抱えると歩き出した。

「こんにちはー」

『酒屋やしろ』ののれんをくぐった僕は、中に向かって声をかけた。二年ほど前に薫のお父さんがリフォームした『酒屋やしろ』は、新しくはあるのだけど、酒蔵の雰囲気満点で、訪れるお客さんも、よく外観の写真を撮っている。

手前のテーブルには、たくさんの種類の地酒の一升瓶が並べられていて、その一つ一つにラミネートされた手書きのポップがついていた。「すっきりとした飲み口で、あとをひく味」だとか「甘めだから、女性におすすめです」だとか。このあいだまではなかった。

「おう、諒太」

中から出てきたのは、稔兄ちゃんだった。身長が高く、体も声も大きい。半袖Tシャツからのぞいたたくましい腕が、トレードマークだった。

「このポップ、兄ちゃんがつくったの?」

思わず聞くと、稔兄ちゃんは照れたように笑った。

「おう。パソコンで作ったんだ。本屋なんかさ、ポップで宣伝してんじゃん。あれをうちの店にも取り入れてみたんだ。お酒を飲みなれてないお客さんも来ることあって、そういうときに、こうやって酒の味をポップに書いておくと、お客さんも選びやすいし、俺もおすすめしやすくてさ。

常連さんにも、好評なんだぜ。今まで飲んだことない銘柄に、チャレンジしてくれる人もいる」

僕が稔兄ちゃんをすごいと尊敬しているのは、このフットワークの軽さだ。良いと思ったものは、すぐに取り入れる。

稔兄ちゃんがこの店の三代目として、二代目のおじさんと一緒に店に立ち始めたのは、たしか今から四年前、稔兄ちゃんが高校を卒業した年だった。それからずっと、稔兄ちゃんは新しい酒屋の顔——いや、商店街の顔になりはじめている。

僕も、いつか稔兄ちゃんみたいにカッコいい三代目になりたい。それが僕の、いま一番の願いだった。

「諒太、なにしに来たんだ? まさか俺のポップだけ見に来たわけじゃないだろう?」

僕はようやくなんのためにこの店に来たのかを思い出した。

「ちょっと、薫に用があるんだ。上にいる?」
「おう。勝手に上がって行けよ」

稔兄ちゃんの了解がとれたので、僕は靴をぬいで店から奥の廊下へ上がり、階段をのぼって薫の自室をめざした。階段を上がってすぐが薫の部屋で、僕がノックすると、薫はすぐに出てきた。

「おお、諒太じゃん。どしたの、なんか用?」
「薫、まずこれ。コロッケ、家族で食べて」
「ありがと。んで?」

「突然で悪いんだけど、六年一組の、宮田野乃花ってわかる?」
「あー、なんとなく、わかる、かも。転校生の子でしょ。その子がどうしたの」

僕はかいつまんで野乃花の家のことと、『小宮山精肉店』の定休日に、僕の母さんから料理を習おうと思っていること、それに薫も参加しないかということを話した。薫の目がきらきらする。

「あ、なんかおもしろそうだね。あたしも行きたい」
「じゃあ、決まりな。とりあえず、定休日は来週の水曜だから、その日の、学校が終わった四時くらいに、うちに集合」

「ん、わかった」

薫はコロッケの袋をがさがさ開くと「あー」と言った。

「このコロッケ、4個ともひき肉ポテトかあ。カレーやチーズは入ってないのね」
「あー、母さん急いでたからなあ。薫はチーズが好きなんだったっけ」
「うん、今度からお土産にはチーズコロッケ入れて、っておばさんに言っといて」
「図々しいな」

僕が笑うと、薫も「なにをっ」と笑った。

「図々しくて悪かったね。チーズコロッケのためなら、あたしゃなんでもやっちゃるよ」
「じゃあ、薫おすすめの漫画コレクションゆずって」
「それは駄目」
「なんでもやるんじゃなかったのかよ」

「やれることとやれないことがあります」
「ふざけんな薫」
「やるか諒太」

そこまで言って僕らは、お腹を抱えて爆笑した。薫とはこういう風に、軽口が叩ける、本当に気兼ねのない仲なのだった。気さくな薫がいれば、きっと料理教室は楽しいだろう、そう思って、僕は笑いながら薫に手を振り、自分の家へと帰った。

翌日、僕は学校が退けるとダッシュで家に帰り、精肉店の手伝いを始めた。

「おっ、あの子が来ると思うと、気合が違うな、諒太」

父さんがからかってきて、図星の僕は言葉もなかった。店の前で元気に呼び込みをし、道行く人を店に誘導して、コロッケや肉を売ったけど、その日野乃花は店に現れなかった。その翌日も来なかった。肩を落とす僕に、母さんが言った。

「そんな、いくらなんでも毎日毎日うちの惣菜を選んでくれるわけないじゃないか。今日はきっと、違うお店に行っているんだよ。どうせ明日、野乃花ちゃんも小学校に来てるんだろうから、会ったときに、誘ったらいいじゃない」

学校で話すのは恥ずかしいんだよ、と心の中で反論したが、料理教室の日取りのことは伝えなくてはならない。人目のない隙を狙って、なんとか声をかけてみよう。そう思って僕は、店の片づけを父さんとやり始めた。

翌朝、小学校に早めに登校した僕は、玄関ホールに誰もいないのを確認してから、家でメモ用紙に書いてきた手紙を、並んだ下駄箱のうちの一つ、野乃花の内ばきズックの中に入れた。中にはこう書いてある。

『小宮山です。来週の水曜日の四時に、僕んちのお店に来てください。母さんが料理を教えてくれます。僕の幼馴染の薫という子も来ます。きっと楽しいよ。待ってます』

告白の手紙ではなかったけど、誰かに見られたらと思うと、顔から火が出るほど恥ずかしかったが、僕にはこの方法しか思いつかなかった。

授業が始まったが、手紙の返事が気になって、何度も上の空になり、担任の春田先生から当てられてもあわあわして答えられなかった。体育の時間では、バレーボールの試合があったが、飛んできたボールに集中できなくて、なんども受け損ねた。こんなことは、普段の僕じゃありえなかった。

放課後、自分の下駄箱に飛んでいくと、僕のスニーカーの中に野乃花から、ノートをちぎった紙で返事が入っていた。その丸くてかわいらしい字に、僕はほほえんだ。

『宮田野乃花です。昨日も一昨日もお店に来られなくてごめんね。ちょっと事情があって。来週の水曜日には、お店に行きます。楽しみにしてるね。』

「ちょっと事情があって」のところに引っかからないわけではなかったけど、僕は野乃花から返事が返ってきたことがとても嬉しかった。

その日も店に飛んで帰り、客引きをした。野乃花は現れなかったけど、僕はがんばって、コロッケを十八個も売った。

水曜日がやってきた。上の空の授業を終えて、学校から飛んで帰った僕を追い立てて、母さんは僕と一緒に台所を綺麗に磨き上げた。流し台をぴかぴかにし、まな板を漂白剤で消毒し、新しい布巾を出し、冷蔵庫を整理した。

「いいかい、諒太。ここまできれいにして、人を呼ぶんだよ」
「へーい」

玄関の引き戸がガラガラと開いたので、僕はすっ飛んでいった。時刻は三時五十分。そこにいたのは、薫だった。

「おお、いらっしゃい」
「宮田さんは?」
「まだ来てない」

「これ。うちのばあちゃんの畑で採れた野菜。お土産返し」
「おお、さんきゅ」

けらけら世間話をして笑う薫と母さんを後目に、僕は野乃花を待っていた。結局、四時を少し過ぎて、野乃花は現れた。

「こん、にちは」

玄関の引き戸が、から、からから、と遠慮深げな音を立てて開かれた音を聞くと、僕は野乃花を迎えに出た。……と、その顔を見て、僕はびっくりした。というのも、右の頬が、痛々しくガーゼで覆われていたからだ。

「宮田さんっ、どうしたの、その顔」

「あの、道で、転んじゃって。そのときに上手く手をつくことができなくて、ほっぺをすりむいちゃったの。先週のことなんだけど、病院行ったりして、ちょっとばたばたしてたら、お惣菜買いにこれなくて。本当は、この顔見られるの恥ずかしかったから、今日来るのやめようかと思ったんだけど、やっぱり、お料理習いたくて」

「そうだったんだ」

後ろから、どやどやと母さんと薫もやってきて、二人ともびっくりしたり心配したりしていた。野乃花はとにかく気を遣い、小さくなってしまったので、僕は、これ以上心配をひきずっても、逆によくないと思い、気をとりなおして、みんなを台所に誘導した。

野乃花と薫は、お互いに自己紹介をすませて、にこにこし始めたので、僕は、話しはじめた。

「今日、みんなに集まってもらったのは、僕の母さんから、料理を習うためです。宮田さんも、僕も、料理が上手くなりたいので、母さんにお願いして、教えてもらうことになりました。スペシャルゲストとして、『酒屋やしろ』の看板娘、薫さんを呼びました」

そこまで言って僕は場を盛り上げようと、

「本日のスペシャルゲスト、ひゅーっ」

と、薫に向かって拍手した。薫は調子に乗り、椅子の上に立つと、腰をくねらせてポーズをとった。母さんが爆笑し、野乃花もこらえきれず笑い出した。僕も薫も、元気のない野乃花に笑ってほしかったから、野乃花の笑顔を見て、少し安心できた。

「じゃあ、さっそくはじめようか」

母さんが、僕らに向かって言った。

「まず、みんなエプロンをつけて。野乃花ちゃんの分のエプロンは、薫ちゃんが二枚持ってきてくれてるから。女の子はみんな髪はゴムでまとめてね。そして、順番に、手を洗って」

母さんの指示通りに、エプロンをつけ、流しでせっけんをつけて手を洗った。

「今日は、豆腐とわかめのお味噌汁と、豚のショウガ焼き、それと小宮山精肉店秘伝のポテトサラダをつくります。ごはんは炊いてあるよ。じゃあ、まず材料の下ごしらえから。野乃花ちゃん、包丁は使える?」

母さんの言葉に、野乃花の顔がちょっと暗くなる。

「包丁は、自信がなくて」

母さんは、みんなにも聞こえやすいようにゆっくりしたスピードで指示を出す。

「じゃあ、一緒にやろうね。ゆっくりやれば、できるから。お豆腐を、野乃花ちゃんとおばさんとで、切ってみます。今日のレシピを印刷してあるから、諒太は、ショウガ焼きようにショウガをすりおろして、ショウガ焼きのたれを計って、合わせておいて。薫ちゃんはジャガイモの皮をむいて、お塩を入れた小鍋でゆでてくれる?」

「はい」
「はーい」
「はいっ」

三人の声が重なり、みんなそれぞれの作業になった。母さんは、野乃花に、包丁のまな板への置き方、正しい持ち方を教えながら、二人で豆腐にゆっくり刃を入れて行ってる。薫がジャガイモをむくスピードが、速い、速い! 

あいつこんなに料理ができたんだ、と今更ながら驚いている僕だった。僕はといえば、ショウガの皮をむいて、おろし金ですりおろす。母さんのつくったレシピを見ながら、計量スプーンを使って、醤油、砂糖、みりん、酒、と順々に計って、おろしショウガのボウルの中に入れた。

「それじゃあ、野乃花ちゃん。塩蔵わかめを、水を入れたボウルにいれて戻して。諒太、冷蔵庫から豚ロースを出して、ほんの少しお醤油とお酒をふりかけておいて。下味になるからね。

薫ちゃん、ジャガイモがゆであがったら、ざるにあけて、ちょっぴりお酢をかけてなじませてくれる? そのあと、きゅうりと玉ねぎを小さく刻んで、お塩を少しかけておいて。ハムも切っておいてくれるとありがたいわ」

自然と、野乃花がお味噌汁の係、僕がショウガ焼きの係、薫がポテトサラダの係になった。たぶん調理の力量順になるように、母さんが気を配ってくれたんだろう。

「野乃花ちゃん、じゃあ、お鍋のお水が沸騰したら、かつお節で出汁をとる。出汁がないと、お味噌汁の味が平たんになっちゃうからね。諒太、コンロに火をつけて、お肉を焼き始めていいよ。

焦がさないように、火加減には気を付けるんだよ。薫ちゃん、つぶしたジャガイモと、野菜とハムをもう合わせてもいいよ。マヨネーズを最後に入れるけど、下味が塩と酢でちゃんとついているから、マヨネーズは少量で大丈夫。

……さあ、野乃花ちゃん、出汁がとれたら、豆腐とわかめを鍋に入れて。最後に、味噌を溶けば完成だ。諒太。肉が焼けたら、おろしショウガだれを回しかけて。……そうそう、たれの水分が少なくなってきたら、こっちもできあがり」

台所じゅうに肉の焼ける匂いと、甘辛いたれの匂いが充満して、僕らのお腹がいまにも鳴りそうだった。お味噌汁の鍋からも良い香りがしている。薫が、さじでポテトサラダをすくって味見をすると、

「すっごい! 本当にいつもの小宮山精肉店のポテサラの味!」と嬉しそうに叫んだ。

僕らはそのあと、父さんも呼んで、五人で食卓を囲んだ。野乃花がつくったお味噌汁はいつもの母さんの味よりも、ちょっぴりしょっぱかったけど、そんなこと気にならないくらい、みんなで食べる手作りごはんは美味しかった。

薫のポテトサラダは店の味にひけをとらないほど絶品だったし、僕のつくったショウガ焼きも、みんな美味しい美味しいと褒めてくれた。それに何よりも、野乃花が食事の間じゅうたくさん笑って、たくさん食べてくれたのが、僕にとっては一番嬉しかった。

ショウガ焼きとポテトサラダの残った分を、母さんはタッパーにつめて野乃花に渡した。

「お母さんにお土産にしてあげてね。そして、お味噌汁は、家でもつくってみてね」

野乃花が、頬を赤くして、花が咲いたように笑ったので、僕の心臓は思わず跳ねた。はじめて、ちゃんとした幸せそうな笑顔を見た。今日の場をセッティングした自分自身を、僕はちょっとだけ誇りに思うことができた。母さんは薫にも、

「畑のお野菜、ありがとうね。うちでたくさん、料理して食べるからね」と言った。薫はというと、

「こんどはコールスローサラダを教えてください、おばさん。いや、おばさんじゃないな、師匠!」

などと言って、僕らをまた笑わせた。僕はとても楽しくて、こんな一日がまた来たらいいなと思ってこう言った。

「じゃあ、次回の料理教室は、三週間後の水曜日、今日とおなじ時間にします!」

野乃花と薫が大きくうなずいて、満足した僕は、皿に残っていた最後のショウガ焼きを口へと放り込んだ。

野乃花はそれから、一週間のうちに二、三回ほどのサイクルで、うちに夕方総菜やコロッケを買いにきている。僕は毎日でも来てほしいんだけど、野乃花がいうには「あんまり来ると悪いから」だそうだ。

家でも、お味噌汁はマスターしたそうで、もらっているお小遣いで、子供向けの料理の本も買ったと言っていた。「早く小宮山くんや薫ちゃんに追いつきたいな」と野乃花が笑ったので、僕はまたドキドキした。

料理教室から一週間しても、野乃花が顔のガーゼをとらないので、僕は心配になって「まだ治んないの、その頬」と聞いた。野乃花はちょっと困ったように笑って「ガーゼをしてると安心するの」と言った。

僕はなんだか野乃花への気持ちを持て余してしまい、雲の上を歩いているような気分で日々を送っていた。

僕は野乃花が好きになっちゃったのかもしれない。かといって、一組のクラスへ行って、声をかける勇気もなかった。情報通の坂野なんかに、この気持ちがばれたら、あっという間に、みんなに知れ渡ってしまう。

あいつはすっごくおしゃべりだから。かといって、母さんや父さんに話すのも、こっぱずかしい。

そう思ったとき、ふいに薫の顔が浮かんだ。僕とずっとずっと兄弟のように育ってきた、幼馴染の薫。相談できるのは、一緒に料理教室をやった、あいつしかいない。

時間はもう夜の六時を過ぎていたが、僕はスニーカーに足をつっこんだ。母さんが、

「こんな時間に、どこに行くのよ、諒太」
と声をかけてきた。

「薫んとこ」

僕が簡潔に答えると、父さんが背後からぬっと表れて、千円札を出す。

「ワンカップ酒、二本買ってきとくれ。銘柄はなんでもいい」
「へいへい」

そう答えて、僕は、夜の帳が降りた商店街へと駆け出した。

父さんご所望のワンカップ酒を買って、袋に入れてもらったあと、僕は薫を、近くの公園まで、美知子おばさんの許可をもらって、呼び出した。漫画を読んでいた途中だった薫は、ぶつぶつ言いながらついてきたが、僕がブランコに腰掛けると、隣で立ち漕ぎを始めた。

「……で、なんだよ、話って」

公園の街灯の下、薫が振って来る。僕はどう相談したものか迷っている。

「えー、と、その、あの、宮田さんの、ことなんだけど」
「宮田さんが、どうかしたん。二回目の料理教室は来週の水曜日で決まりだったんじゃないの」

「それが、あの、僕さ」
「……なに」
「好き、かもしんない。宮田さんのこと」

薫の立ち漕ぎの動きが、ゆっくりゆっくり、止まる。

「……で、それを、あたしに言うんだ」
「は? いいだろ、言ったって。ずっと幼馴染だったんだし。こういう時に、相談できるのって、薫くらいしか……」
「あっそう!」

薫が思い切り不機嫌な声で、叫ぶように言ったので、僕はびくっとなった。
「何、大きな声出してんだよ。びっくりするじゃんか」

薫は、ブランコを降りて僕の前に仁王立ちで立つと、怒ったような泣いてるような声で言った。

「諒太、あたしが、不機嫌になってる意味、わかる?」
「なんだよ、ぜんぜんわかんねーよ」
「……じゃあいい」

薫は不可解なことに、手の甲で目をこすった。……泣いてるのか? どうして?

「諒太のバーカ、もう知らん! 宮田さんもあんたのことが好きなんじゃないの! 勝手にすれば! しばらくあんたとは絶交ね!」
「絶交!?」

薫に絶交なんて言葉を言い渡されたのは、十二年間一緒に生きてきて初めてのことだった。そのまま薫は僕に背を向けて、ダッシュで商店街のほうへと駆け戻っていった。

「——ちくしょう。なんでだよ。こんどの料理教室、どうすんだよ」

公園の街灯に群がる虫たちを、ブランコに腰掛けて見上げながら、僕は途方に暮れて宙をあおいだ。

野乃花への気持ちをどうすればいいかわからないこと、それを薫に相談しようとしたら、ののしられてわけもわからず拒絶されたことで、僕は絶不調だった。いつも旺盛な食欲がない。夜もあまり眠れない。だけど今日は、球技大会でバレーボールの対抗戦だった。体育館には、六年生の全クラスが集まっている。

僕たちのチームが、第一試合だった。僕は思わず、コートの中から、野乃花がコート外から僕のほうを見ていないか、探してしまう。そんなことしてる場合じゃないのに、つい、目をきょろきょろ動かす。

——いた! 陽に透ける、茶色い髪の野乃花が、開け放された体育館のドアにもたれて、こっちを見ている。今日は野乃花も僕と同じ、体育用のTシャツ短パン姿だ。と、確認して僕は気が付いた。野乃花の腕にも、あしの太ももにも、ガーゼが増えていた。どういうことだ? 

「小宮山ッ! ボール!」

ふいに怒号が飛び、僕がはっとコートの正面を見ると、僕に向かって白いバレーボールがものすごい速さで飛んできていた。僕はそれを、思い切り顔面で受けてしまった。思わず、膝を折ってコートに倒れ込んだ。頭がくらくらする。鼻血は出なかった。一組担任の山下先生が飛んできて、僕を抱き起した。

「小宮山、保健室に行くぞ」

山下先生は、僕の肩を支えながら、体育館の出口へと歩き出した。

ふっと目を覚ますと、僕はベッドに寝かされていた。まわりをぐるりとクリーム色のカーテンが取り囲んでいる。……ここは、保健室? そうか、さっきボールが顔面にあたって、保健室に来て、ベッドに横になっているうちに眠っちゃったんだ。がばっと起き上がろうとしたとたん、ひそひそ声が、カーテンの向こう側からして、僕は思わず耳をそばだてた。

「……で、宮田の怪我なんですが、どう思われますか」

 この声は六年一組担任の山下先生だ。とすると、宮田というのは、野乃花のことか? 聞き捨てならない内容に、僕は息をひそめて体を固くする。

「おそらく、頬も、手足のほうも、母親から虐待を受けているんでしょうね。何度かガーゼをとりかえさせてもらったんですが、あれは、強くつねったあざだったり、煙草の火を押し付けた痕に違いありません」

今度の声は、養護教諭の斎藤先生の声だった。衝撃の事実に、僕は言葉をなくす。野乃花が、実のお母さんからそんな目に遭っていたなんて。

「宮田に聞いても、自分で怪我したんだ、ってそれしか言わなくて。きっと、母親がそういうように仕向けているか、もしくは、宮田自身が母親をかばおうとしているのでしょう。でも、僕らのほうで、児童相談所に通報したほうがいいかもしれない」

通報? そうしたら野乃花はどうなるんだ? そこまで聞いて、僕は思わず「げほっ」とむせてしまった。カーテンがさっと開けられて、斎藤先生と山下先生が僕をのぞきこんだ。

「小宮山、だいじょうぶか。ゆっくり、起き上がってみて、気持ち悪かったら、言いなさい」

山下先生の声に、僕はそろそろと上半身を起こす。とくに、気分は大丈夫だった。

「山下先生、念のため、小宮山くんを、病院に連れていってくれますか。ご両親には連絡してあるからね。病院で、一応、検査しようね」
「……はい」

僕は今聞いたことを、すぐにでも二人の先生に問いただしたかったが、なんだか聞くのがとても怖かった。児童相談所にツウホウの結果、野乃花がまたどこか遠くに行ってしまうとしたら? ——そうだ、確か野乃花は、最初に家まで送っていったあの日、こんなことを言っていた。

(母さん一人で私を育てるのは大変だから、私は施設に預けられるところだったんだけど、私は母さんと一緒がいいって、そう言って)

結果、施設に預けられてしまうとしたら、野乃花と、会えなくなってしまうのか? 僕は、あまりに不安になり、目に涙をにじませてしまった。斎藤先生が、あわてて僕の背中をさする。

「山下先生、小宮山くん、やっぱり、ちょっと不安定になっているかも。早く病院に連れて行ってあげてください」

「よし、小宮山、いま先生が車を校門まで回してくるから、一緒に病院に行こうな」

僕は斎藤先生に付き添われて校門まで歩き、山下先生の黒い車に乗って、総合病院へと行くことになった。

病院で検査の結果はなんともなかったが、母さんが迎えにきてくれて、僕は帰宅した。

「今日一日は安静にしてなさい。お店のほうは大丈夫だから、ゆっくり休んで」

布団を敷いて自室に寝かされたが、僕は悔しさと無力感でいっぱいだった。僕も野乃花も、まだ親の庇護のもとにいて、親がいないと生きていけない。もっと僕が大人だったら、僕に野乃花を守る力があったら、怖い親の元からでも、野乃花をさらっていけるのに。

早く、早く、一刻も早く大人になりたい。そう思ったのは、初めてのことだった。そうして、僕は決心した。とても重要な決心を。


翌朝、父さんと母さんは、僕が真剣な面持ちでした宣言を、ぽかんとした顔で聞いた。

「小学校を卒業したら、肉屋を継ぎたい、だと——?」

昨日の夜から、僕の気持ちは一ミリも変わらない。

「あのな、諒太。義務教育って中学卒業までなんだぞ。これは、親が子供に中学卒業までは教育を受けさせなくてはならないという義務なんだ。父さんたちは、まずこれを守らないといけない。

それに、高校卒業してから肉屋を継いだってかまわないし、大学だって、父さん母さんは出してやるつもりでいるんだぞ。なにをお前、それを、小学校しか出ないで、継ぐなんて…わっはっはっは」

真面目な顔つきで話していた父さんが、最後はこらえきれず笑い出したのを見て、僕はめちゃくちゃ悔しくなる。

「僕は真剣なんだ! 父さん、真面目に聞いてよ! 僕に肉屋を継がせてよ! 早く大人になりたいんだ!」

思わずわぁっとぶちまけた僕に、母さんが訊く。

「諒太。何か、あったんだろう? そんなに、大人になるのを急ぎたい訳が。いったい、何があったのか、聞かせてごらん」

母さんの、温もりのある言葉に、僕は、ぽつぽつと、昨日保健室で聞いてしまった野乃花の怪我の訳、そして、先生たちが、児童相談所に虐待事案として通報しようとしていることを、話した。

早く大人になれば、僕の力で、野乃花を守ることもできるかもしれない。と、そんなようなことを。父さんと、母さんは、うなずきながら、聞いていた。話をすべて聞き終えた父さんが、僕に向かって言った。

「早く大人になりたい、その気持ちは、諒太の中では本物なんだろうな。ただ、人はどんなに大人になりたいと願っても、一足飛びにはなれないんだ。諒太の決心を聞いて、父さんも、諒太が中学生になったら、もっと手伝ってもらってもいいかと思ってきた。もちろん、学業もしながらだぞ。中学生から、店で修行ができるかどうか、父さんから課題を出そう」

「課題っ!?」

「そうだ。その課題に合格したら、諒太が中学生から、もちろん学校に通いながらだぞ、もっといろんなことを教えてやる。だけど、課題が失敗に終わったら、もうちょっと今は学校の勉強を真面目にやりながら、進路についてもう少し考えなさい」

「あんた、で、なんの課題にするの?」

母さんが父さんに訊いた。父さんは、にかっと歯を見せて笑った。

「小宮山精肉店の、新しい定番コロッケを提案すること。これを、一か月以内に、考えてみなさい」


父さんから課題をもらった僕は、やる気まんまんで、いろんなコロッケを考えることにした。まずは、家にある料理の本に、どんなコロッケが載っているか、ざっと調べてみた。インターネットでもレシピを検索する。ほうれん草コロッケ、里芋コロッケ、かぼちゃコロッケ、クリームコロッケ、コーンコロッケなどなど、いろんなものが調べた結果出てきた。

それらを僕は、順番に試作してみる。今日はほうれん草コロッケ、明日はコーンコロッケ、明後日はかぼちゃコロッケ、という具合に。揚げるのは、熱い油を使って危ないため、必ず母さんがそばに着くことになった。一か月の間に、納得いく結果を出さなくてはいけない。僕は、燃えていた。

そして、第二回の料理教室の日程が明日にせまっていた。野乃花のリクエストで、カレー作りを習うことになっていたが、前日になって、薫の母さんである美知子おばさんからうちに電話がかかってきた。

「諒太くん、薫、明日の料理教室は、お腹が痛くて行けないって。野乃花ちゃんと、諒太くんのおばさんと、三人ですすめてって。ごめんねえ。健康優良児すぎるあの子が、お腹が痛いなんてめったにないんだけど、明日は、とりあえず行けないみたいよ」

そうですか、と僕は電話を切った。薫はまだきっと怒っているんだ。だから、お腹が痛いなんて嘘をついて、料理教室に来ないんだ。あいつ、さっぱりしたやつだと思っていたのに、いったいどうしたんだろう。

夕食はこのところ毎日僕の試作のコロッケだったが、父さんは「まずい」とも「うまい」とも一切言わずに、黙々と食べて、

「一か月後に一番納得のいくコロッケを、教えなさい。それで判断する」
というだけだった。

第二回の料理教室には、野乃花は自前のエプロンを持ってきていた。300円ショップで買ったの、と野乃花がいうそのエプロンは、赤い地に白い水玉模様が散っていて、とても300円とは思えないお洒落なものだった。

「薫ちゃんが来れないの、残念だね」という野乃花に、僕は「そうだね」との言葉以外、何も思いつかなかった。

「じゃあ、今日はカレーライスをつくります。野乃花ちゃん、家で包丁の練習してる?」

母さんが訊くと、野乃花は笑った。

「がんばって、いろいろむいたり切ったりしています。ときどき、指先を切っちゃうけど」

と、人差し指のばんそうこうを見せた。

「包丁はね、左手をネコちゃんの手にして、扱ってね」

母さんが指を内側に曲げて見せる。

「よし、じゃあ、諒太と野乃花ちゃんで、野菜と肉を手分けして、一口大に切ってくれる?」

母さんが声をかけて、作業が始まった。野乃花の手つきはまだまだ危なっかしかったが、それでも先日より、包丁遣いはかなり上達していた。きっと家でたくさん練習したのだろう。僕も、ジャガイモやニンジンの皮をむいた。玉ねぎを切るのは目にしみた。

母さんの指示で、野乃花が肉と野菜を、フライパンで炒める。腕を覆うガーゼが嫌でも目についたが、僕は今僕ができることをやろうと思った。

炒め終えた野菜を、大きな鍋に移し、水を入れて煮始める。僕がさっきスーパーで買ってきた、中辛のルーの箱を、開けながら僕はふと浮かんだことを野乃花に聞いた。

「野乃花ちゃんって、あ、名前で呼んでも大丈夫?」
「うん」

「野乃花ちゃんて、すごく、カレー好き? うちのコロッケ、たまにチーズやひき肉ポテトも買うけど、カレーコロッケを買うこと一番多いじゃん。今日のリクエストも、カレーライスだったし、そうとう好きなのかなって」

野乃花は、鍋の中をおたまでかきまわしながら、目を伏せて言った。

「うちの家族が、そろって大好きだった料理が、カレーだったの。あの、父さんも、母さんも、三人でいたときね。父さんはカレーをつくるのが上手で、いつも、トマトとか、ジャムとか、インスタントコーヒーとかを隠し味に入れたりして、すごく上手に作ってた。

でも、お金に困って、最後は人を騙してお金をとって、捕まってしまったの。父さんのカレーが、私も母さんも大好きだったんだけど、もう、父さんはどこにいるかわかんないし、二度と食べられないと思うと、なんか寂しくて。カレーは、家族三人の味だったから」

僕も母さんも、黙って野乃花の話を聞いていた。

「この、髪」といって、野乃花は自分の髪の束をひっぱってみせる。
「家族三人のことを忘れたくなくて、私が、自分で染めたの。みんな、母さんに勝手に染められたんだって噂してるけど」

「何か、髪の色と、家族のことと、関係があるの?」

「父さんも、母さんも、茶色い髪だったから。私もおそろいにしたかったの」

野乃花はぼんやりと鍋をかきまぜながら話し続ける。

「父さんも、優しい人だったのよ。事件は起こしてしまったけど。母さんだって、見た目は派手だけどいい人で」

僕は思わずさえぎって言葉を荒げていた。

「でも、その怪我! 野乃花ちゃんのお母さんがつけたんじゃないの」
「……なんで、知ってるの」

野乃花の顔が蒼白になっていた。

「……ごめん。一組の山下先生と保健室の斎藤先生が話してるのを聞いちゃったんだ」

「母さんは、悪くないの。私が悪い子だったから、叱られただけ。だから、警察とかには言わないで、私と母さんを引き離さないで!」

「野乃花ちゃん」

母さんが野乃花の両肩に、手を置く。そのままぎゅうっと母さんは野乃花を背中から抱きしめた。いいこ、いいこ、とそのまま左右に体を揺らす母さんの腕の中で、野乃花は静かに泣き出した。

「何かあったら、すぐにうちのお店に来ていいんだよ。……さあ、カレーができたから、食べよう。諒太、お皿にご飯を盛り付けてくれる?」

野乃花が静かに泣き始め、僕は、胸がいっぱいになりながら、カレーライスの準備をした。居間の卓袱台に、三人分のカレーライスを並べて、僕らは「いただきます」を言った。父さんは今日は競馬を見に行っていなかった。

野乃花は、鼻をぐすぐすいわせながら、ゆっくりと、スプーンでカレーを口に運び、「おいしいです」と言った。僕はこんな涙の味がするカレーを食べたのは初めてだった。

母さんは、今日も野乃花に、残りのカレーを「野乃花ちゃんのお母さんに」と言って持たせた。野乃花は深くお辞儀をして、帰っていった。

その日の夜、父さんに頼まれて「酒屋やしろ」にワンカップ酒をまた買いに行くことになった。薫からは絶交を言い渡されているから、なんだかお店にいくのも気まずかったのだけど、僕はそのついでに、稔兄ちゃんと話をしたかった。

僕より先に三代目になり、商店街を支えはじめている稔兄ちゃんに、僕の決意を聞いてもらいたかったのだ。

店の番台に座っていた稔兄ちゃんは、僕が「話があるんだ」というと、美和子おばさんと店番を代わり、外に出てきてくれた。僕と一緒に、この間薫と喧嘩した公園まで行って、そこのベンチで話すことになった。稔兄ちゃんは、僕の決心と、父さんから出された課題の話を聞くと、感心したように言った。

「へーっ、諒太が、三代目にねえ」
「まだなれるってきまったわけじゃないよ」
「よく決心したな。偉い、偉い」

稔兄ちゃんが僕の頭を、ぽんぽんなでたので、照れ隠しでつい声が大きくなる。

「子ども扱い、しないでよ」
「ははっ、ごめんな」

稔兄ちゃんはふーっと息を吐くと、懐かしむように夜空を見上げた。

「俺も、三代目を継ぎたいっていったとき、親父に反対されたっけ」
「そうだったの?」

「おう。諒太の父さんは、たぶん具体的なことはなんにもいわなかっただろうけど、この大型スーパーのチェーン店があちこちにできるこのご時世、個人商店なんざ、よっぽどがんばって経営しないと、つぶれちまう。

親父も、おふくろも、『酒屋やしろ』には未来がないと思ってた。でも、俺は、全国の成功してる家族経営の酒屋を、たくさんネットから探して、実際に行ってみたりして、いろいろデータを集めて調べたんだ。そうしたら、小さいところでも、いろいろ工夫して経営に成功してる店もあるってわかった。それを、親父に説明して、継がせてもらったんだ」

「おじさんがしたお店のリフォームも、あれは稔兄ちゃんが言い出したんだっけ」

「そうそう。やっぱり外観って大事だろ。実際、リフォームして町屋風にしたら、雑誌の取材が来たりとか、注目してもらえるようになったし、女性客も増えた。だから、なんでも、あきらめちゃいけねえ。でも、シビアに考えることも大事だ。諒太、俺のほかにも、うちらの商店街で、三代目になった奴がいたの知ってるか?」

稔兄ちゃんの真剣な面差しに、僕は記憶の底をさらった。
「あ……えと、もしかして、松葉寿司の、慎一さんだっけ」

僕は、今はもうシャッターを閉めてしまった「松葉寿司」のお店を思い出した。おじさんとおばさんと二人でやっていた小さな寿司店。だけど、おじさんが倒れて、息子だった慎一さんが急にあとを継ぐことになったけど、失敗してしまった。そう父さんが言っていた。今からたしか、三年ほど前のことだ。

「うん、松葉寿司は、いい店だったけど、慎一さんが、上手く経営ができなくて、借金つくって最後は閉めてしまった。松葉寿司のおじさん夫婦は、いまもシャッターを下ろした家の中で生活しているけど、慎一さんは、前に働いてた都会のほうの有名な割烹の板前に戻ったみたいだよ。仕送りもしてるらしいけど。まあ、いろいろ難しいよな」

「経営、かあ」

三代目になるには、そんなことも大事だったんだ。僕が感心して話を聞いてると、稔兄ちゃんは言った。

「だから、俺だって嫌いだったけど、算数の授業をきちんとやっておくっていうのはとても大事なんだぞ。計算できないと金勘定もできやしないからな」

「へーい」
「ところで諒太、薫と喧嘩してるんだって?」

急に話が薫のことになったので、僕はあたふたした。


「そうなんだ、実は。でもなんで怒らせちゃったのか、よくわからなくて」

僕は薫とのこの間のやりとりを、稔兄ちゃんに説明した。すると兄ちゃんは、
「ははーん。乙女心は複雑だわな」
と言った。僕は意味がわからない。

「どういうことさっ」と聞くと、

「自分の気持ちだけでなく、他人の気持ちもわかるようになったら、一人前ってことさ。諒太、今日は遅いから、明日見舞いにいってやれよ。薫もいやとは言わねえよ。『ピーターパン』のシュークリーム、あいつ好きだからさ、買って行ってやれ。じゃあ、俺、店に戻るわ」

そう言って、稔兄ちゃんはサンダルをぺたぺたいわせながら、夜の道を戻って言った。僕はしばらく立ち尽くしていたが、とりあえず、稔兄ちゃんの言う通り、明日シュークリームを持っていこうと思った。

翌日、僕は学校が終わると、家に帰る前にまっすぐ『酒屋やしろ』に行くことにした。薫に学校で会えたら謝ろうと思っていたのだが、薫は学校も欠席していて、本当に具合が悪いみたいだった。僕は稔兄ちゃんの言う通り、商店街のケーキ屋『ピーターパン』に寄って、薫の大好きなシュークリームを四つ、箱詰めしてもらって、その足で薫の家に向かった。

 紺色ののれんをくぐり、出てきた美知子おばさんに、

「薫、いますか。お見舞いにきたんで、会わせてください」とお願いすると、「二階の自分の部屋で寝てるのよ」と言って、階段を先に上がっていった。僕もあとについていく。

美知子おばさんが薫の部屋のドアをノックして、「諒太君よ」と言うと、薫が中から「どうぞ」と言った。

美知子おばさんは、じゃ、というと、店番をしにまた階下へと戻っていった。

「入るよ、薫」

僕が部屋に入ると、薫は、ベッドの上に起き上がっていた。眼鏡をかけていない。素顔の薫の顔を久しぶりに見て、僕はなんだかまぶしく思った。

「お腹痛いの、まだ治んないの。シュークリーム持ってきた」
「うん」

薫は言葉少なだ。僕は、「他人の気持ちがわかるように」という稔兄ちゃんの言葉を思い出して、思い切って言った。

「こないだは、ごめんな。僕がなんか、無神経なこと、言っちゃったんだな。これからは気を付ける。薫がいないと、つまんないよ。だから、ごめん。仲直りしてよ」

薫はふーっと、息を大きく吐くと、ぽつんと言った。

「女の子になっちゃったよ。なりたくなかったのに」
「え?」

意味がよくわからなくて訊き返した。薫は、最初っから女の子だっただろう?

「お赤飯を炊くんだって、バカみたい」
「え? 赤飯? なんのこと?」
「諒太にはわかんなくていいんだよ」

そう言った薫の横顔が、なんだか寂しそうで、でも大人っぽくも見えて、僕は野乃花に感じる気持ちとはまた別の胸の痛みを感じた。あれ? 薫って、こんなやつだったっけ?

「少女漫画なんて、嫌いだったのに。少年漫画のほうが、ずっと好きだった。男も女もなくて、ずっと諒太とバカやってたかったのに、あたし、女の子になっちゃったよ」

そう言った薫の、次の言葉に、僕は心臓が止まりそうになった。

「……あたし、諒太のことが、好きみたい。だから、こないだ、宮田さんが好きって聞いて、むしゃくしゃして、キレて帰っちゃったんだ。あたしも悪かったけど、諒太も悪いよ。だって、ずっと、気づいてくれなかったんだもん。まあ、あたしも、諒太の告白を聞くまで、自分の気持ちにあんまり気づいていなかったんだけどね」

静かな水面に、ぽつん、ぽつんとしずくを落とすように、話す薫を見て、僕も何か言わなくちゃと思った。

「僕も、薫のこと、大事に思ってるよ。宮田さん……野乃花ちゃんに対する気持ちとは、また別の種類の『好き』だけど、薫のこと、大切だ。こないだは、絶交されて、悲しかったし、今日だって、薫がお腹痛いのは、心配だ。だって、ずっと一緒に育ってきたんだから、大切じゃないわけないよ」

それを聞くと、薫は、少し元気が出たみたいな顔で、ふわっと、きれいに笑った。眼鏡をかけていない薫の笑顔は、なんだかぽっと明かりがそこに灯ったみたいで、僕はいいなと素直に思った。

「野乃花ちゃんは、いなくなってしまうかもしれないんだ」

僕は、野乃花が母親に怪我をさせられていたことや、先生たちが動いていることを、薫にも話した。薫は、神妙な顔をして聞いていたが、「料理教室の第三回があったら、早めに企画しよう」と言ってくれた。

「あたしも、参加するよ、また」
「それは、仲直りしてくれるってこと?」
「そうだよ。あたしだって、宮田さんのことが、そんな嫌いとかじゃないもん。過酷な環境で、よくがんばってるよ、あの子」

僕はベッドの中の薫と、仲直りの握手をした。薫は、シュークリームの袋をちょっと持ち上げて、「ありがとね」と言った。


僕のコロッケの試作づくりは、初めて半月以上が経ったが、まだこれぞというものはできなかった。どれも美味しいことは美味しいのだが「これぞうちの味」といえるコロッケじゃないのだ。

父さんに、太鼓判を押してもらえる味が、あと十日ちょっとで、本当に完成するのだろうか? 僕はいらいらして、粉だらけのエプロンを外し、台所の床に座りこんだ。時刻は夜の9時半を回っていた。

母さんが、台所に入ってきて、僕に声をかけた。

「諒太。がんばるのはいいけど、もうそのくらいに今夜はしときなさい。父さんだって、諒太のがんばりを、ちゃんと見ているよ。だから、今夜は」

ふいに、大きな物音がして、僕も母さんもびくっとなった。誰かが、閉めたシャッターを叩いているのだ。僕ははっとして、母さんと目で合図すると、肉屋の店内に入り、シャッターを押し開けた。立っていたのは、やっぱり野乃花だった。

「諒太くん、おばさん、夜中にごめんなさい。私、私……」

街灯に照らされて野乃花はひどく泣きじゃくっていた。母さんが叫ぶように言った。

「野乃花ちゃん、スカート、血がついてる」

たしかに野乃花の薄いグレーのスカートの一部に、血がついていた。

「怪我してるの? どこ? 見せて」

僕の切迫した声に、野乃花が大きくかぶりを振った。

「これ、私の血じゃないの。母さん、さっき帰ってきたんだけど、トイレでたくさん血を吐いちゃって。母さんを介抱しているときに、私の服にも血がついちゃったの。

私は救急車を呼ぶって言ったんだけど、母さんが、救急車を呼ぶな、このままにして野乃花は逃げろって。あたしが死んだら、あんたも楽になるでしょって。私、どうしていいかわかんなくなって、ここしか来るところがなくて……」

最後の声はもう涙でぐちゃぐちゃになってうまく聞き取れなかった。母さんは、父さんを呼びにいき、父さんもすぐにやってきて事態を呑み込むと、すぐに野乃花から公営住宅の場所と部屋番号を聞いて救急車の手配をした。

そして僕たち家族と野乃花は、母さんの運転する車で、すぐに救急車が向かった先の、市立総合病院の救急外来へと走った。

車の後部座席で、野乃花はぴったりと僕にくっついて震えていた。僕は、顔を上げて、まっすぐにフロントガラスの向こうの前の車、そのテールランプの赤い光を見つめていた。

「胃かいようですね。アルコールの摂りすぎです。命に別状はないですが、しばらくの入院が必要です。患者さんのご家族は、あなた一人ですか?」

研修医らしいまだ若い男の医者が、たんたんと野乃花に言った。野乃花はこくんとうなずいた。バタバタと廊下から足音が聞こえて、六年一組の野乃花の担任、山下先生が息せき切って表れた。「連絡しておいたんだ」と父さんが言った。山下先生は言った。

「宮田、大変だったな。先生が来たから、もう大丈夫だぞ」

野乃花はまた、ぐすぐすと涙をこらえているようだった。僕たちは、野乃花のお母さんが点滴を打たれて眠っている病室に、案内してもらった。母親のそばに、ぴったりとくっつく野乃花を、僕は後ろで立ち尽くして見ていた。

野乃花のお母さんは、長い髪をきれいに巻いていて、化粧もしっかりしていて、目をつむっていても、きれいな人なんだろうなというのがわかった。でも、今は真っ白な顔をしていて、しおれた花のようだった。

父さんと、母さんと、山下先生は、さっきからずっと、廊下で話し合っている。おそらく、野乃花の今後の処遇についてだろう。僕はそんなの、聞きたくなかった。きっと野乃花は遠くにいってしまうんだ。それがわかっているから、なおのこと、つらかった。


入院騒ぎの翌日は土曜日で、夜中まで起きていた僕は、これ幸いと昼までずっと寝ていた。野乃花も、結局、うちの両親が連れ帰り、母さんと同じ和室で寝たそうだった。野乃花は病院にいたがったが、うちの母さんが有無を言わさず連れて帰ってきた。「またいつでもお見舞いにいけるんだから」と。

僕が起き出すと、野乃花はすでにちゃんと着替えをすませて、うちの居間でテレビを見ていた。僕を見ると、少し恥ずかしそうに笑った。

「お邪魔してます」
「いえいえ、ごゆっくり」
「さっき、電話で山下先生と話したんだ。これからどうするか、そしたら、保健室の斎藤先生が、うちでしばらく住まないかって、申し出てくれてるみたいで」

斎藤先生は四十代後半の女性の先生で、ふっくらとした顔立ちのとても優しい先生だ。僕はほっとして「良かったね」といった。

「でも、母さんが退院しても、一緒にまた暮らせるかは、ちょっと難しいみたい。母さんも体調が悪いから、すぐには働けないだろうし、私の怪我、のこととかもあったし、しばらくは斎藤先生のおうちにご厄介になると思うんだけど、そのうち、タイミングを見て施設に行くことになりそう」

「そうか……でも、しばらくはこの町にいられるんだよね?」
「うん、しばらくは。二週間ほどかな」

別れの予感は動かしようもなくあったけれど、あと少しだけ、野乃花との時間を過ごせそうなことが、僕には切なくも嬉しかった。

「諒太—」

母さんが玄関から呼んでいる。「ちょっと待ってね」と野乃花に言い置くと、僕は玄関に出てみた。薫が、そこに立っていた。

「おお、薫。腹具合、治ったの」
「おかげさまで。野乃花……ちゃんも、来てるって、聞いたから」
「うん、いるよ。上がって上がって」

僕が薫を連れて居間へと戻ると、思いがけず野乃花がぱっと嬉しそうな顔になった。

「薫ちゃん!」
「やほー、野乃花ちゃん」

なんだかこの二人、前よりも仲良くなっている。女の子って不思議だなあ、と僕が思っていると、薫は居間の一番テレビ寄りのスペースにどっかりと腰を下ろすと、僕に向かって言った。

「諒太、おじさんからの課題、上手くいってんの?」
「課題?」と野乃花が目をぱちくりさせる。
「なんで、薫が課題のこと知ってんだよ」

僕が慌てると、薫はふふふんと笑った。

「諒太のおばさんとうちの母さんの仲の良さは知ってるくせに。てゆーか、もう商店街じゅうが知ってるよ。肉屋の三代目が『小宮山精肉店』の看板メニューをもうすぐお披露目するってね」

「な、なんか話が大きくなってないか?」
「いよっ、この三代目!」

薫が威勢のいい声でまぜっかえすと、野乃花もくすくす笑って、

「三代目—」

と言った。野乃花にいじられて、ちょっと嬉しい僕だったけど、問題は、当の名物コロッケがぜんぜん形にすらなっていないことだった。新メニューを考えるのがこんなに難しいと思わなかった。

「もう、チーズコロッケのアレンジでいいじゃん。チーズの新メニュー増やしてよ、三代目」

「それは薫がチーズ好きだからだろ、そもそも野乃花ちゃんはカレーコロッケが好きだし、僕はひき肉ポテトがいちばん……あ」

そこで僕の頭にキーンとひらめきが降ってきた。稲妻のように、看板コロッケのイメージが浮かんできたのだった。

僕は薫が自分の家へ、野乃花が斎藤先生の家へそれぞれ帰ったあと、コロッケ作りの最終段階に挑み始めた。父さんと、約束した一か月後は、あと一週間にまで迫っている。アイディアを上手く形におとしこめるかが勝負だった。

ジャガイモも、もういくつ皮をむいただろう。数えきれないほどだった。僕の中で、野乃花の顔、そして薫の顔が交互に浮かんできた。この新しいコロッケは、ぜひ二人にもまっさきに食べてほしかった。

粉だらけのキッチン、卵のしみがついたエプロン、油のはねる音——そのすべてが、大切な記憶になることを感じながら、僕は衣をつけたコロッケを、ゆっくりと一つ、二つと油の中に沈めた。


運命の日。父さんに、課題を提出する日の朝は、ちょうど梅雨晴れの青空がのぞく一日だった。今日は定休日。僕は、客間に座っている父さんのもとに、揚げたての新作コロッケをドキドキしながら運んで行った。

「父さん。新しいコロッケを考えたよ。僕は——」

僕はいったん言葉を切って、正座すると、父さんに向き合う。

「やっぱりこのお店を継ぎたいよ。父さんの言う通り、中学に入ってすぐは無理だとわかったけど、それでも、もっと修行がしたい。経営のことも勉強する。この店の三代目になりたいんだ! ……だから、がんばって新作コロッケをつくってみた。どうか、食べてみてください」

父さんは、無言のまま、こくっとうなずき、揚げたてのコロッケに箸を伸ばした。そのまま口に運び、さくり、さくり、と食べ始めた。

「諒太」

父さんは、僕をまっすぐな目で見ながら言った。

「ジャガイモが、まだ完全になめらかになっていない。具とジャガイモのバランスは、もう少し調整したほうがいい。それに、衣はもっと薄くつけなきゃだめだ。これじゃサクサクしない」

ああ、だめだったのか。僕が、力なく肩を落とすと、父さんは続けた。

「だが——合格だ」
「え!」

「お前が一か月がんばってずっと試作をつくっていたこと、そして、今日完成にまで持ってこれたこと、たしかに、今までになかった新しいものをつくったこと。この三点で、お前は合格だ。お前は父さん自慢の三代目だ」

僕の目に、涙がじわっとわいてきた。

「ただ、お店に出すには、もっと改良が必要だ。それは、今度は父さんと二人で一週間くらいかけて、夜にやってみよう。商店街のみんなが喜ぶ、名物コロッケになるよう、がんばろう」

父さんは、僕に大きな手のひらを伸ばしてきた。節くれだった大きな手。ずっと働いてきた、強い手を。

「中学生になったら、びしびし鍛えるからな。覚悟しなさい」
「ありがとう、父さん!」

僕たちは、がっしりと男の握手を交わした。僕は、強く強く、いつまでも父さんの手をにぎっていた。

「……認められて、良かったね」
 

初夏の河川敷で、野乃花が僕に言った。父さんの課題が合格したので、僕には久しぶりに自由時間ができて、夕方店に総菜を買いに来た野乃花を、河川敷に誘った。

二人がこの町で一緒にいられる時間は、あとちょっとしかなかった。野乃花はここから電車で一時間半ほどの児童養護施設がある街にいくことになった。貴重な今日という日を、大切にしたいと、僕は思い切り深呼吸する。と、野乃花が言った。

「新作コロッケ、私がここにいるうちに食べられるかなあ、食べたいなあ」

「父さんがOKって言ってくれるまでは、店には出せないんだ。でも、なんとか間に合わせたいと思ってるんだけど」

目の前の大きな川の、水面がきらきらと光っていた。隣を歩いている野乃花が、河原の小石につまづき、よろけそうになる。僕が、びっくりして手を伸ばすと、野乃花が僕の手をにぎりかえしてきた。

「野乃花ちゃん、あのさ」

頬が赤くなるのを感じながら、僕はゆっくりと言葉をつむぐ。

「僕、早く大人になるから。肉屋で修行して、がんばって、大人になるから。だから、いまは離れてしまうけど、大人になったら、野乃花ちゃんが、もう一度この町で、できたらこの商店街で住めるように、大人の力でなんとかする。だから、待ってて」

「大人の力?」

その言葉がおもしろかったらしく、野乃花はくすくすと笑いだした。僕は、笑われるようなこと言ったかなあ、と思いながら、頭をかいた。

「お手紙、書くね」と野乃花が言った。
「うん、僕こそ手紙を書くよ」と僕も言った。

そのまま僕らは、川のほとりで、水鳥やサギが羽を休めるのを、ぼんやりと見ていた。お互いの手のひらの乾いたぬくもりを感じながら、ずっと、日が暮れてしまうまで、そこにいた。


野乃花が旅立ってしまう日、僕は駅に向かって、走りに走っていた。お腹に抱えている温かい紙包みが、僕の走りに合わせて揺れる、揺れる! 野乃花が乗るはずの電車の発車時刻が迫っていたが、僕は絶対に間に合わせるつもりでいた。

今朝、父さんと改良した新作コロッケが、お披露目段階にやっときたのだ。父さんだって、この日が、野乃花がこの町にいる最終日だとわかっていたから、がんばって今日の朝に間に合わせてくれたのだった。今日は二人で、朝の五時から起きて、コロッケを作った。

駅の改札にすべりこむと、もう来ていた薫が、

「おそーい!」と僕に向けて怒鳴った。薫の隣に、紺色のワンピースを着た野乃花が、笑顔で待っていた。

「諒太、もう、あと十分で野乃花ちゃんホームに行くんだって! あんたが遅いから、ギリギリまで待ってたんだよ、ここで」

僕は、大きく肩で息をつきながら「ごめん」と言った。

「できたんだ……新しいコロッケが」
「ええっ」「ほんとう」

薫と野乃花の声が重なった。僕はぜいぜいいいながら、二人に向けて紙包みをひとつずつ手渡す。

「わぁ、食べていいの?」

目を輝かせた野乃花に、僕が言う。

「電車の中で食べてもらったらいいんだけど、できたら、今一口食べて、感想を」

僕の言葉に、野乃花と薫が「じゃあ」と目配せをして、それぞれに、コロッケを口に運んだ。さく、さく、と音がする。

「えっ、これ、カレーの中に、チーズ!?」

薫が驚きの声を上げる。

「ひき肉も、入ってる……そうか、ミックスなのね」

野乃花の言葉がすべてを意味していた。カレーとひき肉を混ぜ込んだマッシュポテトの中心から、溶けたチーズが一口噛むとあふれ出るようになっているのだ。

「うん、そうなんだ。うちの定番コロッケ、ひき肉ポテト、カレー、チーズを全部ミックスしたんだ。『小宮山精肉店』の、スペシャルミックスコロッケっていうんだ。三つの味のバランスを整えるのが難しかったけど」

野乃花が、にっこりと笑う。

「これって、私たち三人の好きなコロッケを、一つにしたのね。諒太くんはひき肉ポテトが好きで、私はカレーが好きで」そのあとを薫がひきとった。

「そっか、私はチーズがいちばん好き! やるじゃん、諒太。おいしいよ」
「三人で料理教室やって、三人で笑って食べて、すっごく楽しかったんだ。だから、このコロッケは、僕らの思い出そのものなんだよ」

はっと、薫が腕時計を見た。

「野乃花ちゃん、もう行かなきゃ!」
「ほんとだ、行かないと」

僕は、改めて野乃花に向き直り、笑顔をつくる。

「僕、野乃花ちゃんと会えて、一緒に過ごせて、本当に楽しかった、ありがとう」

横から薫が、言葉を続ける。

「野乃花ちゃん、たまに諒太に会いにきてあげてね。あんまり会いにこないと、私が諒太を、とっちゃうからね?」

「おい、薫」

慌てる僕に、薫は満面の笑みで言葉を続ける。

「それが嫌だったら、たくさんたくさん会いにきてあげてくださいっ」

薫の言葉に、野乃花がぱっと赤くなる。野乃花は、大きな声で言った。

「うん、たくさんたくさん、会いに来る。絶対に来る。諒太くんと薫ちゃんのいる商店街に。だから、二人とも、ずっとこの商店街にいてね」

「もちろん!」「ずっといる!」
僕と薫の声がそろった。

ばいばい、と大きく手を振りながら、改札の向こうへと歩いていく野乃花に、僕と薫も、ちぎれそうなほど手を振った。野乃花の姿がホームへと続く階段の向こうに消えてしまうまで、僕らはずっと手を振り続けていた。

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上田聡子(ほしちか)

小説・エッセイを書いてます。日々のささいなことに光をあてて、温度のある言葉をつづりたい。Amazonkindleで掌編集「言の葉の四季」発売中です。https://goo.gl/EDhBTs  連絡先:satoko_nagai_0328@yahoo.co.jp

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ほしちかの少し長めのお話を集めたマガジンです。
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コメント4件

時間を忘れて読み入ってしまいましたー😌
素敵で考えさせられるお話しをありがとうございました!
読み入ってしまいました☺️
素敵で、でもいろいろ考えました。
とても素敵なお話をありがとうございます!
KEN壱.Sさん 嬉しいお言葉ありがとうございます!何かを感じとってくれたのなら、投稿して良かったです。
かぁびさん 読み入ってくださったとかとても嬉しいです。またよろしくお願いいたします!
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